235.水上都市の巨大魚⑤
神は言われた。
「海に生まれしもの、空に生きしもの、ここにあれ」
海には魚と"怪物"がうねり、空には鳥が声を放った。 色も形も限りなく、生き物たちは満ちあふれた。
神はそれを良しとして言われた。
「海も空も、生きよ、満たせ」
(出典:旧約聖書『創世記』1章20–22節)
相も変わらず、ロートシュタインでは、"幻の怪魚を求めて"という熱病のようなブームが領内を席巻している。いつしか「ロットン君」と名付けられたその未知の巨大魚は、依然として人前には姿を見せていない。
もし誰かが釣り上げた、あるいは捕獲したとなれば、それは疾風怒濤のごとく領内を駆け巡り、領主であるラルフの元にも瞬く間に報せが届くはずだ。
まだそれが無いという事実は、ロットン君が「未知」のまま、神秘のヴェールに包まれていることを意味し、ラルフは何故か胸中で安堵の吐息を漏らした。
その騒動の中心地、水上都市には、特段大きな異変は無いものの、王都から集結したテイマー魔導士であり魔獣生態学の権威であるヴィヴィアン・カスターを筆頭に、研究者や好奇心旺盛な有識者たちが組織した"ロットン調査団"なるものが、昨夜から現地入りしたという報せがラルフの元に届いていた。
(ロ、ロットン、調査団……?)
前世の記憶の片隅で聞き覚えのある、妙に既視感を覚える組織名に、ラルフは湧き上がるツッコミ衝動を必死で飲み込んだ。
「俺こそが未知を釣り上げてやる!」
「いや! 俺こそが!」
と鼻息荒く、特注の極太釣り竿をオーダーしてまで水上都市に集った釣り師たちの中にも、時間という名の試練に晒され、熱が冷め始めた者がちらほらと現れ始めていた。
待てど暮らせど、彼らのロッドは幻の大魚の弧を描かない。
時折、強烈な引きがあったとしても、釣り上がるのは良型の鯉やナマズばかり。普段であれば両腕で抱えるほどの獲物は、釣り人としての充足感をもたらすはずなのに、彼らはロットン君を夢見ていたが故に、拭い去れない肩透かし感を味わっていた。
しかし、ここで手を引けば、大枚を叩いて誂えた釣り竿が無駄になる。彼らの一部は、ターゲットに確実な大物が狙えるロートシュタイン沖合の岩島へとシフトした。
その結果、ラルフが営む居酒屋領主館に日々持ち込まれる海の巨大魚が増加した。クエやロウニンアジ、さらにはウツボに似た魚、そしてこの世界の固有種と思われる奇妙な魚たち……。それらを捌き、調理しろという無茶振りの増加に、包丁を握るラルフはてんやわんやの状態だ。
それでも、ロットン君への人々の関心は依然として高い。
ラルフ自身も、僅かな時間を見つけては水上都市へ通い、人工湖に釣り糸を垂らしていた。
ふと、隣に現れたヴィヴィアンが、旧友としての親しみを込めた口調で尋ねてきた。
「この人工湖に魚を放流することを決めたのは、ラルフなのだよな?」
「そうだけど?」
ラルフは返答し、ヴィヴィアンの次の言葉を待った。
「放流した魚の種類を聞きたいのだが」
「まずはマス。この近くの河にいるやつだな。養殖のメイン商材だ……。あとは鯉と、ナマズ、ハヤとか、そんなところか……」
「ふむ。なるほど……。その中で、大型化しそうな種類というと……」
ヴィヴィアンは思案顔だ。
「鯉とナマズだろうな。だけど、この人工湖ができて、そいつらが巨大化するほどの年月は経っていない。ヴィヴィアンが何を考えているかはわかるが、……その線は薄いぜ」
「そうかぁ……。では、魔素の影響で魔獣化した魚だとしたら?」
ラルフは目を見張った。
「なるほど……。しかし、それもどうかな。魔獣ならば、なぜ被害が出ていない?漁民から、生簀が破られたとか、誰かが襲われたとか、そんな報告は上がってきていない……」
「そうか。確かに……」
ヴィヴィアンは深く考え込む。
「でもまあ、それはロットン君が存在するという前提の話だろ?」
「まあ、そうなのだが……。では、ロットン君の存在に懐疑的なのか? それならば、なぜラルフ・ドーソンは、そんなぶっとい竿で釣りをしているんだ?」
ヴィヴィアンの問いに、ラルフは曖昧に笑うしかなかった。
「いや。まあ。それは、それかな……」
ラルフの中にも、理屈では説明できない、雄大なロマンが存在するのだ。
「それと……。一つ聞きたいのだが、最初に目撃したのは、ランドルフ第七王子なのだよな?」
「そうだよ」
「"アレ"を、見間違えたということは?」
「は? アレ?」
ラルフはヴィヴィアンが指差す方向を見た。
遠くの浅瀬で、彼のペットであるワイバーンのレッドフォードが、盛大な水飛沫を上げて水浴びをしている。
(そういえば……、アイツの方がよっぽど神秘の塊じゃねーか?!)
ラルフは、自らの飼い主に似て図太い神経を持つ亜竜を、複雑な表情で眺めた。
正体不明の巨大魚と、空飛ぶ巨大な亜竜。その差は明白であるにもかかわらず、ロートシュタインに集う人々は、レッドフォードを見慣れてしまっていた。居酒屋領主館に行けば、庭で律儀にお座りしている姿を見られるし、ラルフに少額を払えば、レッドフォードの背に乗った遊覧飛行を楽しめる、生きた観光スポットなのだ。一部の観光客は物珍しそうに赤い巨体を眺めているが、多くの人々にとって、レッドフォードは既に日常の風景の一部と化していた。
「いやぁ……。ランドルフ王子によると、背びれがあったらしいしなぁ……。いや! 待てよ! ヴィヴィアンさぁ、いつだったか、この人工湖に、テイムしたテンタクルスとかいうバケモンを潜ませていたよなぁ?」
それは、今年の夏に開催したロートシュタイン祭での、悪夢のような出来事だった。
「あの子はもう海に帰した。呼べば来るけどな」
「呼ぶなよ! 気持ち悪ぃ……」
ラルフは、あのヌメヌメとした触手に湖に引き摺り込まれた時の、生理的な嫌悪感を思い出していた。
「むっ、酷い事を言う……。テンちゃんは、ああ見えて凄くいい子なんだ……」
ヴィヴィアンが弁明を言いかけた、その時だった。
ラルフが握る釣り竿が、グンッ! と、まるで巨人の腕に掴まれたかのような強烈な力で引っ張られた。
「えっ!! な、なんだ?!」
しかし、その衝撃は瞬時に消え去り、再び静寂が訪れる。竿を立ててみるラルフ。
「ラルフ! まさか、まさかロットン君が?!」
ヴィヴィアンが期待と焦燥を混ぜた声で慌てふためく。
「いや、違うんじゃないかな……。なんか、引っ掛かってる? 地球を釣っちゃったか?」
そう言いながら、ラルフは竿をグイグイと引いてみるが、糸の先を引き寄せることは叶わない。やはり根掛かりだろう……。彼は盛大なため息をついた。
「でも、引きはあったろう?」
とヴィヴィアンがなおも確認するが、
「糸が、誰かの舟に巻き込まれたのかもな……。だけど、もう、うんともすんとも言わんし。これは、切るしかないかな」
ラルフは何度も強く引っ張ってみるが、針は外れないし、掛かったモノを引き寄せることもできない。
再び深いため息をつき、懐の短剣を探ろうとした、その瞬間。
ラルフの手元、握る竿に取り付けられた糸巻のラチェットが、微に、チリ……チリ……、と、不穏な音を立て始めた。
「ん?」
違和感を感じ、ラルフが手元を凝視した、その時だった。
グンッ!!!!
と、竿が再び激しくしなる。
そして、ジジィィィィィィィィィ! と、設定されたトルクを超えたラチェット構造が、金属的な悲鳴を上げた。
糸の先、針に掛かった"ナニか"が、猛烈な勢いで横っ走りを始めたことをラルフは瞬時に悟り、釣り竿を両手にガシッ! と強く握り締めた。
「ラルフっ!!!」
ヴィヴィアンの悲鳴のような声が、水上都市の静寂を切り裂く。周囲の釣り人たちも、その声と、領主ラルフ・ドーソンに起こる異常事態を察知し、一斉に視線を集中させた。
ラルフが手にした、ドワーフの職人が鍛え上げた超一級品の竿が、今、極限の強度を示すかのように強烈な弧を描く。
そして、ラルフは、
「うっひょ〜! 魚紳さーん!!」
と、誰にも理解されない、前世の記憶から蘇った謎の言葉を雄叫びのように叫び、飛び上がる。
戦いの火蓋は切られた。
ラルフは釣りキチ少年のような澄み渡る光をその目に宿し、幻の巨大魚との戦いに身を投じていった。




