245.ヒューズの飲み友達
冒険者ギルドのマスター、ヒューズは、執務室の窓から差し込む夕陽の中、壁の大時計にちらりと目を向けた。針はとうに夕刻を過ぎ、ギルドの受付業務は今まさに終了した頃合いだろう。
階下の受付嬢たちは、カランと音を立てながら締め作業を始めた頃だ。
クエストから帰還した冒険者たちは、ギルドの喧騒を離れ、酒場へとなだれ込んでいるか、あるいは、いつものように、"居酒屋領主館"へと足を向けた者もいるはずだ。
中には、本日得たばかりの金貨を懐に忍ばせ、一夜の逢瀬を密かに求めて、ロートシュタインの夜へと消えていく者たちもいるだろう。
稼いだ金は、酒、食、そして享楽に全て費やしてしまう。
それが冒険者という、刹那的な生き様を是とする者たちの気質だ。
このロートシュタインでは女性の冒険者も少なくないが、彼女たちもまた、稼ぎを己の欲望に忠実に投じる。
ヒューズ自身、かつてはそうした一人であったから、彼らの生き方を誰よりも理解していた。
自らの腕と、剣の天賦の才を自覚し、故郷の村を飛び出して十数年。
一生涯、ダンジョンに潜り、魔獣を狩り続けるのだろう、と漠然と思っていた時期もあった。
人生の転機がどこであったのか、今となっては定かではない。このロートシュタインで一旗揚げようとした時か。あるいは、あの"居酒屋領主館"で、領主ラルフ・ドーソンと出会い、気づけば身分を越えた「飲み友達」という奇妙な関係になってしまったことか。
ともあれ、彼は今や、冒険者ギルド・ロートシュタイン支部のマスターという立場に収まっている。剣を振るう時間よりも、ペンと紙を手に、決裁や書類と格闘する時間の方が長いくらいだ。
それでも、冒険者たちを統率することは、彼にとってさほど困難ではない。彼自身が冒険者であったからだ。
彼らの根源的な欲望に寄り添い、相応の対価を支払う。それだけで事足りる。
様々な柵や忖度に雁字搦めとなった貴族とは違い、彼らはなんと単純明快で自由な生き物だろう。しかし、この地を治める飲み友達、ラルフ・ドーソンもまた、類型に嵌らない「自由」を体現しているように思えるが……。
王都からの依頼書や、山積した決算資料を粗方片付けた、その時。ギルドマスターの静謐な執務室に、ノックの音が響いた。
トン、トトトントン、トン、トン♪
そのリズミカルで音楽的な、陽気な節さえ感じるノックは、あまりにも特徴的で、ドアの向こうにいる人物を即座に知らせる。
ヒューズは、深い、しかし諦念を含んだため息を一つ吐いた。
「……どうぞ……」
扉が開くや否や、出入り業者かと見紛うような軽い口調で、当の人物が名乗りをあげた。
「ちわー、領主でーす」
公爵でありながら、平然とそう言い放つのは、ロートシュタインの領主、ラルフ・ドーソンその人だった。
「何用です、ラルフ様。もう居酒屋は開店している時間でしょうに」
ヒューズの問いかけに、公爵は屈託なく笑う。
「ちょっと、冒険者への依頼を出しにな! そのついでに、たまには飲みに来いよ、と誘いに来た!」
まるで、身分など最初から存在しないかのように。彼の中では、ヒューズを対等な友人として認識しているのだろう。一介の元冒険者と、公爵かつ大魔導士という称号を持つラルフの間には、越えようのない身分の壁があるはずなのに。
「それで、なんの依頼を出したんです?」
ヒューズの問いに、ラルフは何故か困り顔で、手を差し出す。
「これなんだよ……」
ヒューズはラルフの手から依頼書を受け取り、開いた。そこに書かれていたのは、常識外れの、しかし彼らしい文言だった。
"未知の激辛、求む! 辛さに応じて、金貨十枚〜"
「はっ?」
ヒューズは、一瞬、自分の理解が追いつかなかった。
「また、厄介な連中が生まれてしまったのだよ……『辛党』という、味覚の冒険者たちがな……」
そう言いながら、ラルフは、何かを憂うような表情で応接用のソファにドカリと倒れ込んだ。わけがわからないが、心底参っているようだ。
(そもそも、そのような特異な連中を生み出しているのは、ラルフ様ご自身じゃあないのか?)
ヒューズは思わずにはいられない。
これまでも、「ラーメン中毒者」、「甘党」、「ビール党」、「火酒原理主義者」、「蒸留酒新聖教団」、果ては金髪ドリルツインテール少女のエリカを開祖とする「スパイス教カレー派」……。さらには、国王が提唱した「釣りこそ人々の原初の営み」という言葉から派生した「ヒューマンズ・ネイチャー」という思想まで。
すべて、この若き公爵、ラルフ・ドーソンの突拍子もない行動と、好奇心から派生した、謎の主義主張であった。
そして、最も不可解なのは、彼らの間で分断や闘争が、それほど起きていないことだ。
しかし、その理由は明白。
主義主張の違いはあれど、彼らが目指す根源的な欲望はただ一つ。
「美味しいモノを心ゆくまで食べ、幸せに暮らしたい」という、極めて単純なものに尽きるのだ。
その、根源的な欲望を叶える「手筈」を整えることに、この"飲み友達"は長けている。
ラルフはいつものように、面倒くさそうに首をポキリと鳴らし、自らの肩を揉んでいる。まるで、阿呆のようだ。
この、"バカのフリ"をしている領主を、ヒューズは堪らなく好きだった。
ならば自分も、"バカ"になりたい。
"バカのフリ"をして、人々を救おうとするこの人こそ、"本物の為政者"であって欲しいと願う。
彼には、大量殺戮の果てに共和国との戦争を終わらせたという、重い過去がある。
"プロドスの丘の悲劇"。
幾万の命を、その大魔導士としての天賦の才に任せ、滅した男。"殲滅の魔導士"。
その二つ名は、彼が背負う十字架のはずだ。
その罪と業を一人で背負った、この飲み友達の孤独と、狂気と、そして優しさ……。その「バカさ」に、少しでも寄り添えたなら……。
ヒューズはいつも、そんなことを考えていた。
それを知ってか知らずか、ラルフは無邪気に言った。
「書類仕事、まだ終わってないなら手伝おうか?」
しかし、ヒューズは、デスクの上の未処理の書類をちらりと見た後、決断した。明日、受付嬢に小言を言われるのは確定だが、構うものか。
嘘をつく……。
「いや。もう終わった。……久々に、領主館に飲みに行くか……」
その言葉に、ラルフは表情を輝かせた。
「よっしゃ! ブランデーっていう、新しい酒もあるぜ〜! あと、担担麺って激辛ラーメンもあるぞー!」
ラルフはヒューズの肩を力強く叩く。まるで、本当の飲み友達のように。
二つの月が夜空に輝く目抜き通りを、二人は並んで歩く。
ラルフは子供のように無邪気にはしゃいでいる。
ヒューズは、この友人が、ただただ、幸せでいて欲しいと、心から願った。そして、
「あの、焼酎もまた飲みたいし、貝も食いたいなぁ。あとは、シメは……、カレーかラーメンか……」
「今夜は、カレーラーメンってのがあるぜ! エリカとポンコツ三人娘のコラボだってさ!」
ヒューズは、友の賑やかな声を聞きながら、今夜の酒はさぞ美味いだろうと、静かに胸を高鳴らせた。




