250.刹那に揺らすモノ
居酒屋領主館──その名を初めて耳にした時から、リネア・デューゼンバーグ伯爵夫人は、王都の貴族社会とは隔絶した、どこか異様な期待を抱いていた。
そして今、実際にその扉をくぐり、耳をつんざくような喧騒の中に身を置いたリネアは、思わず目を見張った。
「いっらっしゃいませ〜!」
「本日、ハヤシライスがオススメでーす!」
「 お安くなってまーす!」
甲高く、しかし澱みのない子供たちの活発な声が飛び交う。彼らは親のいない、あるいは恵まれない境遇の子らだと聞く。
この店の店主、ラルフ・ドーソン公爵は、彼らに仕事と居場所、そして生きていくための術を与えているという。まさに聖人君子、貴族の鑑と称される、その社会貢献の噂は王都にも届いていた。
寄付を申し出た貴族に対しても、「お金は有り余ってますので、お気持ちだけ。ですが……どうぞ、いつでも居酒屋領主館にご来店下さいませ!」と丁重に辞退したという逸話は、彼の謙虚さと高潔さを証明するものとして、人々の感動を呼んでいた。
「さあ! お母様、コチラの席に」
娘のエリカは、その店のスタッフの一員として、誇らしげにリネアと夫のリック伯爵を、予約席へと案内する。
リックは慣れた様子で、すでにこの場の空気に溶け込んでいるが、リネアは多種多様な客たちのざわめきと、その異種混交の光景に、好奇の視線をさまよわせた。
「リネア・デューゼンバーグ伯爵夫人……。はじめまして。ようこそ、居酒屋領主館へ」
その声に振り向くと、若い、不敵な笑みを浮かべた男が立っていた。恐らく彼こそ、
「はじめまして。ラルフ・ドーソン公爵とお見受けしますわ。エリカがいつもお世話になっております」
「いえいえ。さあ、どうぞ! おかけください!」
その応対は、貴族としての流儀としては些か簡易的、というより粗野ですらある。
しかし、リネアはすでに、この場所が貴族社会のしきたりから解放された「特異な場所」であることを理解していた。彼女は貴族としての矜持を一時的に棚上げし、この異文化を楽しもうと決めた。
見渡せば、隣のテーブル席にはリザードマンの三人組が、静かに飲食を楽しんでいる。
「シオカラ、美味すぎる……」
「やっぱり、気持ち悪いの、美味いんだ」
「シロメシとの相性も、ヤバい……」
また奥からは、「ガッハッハっハッハッハ!」と、ドワーフたちの豪快な笑い声が響き渡る。
「すみませんねぇ。騒がしい店でして……」
ラルフが苦笑いしながら頭を下げる。だが、リネアは首を振った。
「いいえ、楽しい場所ですわ。少々、年甲斐もなくワクワクしてしまいます!」
偽りのない、快活な笑みを浮かべたリネアを見て、ラルフは目元を緩めた。
「エリカも、座っていいんだぞ」
ラルフが促すが、エリカは鼻息荒く宣言した。
「ふんっ! 最初は、あたしがお父様とお母様を担当するわよ!」
どうやら、彼女はこの店の店員として、両親に一人前の仕事ぶりを見せたいらしい。
「まあ、どうぞ。ごゆっくり」
ラルフはそう言い残し、喧騒渦巻く厨房へと消えていった。
「お母様、お酒は飲まれます?」
エリカが問う。
正直、リネアは酒が得意ではない。だが、メニューに並ぶ未知の銘酒の数々を眺めていると、
「ぷはぁ~、甘い、爽やか〜! やはり、ハチミツハイボールは良い!」
近くのテーブルの女騎士が、爽快な笑顔を浮かべた。その言葉に、リネアは思わずゴクリと喉を鳴らした。
「私には、あの方と同じモノを……」
リネアの予想外の注文に、エリカは戸惑いつつも
「えっ? わ、わかったわ……」
と応じた。
「今宵はエリカのオススメがあるということだが。どうだ? 先に、スープでも注文しないか?」
リックの提案に、リネアも同意する。口と胃を慣らしておくのは理にかなっている。メニューのスープ欄には、カボチャのポタージュ、オニオングラタンスープ、といったものから、チュウカスープ、たまごスープ、本日の味噌汁、といった、まるで物語の世界に迷い込んだかのような未知の料理名が並んでいた。
頭がクラッとしそうになったその時、再び近くのテーブルの冒険者らしき若者たちが目に入った。
「ふぅ~。ズルズル……。アァァ、やっぱ、寒くなってきたし、とん汁が染みるわぁぁぁ!」
「これに白飯があれば、もう立派な一食だよなぁ」
「ふふふっ、俺は、コレに餅を入れて貰ったんだぜ?」
「なにそれ?! 裏メニュー?!」
彼らが大事そうに抱える茶色いスープは、豊富な具材が煮込まれており、見た目にも豪華だ。その熱々なスープに顔をほころばせる冒険者たちの幸福そうな表情に、リネアは釘付けになった。
その時、エリカが酒を持ってきた。
「はい! お父様は、いつものトリアエズナマで。お母様は、ハチミツハイボールよ!」
リックは即座に、
「スープを注文してよいか? 私はカボチャのポタージュを!」
とエリカに伝え、リネアに尋ねる。
「リネアも決まったか?」
リネアはエリカに顔を寄せ、ヒソヒソと、
「私は、彼らと同じモノを!」
冒険者達を控えめに指差し、とん汁を所望した。
エリカはまたも、
「えっ? ま、まあ。いいけど……」
と戸惑いを隠せない。どうやら、母の食の趣向は、意外にも庶民的らしい。
リネアはハチミツハイボールに口をつける。
シュワシュワと舌を刺激する不思議な炭酸の感触。フワリと香る花のような芳しさ、そして少し遅れて追いつくハチミツの優しい甘さ。
(あらやだ! これ、美味しい!)
酒精はほとんど感じられない。まるで口の中だけが、爽やかな春の草原になったようだ。
やがて、リネアの前にエリカがとん汁のお椀を置いていった。
リネアは周囲を観察し、この形状の器のスープは、直接口を付けるのがこの店の流儀だと理解した。貴族としては背徳感さえ伴う粗野な振る舞いだ。湯気を上げるスープをフーフーと冷まし、そして、一口。
(え?! えぇ?! な、なんなのよ、これは?!)
リネアは静かに、しかし激しく驚愕した。
この複雑な美味を表現する語彙を持たないことが悔しいほどに。
しょっぱい、いや、甘い!
そして芳醇。
まるで大地の底から沸き上がる、大自然の神秘の力。余韻は、生まれ故郷の草原に佇み、土の匂いを実感した幼き日の憧憬を呼び覚ますような、優しさに満ちている。
様々な野菜の苦みと甘み。キノコの旨味。肉を食らっているという、根源的な満足感……。リネアは貴族夫人であることを忘れ、貪るようにとん汁を流し込んだ。
カウンターの中からその様子を窺っていたラルフは、
(血は争えない。ってやつかなぁ……)
と苦笑いを浮かべた。
そして、今宵のメインディッシュ。
娘のエリカが、彼女自身の手で作ったハヤシライスを運んできた。
立ち昇る、茶色いソースと米の甘い香り。
先ほど流し込んだとん汁が、まるで自らの臓腑の中で律儀に消化され、このハヤシライスが入るための容量を確保しているように感じられた。
「ほう! 確かにカレーライスと似ているなぁ!」
という夫の声など、もはやリネアの耳には届かない。
リネアはスプーンを手に取り、それを一掬い。そして、口に運ぶ。
稲妻に打たれた。
脳天から、まさに電撃が走った。
胸の奥で、心臓がドクリと脈打つ。
甘い! ちょっと酸っぱい!
いや、そんな生ぬるい形容詞では語れない。
もはや、長年の読書で培ってきた語彙力は、この一瞬でぶち壊された。
わけがわからないほどの衝撃が、記憶すら飛びそうなほどの感動が、全身を駆け巡る。
その衝撃の刹那、リネアの心に浮かんだのは、たった一つの言葉だった。
(あ、ウチの子、天才かも……)




