248.ハヤシライス
加部千代郎 様
コメント、ありがとうございます!
リクエストに応じて、
ハヤシ、書きましたよ!!
その日、エリカの心臓は朝から小鳥のように騒いでいた。
居酒屋領主館の雑然としつつも活気に満ちた厨房。
彼女は自身の背丈ほどもある大きな寸胴鍋の取っ手を握りしめ、茶色い液体を円を描くように優しく、しかし執拗に撹拌していた。
やがて、その液体をわずかに小皿へと取り、真剣な、ほとんど神妙な面持ちで何度も舌に乗せては、眉根を寄せて味見を繰り返す。
勝手口の扉が開き、この居酒屋の店主にしてロートシュタイン領主、ラルフ・ドーソン公爵が姿を現した。秋の澄んだ光を背負った彼の声は、わずかに呆れを含んでいた。
「熱心だなぁ、まだ昼前だぞ? デューゼンバーグ夫妻が来るのは、確か、あと七時間後とかじゃなかったか?」
そう。今夜、エリカの両親――デューゼンバーグ夫妻が、この居酒屋領主館に揃って来訪するのだ。
「だって、せっかくお母様に食べて貰うんだから、究極の域まで仕上げたいじゃない!」
エリカは寸胴鍋から目を離さず、ドリルツインテールを揺らした。
「そんな味見ばかりしてたら、ご両親に食べて貰う分がなくなっちまうぞ〜」
ラルフは苦笑し、市場で買い込んできた豊穣な秋の果物を作業台に置いた。
エリカは不満げに口を尖らせる。
「むぅ……。本当にコレがベストなのかしら? ……カレーとは勝手が違うわねぇ……」
彼女が今、全身全霊を注いで調理しているのは、自身の代名詞とも言えるカレーではなかった。
エリカの母、リネア・デューゼンバーグは、極度の辛い物嫌い。胡椒の一振りすら舌がヒリヒリしてしまうという。
しかし、エリカはロートシュタイン領で"スパイス・クイーン"の二つ名を持つほどのカレーの第一人者。
自らの名を高めた手料理を、どうしても母親に食べて欲しかった。
甘口カレーも考えたが、スパイスを用いる限り、辛味を完全に排除するのは不可能に近い。
そこで、彼女はラルフに相談を持ちかけた。
そしてラルフは、エリカにカレーに似て非なる美食――ハヤシライスという新たな知識を授けたのだ。
スパイスではなく、デミグラスソースを基盤とするその料理。
そのデミグラスソースの開発と試行錯誤に要したのは、実に十日間の狂奔であった。
ラルフと相談し、ブルホーンのスジ肉と骨、セスの農家から仕入れた赤熟したトマト、タマネギ。
更には各種香草が必要だったが、驚くべきことに、領主館の裏庭に生える謎の"リグドラシル"という樹木がその威力を発揮した。
偉大なるエルフのユロゥウェル曰く、その樹に欲しいものを願いながら魔力を流すと、どんな植物でもその枝に実るというのだ。
この新事実に、魔導研究の第一人者であるラルフは、
(なんだよそれ……。農業革命が起きてしまうぞ……)
と、なぜか憔悴しきっていた。
だが、そんなラルフを尻目に、エリカはデミグラスソースの研究に文字通り没頭した。
ブルホーンだけでなくオークの骨も混ぜてみた。
香草の種類と組み合わせは、何百種類も試した。
ワインの種類、そして米酒を微かに加えることでコクが増すという新発見。
バターに牛脂を混ぜる実験。
"ブラウンルゥ"を作る際に極限まで細かく挽いたパン粉を加えると奥深さが増すという発見。
そして、ご飯との相性を爆発的に高めるための隠し味、醤油と魚醤。
それらはすべて、エリカが究極のカレー開発に勤しんできた、知識と応用力の集大成に他ならなかった。
そして今夜、エリカはその"究極のハヤシライス"を、初めて母親に食べて欲しいと願っているのだ。
ラルフは、彼女の情熱を、呆れるよりもむしろ、畏敬の念を抱きながら感心していた。
(コイツ、奴隷なんだよなぁ……)
時折、ラルフも忘れてしまうが、エリカは厳格な契約の下にラルフの奴隷である。
そろそろ、彼女が自分自身を買い戻し、晴れて自由になれるほどの巨額を稼いでいるはずなのだが、なぜかエリカはそれを目指している気配がない。というより、彼女は極めて自由だ。そして、彼女はカレーで得た莫大な稼ぎを、趣味――いや、生き甲斐とも言えるカレー開発と競馬に惜しみなく投じている。
ラルフは提案した。
「ちょっと、僕も味見してみようか?」
「ん!」
エリカは無言で新しい小皿を差し出した。
ラルフはお玉でその芳しき茶色のハヤシソースを掬い取り、小皿に移す。そして、一口……。
「うっわ! 美味っ!! ナニコレ? 超濃厚!! 白飯食いたい……。えっ?! マジで、ナニコレ?!!!」
彼の目は見開かれ、平静を失ったパニック状態だ。
それは、ラルフが前世で、名店と謳われた洋食屋で食べたハヤシライスに、優に匹敵するかもしれない美味だった。
「そうかしら? ……でも、あたしのいつものカレーの方が、美味しくないかしら?」
ラルフが心底から褒めたというのに、エリカは納得がいかないといった表情でそう返す。
言われてみれば、エリカの作るカレーは、常軌を逸した美味さだ。
ラルフは少々、この天才少女の味に慣れてしまっていたのだ。
さらに、彼女はカレーを包んだパンにパン粉をまぶして揚げるという、ラルフの前世で親しんだカレーパンという形式に、自力で辿り着いた実績もある。
(コイツ、もう早く奴隷じゃなくなって、カレー屋の経営者やれよぉ!)
と、内心で叫ぶが、それを以前口にした際、エリカのドリルツインテールがまさにドリルのようにラルフに襲いかかり、その話は有耶無耶になった。その仕組みは、魔導研究者であるラルフの知識をもってしても未だに謎である。
「しかし。これからできることなんて、たかが知れてるだろ? これでじゅうぶんだと思うがなー」
ラルフは諭すように言った。
「そうねぇ……。もう少し、色々やってみたいことはあるのよねぇ……」
そう呟きながら、エリカは魔導コンロから寸胴鍋を下ろし、どこかへと持ち去った。
ラルフは思う。
まあ、久々の家族水入らず。この居酒屋領主館でエリカは両親に自らの手料理を食べて貰いたいと、純粋に奮闘している。なんと美しい家族愛ではないか……。
ラルフは、一息つき、厨房を出て、領主館二階の執務室に向かった。扉を開けると、
「おかえりなさいませ。旦那様……」
メイドのアンナが恭しく挨拶をしてくれた。
これから居酒屋領主館の開店まで、紅茶でも嗜み、崇高な物思いに耽ろうとしていた。
そんな、ラルフが見た、執務室の光景は――
「なんじゃこりゃあぁぁぁぁぁぁぁ!」
ラルフの絶叫が木霊する。
なんと、執務室の中は、何十個もの寸胴鍋が所狭しと置かれている。
ラルフの執務机の上にも、もはや空きスペースは残されていない。
「エリカ様の、試作品の数々でございます……。もう、保冷庫もいっぱいだそうで……」
アンナは涼しい顔で、まるでティーカップを並べるように、事もなげに言った。
「いや! どんだけ作ってんの?! なんでここに運びこんでんのさ?!」
ラルフが問うと、
「エリカ様は、旦那様が、"いくらでも作ってみろ!"と仰っていたと……。因みに、その瞬間を、私も聞いていましたわ……」
「えっ? 僕、そんなこと、言った?」
「はい、言いましたよ……。確かに聞きました……」
それは、リネア・デューゼンバーグの来訪が伝えられた夜半、ひどくしたたかに酔っていたラルフが、エリカからの相談を受け、
「え〜。はぁ〜? ハヤシライスの試作品? ひっく……。保冷庫がもう空きがないってぇ? そんなもん、この領主館には置く場所いくらでもあるぜ〜!」
と、酔いに任せ、テキトーなことを言ってしまったらしい。
ラルフは、無い記憶の話を突きつけられ、真っ青になった。
「で? 旦那様、この、大量のハヤシライス……。どうするのです?」
と、アンナの眼差しが、なんだかおっかない。
「今夜の、サービスメニュー……だな……」
他に、そんなアイデアしか浮かばない。
「はぁ」と、アンナはため息を一つ。
そして、
「では? いくらで提供するのです? だいたい、エリカ様は旦那様の奴隷なのですよ?! 旦那様が、ちゃんと指示命令、指揮をしてくれませんと! それに、提供メニューに関しての価格設定も、もう少し考えませんこと? いつも、酔っ払って、テキトーに……」
ラルフは、有能なメイドの小言に耳を塞ぎたい気持ちになったが、その素振りを見せれば、火に油を注ぐことになるのは知っていた。
テキトー過ぎる自覚はあるが、もう少し、こう……。
(優しくしてくれないかなぁ……)
と、ラルフはアンナに思う所があるのだった。




