246.器の力
シンシア・シンプソンは、ep.148に出てきています。
絶対的な身分階級が厳格に存在するこの王国において、ロートシュタイン領はあまりにも異質だった。その中心にあるのが、居酒屋領主館――。ここでは、身分の差など霞のように消え失せ、あらゆる客が歓待される。
荒くれ者の冒険者は、テーブルを叩いて叫ぶ。
「なんでもいい! 酒を持ってこーい!」
金に聡い商人は、並べられた肴を見つめる。
「あっ、この干物! これ、ウチの店が扱ってるんですよー!」
貴族は、馴染まない空気に戸惑いつつも好奇心を隠せない。
「ラルフ殿! このブランデーのボトルは売ってもらえんのか? えっ? 変な踊りに参加する気があるかって? ……どういうことだ?」
さらには、亜人までもが、その独自の感性を開陳する。
「ウニ。気持ち悪い、けど美味い……」
「イカも気持ち悪い。けど美味い」
「もしかして、気持ち悪いもの、全部美味い?」
この異常な空気は、店主であるラルフ・ドーソン公爵が治めるロートシュタイン領全体に伝播していた。
街中の酒場では、貴族と冒険者が肩を組み、高笑いする光景が日常と化している。このざっくばらんな人間関係を「けしからん!」と断じる貴族はいる。しかし、"領主館"の営業方針は潔い。「そういうお客様は、無理にいらっしゃらなくて結構!」
だが、風向きは変わる。いつしか、お忍びの王族までがフラリと現れ、酒を酌み交わし、飯を食らう場所になってしまったのだ。
こうなると、事の是非はひっくり返る。
王族は天上人であり、この国の根幹であり、象徴、そして絶対の存在。その一挙手一投足は、全てを正当化する。
そのはずの絶対者が、今、カウンターに座り、酒の棚を指差す。
「おい! ラルフ! そのボトルはなんだ?! また儂に黙って新しい酒を仕入れたなぁ?」
それに対し、店の主であり、ロートシュタイン領主である若者、ラルフ・ドーソン公爵は、一切の畏れをみせない。
「いや、何を仕入れようと店主である僕の自由だけど? 何か? 仕入れた酒の銘柄を全部報告せにゃならん法律でもあるんか? え? ヴラドおじ!」
お忍びとはいえ、やんごとなき国王陛下を「ヴラドおじ」と呼ぶ。その親密さに、かつては貴族たちが目を見開いたものだが、今やそれも過去のこと。
不承不承、この店に王族や他国の貴族との繋がりを求めて訪れた人々は、知らぬ間に「領主館」の蟻地獄に嵌っていく。
未知の酒、未知の料理、未知の音楽、そして、気の置けない飲み仲間――。数日のうちに、プライドと面子こそが全てだった貴族も、小汚いと侮蔑していたはずの冒険者やドワーフたちと肩を組み、「ガハハハ!」と笑い合うのだ。
だが、この「領主館」にも、未だ馴染みきれない厄介な客が存在した。辺境伯家のご令嬢、シンシア・シンプソンである。
彼女は今日も、クレア王妃とその取り巻きたちとテーブルを囲んでいる。しかし、その口から放たれる言葉は、場の空気とは全く異なる。
「ふんっ! 下賤だわ! もう少し、上等なグラスはなくて? このような不細工な土塊で、私に酒を飲ませようと?」
ラルフは、自分が丹精込めて手捏ねしたぐい呑みを「不細工な土塊」と断じられ、思わず涙目になる。
仕方なく、ラルフは棚から慎重に、あるグラスを取り出した。魔導灯の光に透かし、その完璧な造形を確認する。
「では、どうぞ。こちらのグラスを……。ドワーフの硝子職人の名工が生み出した、一級品ですよ……」
ラルフは、シンシアの前に、そっとグラスを置いた。
「ふーん……。一応、こういう物も用意しているのね? いいわ。注ぎなさい、店主……」
と、偉そうに指示する。
ラルフは腹の内で沸騰しそうになりながらも、
「はい……、失礼します、お嬢様……」
と、米酒のボトルを傾け、シンシアのグラスに注ぎ入れる。クレア王妃をはじめ、他の貴族達も、何故だか微笑ましそうに、苦笑いしながらその光景を見守っている。
シンシアは、注がれた液体を注意深く観察する。
「ふんっ! 下賤な酒だとは思ったけれど、悪くはないわね……。香りは、穀物特有の力強さが先に来て、その後は、仄かにスイートピーのような香しさ……。あと、微かにアロエのような青さを感じるわ」
彼女はグラスをクルクルと回し、飲み口から立ち上る香りを楽しんでいる。
ラルフは額に青筋を浮かべた。
(なんだこの女?! 一流ソムリエか何かか?!)
シンシアは、薄い唇をグラスに付け、その透明な液体を全身全霊で味わう。
その時、店内に、快活なエリカの声が響いた。
「ちょっとラルフぅ! ご飯炊きなさいよー! もう無くなりそうよ!」
ラルフは一瞬で冷静になった。
(あっ。奴隷なのに……、もっと偉そうな奴、いたじゃん……)
いつの間にか、シンシアは、下賤と決めつけた米酒を飲み干してしまっていた。
最高級の葡萄酒なら、いくらでも飲んできた。故に、その舌には絶対の自信がある。しかし、この米酒は、なにかが違った。
(何か、これは違う……)
香りが重要であることは理解している。なのに、この酒の真価は、別のところにある気がしたのだ。
その時、クレア王妃がヒントをくれた。
「米酒、気に入ったみたいね。シンシア嬢……」
「はっ! いえ、確かに、面白いとは思いましたわ。しかし、気に入ったかと言われると……」
シンシアの言葉に、王妃は微笑んだ。
「米酒を、ワイングラスで飲む……。確かに、それも一つの様式かもですね? でも、もっと自由でも良くなくて……」
その言葉は、シンシアには難解だった。
あの無骨な土塊で酒を飲むことだけは、貴族としての矜持が許さない。王妃は何を言いたいのだろうか? 答えの出ないまま、いたずらに時は過ぎた……。
「……相変わらず、下賤な酒場だわ。うるさいし、床もベタベタしてますわ」
そう文句を言いながら、何日も、何日も、何日も、通ってくるシンシアを、ラルフは迎え入れた。
「あ、あのぅ……。来たくなければ、来なくていいんですよ……」
と、一応言ってみるが、まるで聞いちゃいない。
「ふんっ! 店主、今宵は、ブランデーと、火酒を用意しなさい! それと、グラスも色々試したいわ」
「はいよ……」
ラルフは肩を落として、言われるままに応じた。
一応、このご令嬢は、酒器には相当の拘りがありそうだと……。
「グラスといっても、実は色々がある。……ワインを飲むための、ワイングラス。ブランデーを飲むための、ブランデーグラス。様式美といえばそれまでだが、実は、機能美を有している」
ラルフは得意げに解説する。
「むっ? 店主、機能美とは、どういうことですの?」
今夜は、王妃もその取り巻きもいない。カウンター越しに、ラルフと一対一である。
「ワイングラスは、香りを楽しむのに特化した造形だ。そして、ブランデーグラスは、手で包み込み、その体温による温度変化で香りの変化を楽しめるよう、手で包み込める形になってる……」
シンシアは、下賤と決めつけながらも、何故、この店に足が向いてしまうのか。自分の心の矛盾、その一端を垣間見た気がした。
「では、米酒を、最も美味しく飲める、最も優れたグラスは、なんですの?」
彼女はそう質問してみた。
その答え、ラルフの言葉は、シンシアにとってあまりにも意外なものだった。
「ぐい呑み、と言いたいところではあるが、そんな決まりは無い! 好きに飲め!!」
「……なるほど……。でも、私は、貴族です。様式として、最上でなくては……自由など、ない……」
シンシアは、暗い淵に沈むように呟いた。
すると、ラルフは、意表を突く質問を投げかけた。
「魔導車……。好きなんすよね……?」
「えっ? はっ? まあ、はい……」
シンシアは、実は、魔導車に夢中だった。
ロートシュタインで行われた大祭のレースに出場したことさえある。結果は散々だったが……。
「何が好きで、どうやって生きるかなんて、自由ですよ……」
ラルフ・ドーソンは、強い眼差しでそう言った。
その夜、シンシアの記憶は覚束ないものになった。
無骨なぐい呑みで、胸を焼くような米酒を飲み過ぎたせいかもしれない。
ブランデーとかいう火酒を飲んだせいかもしれない。
数日後、シンシアは、ロートシュタインで借りた小屋にて、手捻りで"ぐい呑み"を作っていた。
新しく築炉した窯には、まだ火は点されていない。
小屋の中には、ボロボロの魔導車『シルフィー』が鎮座している。
「お嬢様! やっと、魔導回路を描ける魔導士を見つけ出し、雇いましたよ!」
従者が、恐る恐る告げた。
しかし、シンシアは、その言葉には答えず、獰猛な笑みを浮かべた。
「それで、……あのラルフ・ドーソンに、勝てますの?」
従者の男は、激しく後悔した。
(ああ、やはり、お嬢様を、ロートシュタインに連れてくるべきでは、なかったのだ……)
シンシアは、ロートシュタインの自由な気風に中てられ、貴族令嬢としての生き方を見失った。
それは、彼女にとって、最も幸福な道への逸脱であった。か、どうかは、誰も知らない……。
シンシアは、思う。
(ラルフ・ドーソン!! 私を……、私だけを見ろ! そして、私に、夢中になれ!!)
と、




