234.水上都市の巨大魚④
領主ラルフ・ドーソンは、執務室の窓から差し込む光の中で、目の前の人物を凝視していた。
その面持ちは、形容しがたい感情のグラデーションを描いていた。諦念、呆れ、そして微かな疲労感。一言で言えば超絶微妙としか表現できない。
デスクの向かい側で、海賊公社の燃える赤髪の船長、メリッサ・ストーンは、活気に満ちた声で朗らかに告げた。
「ということで! しばらく休暇をいただきまして、輸送業務から外れることになりました!」
ラルフは深く、しかし音を立てずにため息を堪えた。
「いや、まあ……いいよ。シフト調節さえちゃんとしてくれれば。……で、メリッサも、例の巨大魚か?」
問い詰められたメリッサは、たちまち意気揚々とした態度を崩し、視線を泳がせた。
「いや、それは、なんというか、その、まあ……。たまには、釣りなど、やってみても、いいかなぁ、なんて」
歯切れの悪い、しどろもどろな言い訳に、ラルフは思わず机を叩きそうになるのをこらえた。
「たまには……? 君は日々の生活そのものが海の上だろう? 釣りなんて、いくらでもできるはずだが?」
突っ込みは空を切る。
メリッサが言い訳に詰まるのは当然だった。何故なら、彼女の逞しい背には、ドワーフの職人謹製と見て取れる、尋常ならざる、ぶっっっっっっっとい、豪奢な釣り竿が背負われていたからだ。
彼女もまた、水上都市の未知の巨大魚に挑む、ロマンを求めし者の一人となっていた。
しかし、その時だった。隣に立つメイドのアンナが、氷のような冷たい眼光をラルフに向けた。
「旦那様こそ、よくもまあ、そんな風にヒトのことが言えますねぇ」
「うっ……」
ラルフは言葉を詰まらせ、たじろいだ。
アンナの視線が突き刺す先、執務机の奥には、下ろしたての、やはりメリッサのものに劣らぬぶっっっとい、漆黒の釣り竿が立てかけられていた。領主ラルフ・ドーソンもまた、一介の釣り人に成り下がっていた。
騒動の端緒は、ランドルフ王子が水上都市の人工湖で未知の巨大魚と遭遇したことだった。まず、冒険者たちが色めき立った。彼らは未知なるものへの飽くなき探究心の塊だ。そして、次に火が付いたのが、釣り好きたちだった。彼らは海の怪物をも釣り上げそうな極太の竿を手に、ロートシュタインの水上都市へと怒涛のように押し寄せていると、ラルフの耳にも連日報告が入っていた。
この特需に沸き返るのが、ドワーフの職人たちだ。本来は武器に使われるはずの魔獣の素材などを惜しみなく用い、堅牢にしてしなやかな究極の釣り竿を生み出し、それが飛ぶように売れているという。さらに、釣り好きの国王の鳴り物入りで、今年の夏にオープンしたばかりの共和国移民夫婦が経営する釣り道具屋も、新店舗オープンの報せが届くほどの活況だ。そして貸舟屋も大忙しで、舟の新造のために、海の冒険者クラン「シャーク・ハンターズ」のメンバーまで駆り出される始末。
人工湖に、未知の巨大魚。それは夢物語でしかない。
ラルフが一番、その地理的、魔術的な制約を理解しているはずなのに。しかし、心の奥底で「もしも……」「もしかすると……」という、領主としてあるまじき甘い予感が芽生え始めていた。
この異世界には、魔法や魔獣が存在する。前世では神秘とされた事象が、ごく当たり前に存在する。ならば、人工湖に突如として未知の巨大魚が現れても、不自然ではないのかもしれない……と。
いつもの如く、ラルフは領主としての書類仕事を瞬殺させると、なんやかんやと理由をつけ、胸の内にウキウキとした高揚感を隠しきれない足取りで、水上都市へと向かった。
昼を少し過ぎて、水上マーケットに到着してみると、そこは人で溢れかえっていた。まるで、夏の大祭の頃に時間が逆戻りしたかのような、熱狂的な賑わいだ。王都や、遠く帝国からも観光客が押し寄せているらしい。元々ユニークな観光地ではあったが、この人の多さは過去最高ではないか。ラルフはそう直感した。
釣り人でない人々をも惹きつける、幻の怪魚というUMA(未確認生物)が持つ、根源的な魅力。
ふと桟橋に目をやると、手摺りから身を乗り出し、水面を凝視する貴族然とした少年がいた。彼は隣に立つ母親らしき女性に尋ねる。
「ねぇ、お母さま。ロットン君、見えないねぇ」
(ロ……、ロットン君?!)
ラルフは呆気に取られ、口を開けたまま立ち尽くした。まさか、未知の巨大魚に、名前がついていたとは……?
少年の母親は、優しげに微笑みながら答える。
「きっと、恥ずかしがり屋のお魚さんなんですよ」
微笑ましい、しかし領主にとっては衝撃的な光景。ラルフは、開いた口が塞がらない。
(いったい、いつの間に、そんな名前がついたんだ?!)
ロットン……。ロートシュタインだから、ロットン君……。
的確なのか、ふざけているのか。そのネーミングセンスの絶妙さが、また無駄に彼の悩ましさを増幅させた。
水辺には、釣り人たちの竿、竿、竿。まるで竿の林だ。水面には無数の小舟が浮かび、静かな熱気を孕んだ釣り糸が垂らされていた。
いつの間にか、ロートシュタインには、謎の釣りブームが訪れていた。
ラルフは釣り場を探しながら、ふと昼食がまだだったことを思い出す。
人波をかき分け、マーケットを進む。すると、物売りたちの威勢の良い声の喧騒を突き刺すように、甲高い少女の声が聞こえてきた。
「ロットンカレーマンいらんかねぇ! ピリッと辛くて、美味しいロットンカレーマンだよ〜!」
その声は、ラルフが毎日毎日、聞き慣れすぎてもはや耳にタコどころかイカまでできそうなほど、聞き慣れた声だった。
喧騒を進むと、案の定、小さな屋台で商いに精を出す、金髪ドリルツインテールの少女、エリカがいた。
「お前さぁ〜、今度は何だよ? そのロットンカレーマンって、どういう商売なんだ?」
盛大なため息と共に、ラルフはエリカに問い掛けた。
「ふんっ! ご覧の通り、ロットンカレーマンよ!」
エリカは胸を張る。
ラルフは保温器に並べられた商品を覗き込む。そこには、ラルフの前世で馴染み深い中華まんのような形状のものが並んでいた。
しかし、コンビニサイズではなく、かなり大きい。大の大人でも、これ一つで十分腹が膨れそうだ。
「で、何がどうロットン君と関係してるんだ?」
「これよ!」
エリカは、商品の一つを持ち上げ、突きつけるように見せびらかした。
「ん? んんん?」
白い饅頭の天辺には、焼きゴテで押された焦げによるイラストが刻印されていた。まるで古代魚のような、獰猛な顔をした魚がデフォルメされていた。
「これが、ロットン君よ!」
その堂々たる物言いに、ラルフは思わず頭を抱えそうになる。
「え、えーっと……。それは、ランドルフ王子の証言を基に描き起こしたのか?」
「そんなわけないじゃない。あくまで、想像よ」
エリカは平然と言い放つ。
「そんで? そのカレーマンの中身は、ロットンの肉を使っているのか?」
「そんなわけないじゃない。……バカねぇ。まだ捕獲されてないでしょ?」
さらっと「バカ」呼ばわりされ、ラルフの怒りのボルテージが上がる。
「勝手にロットン君のネームバリュー使ってるだけじゃねーかぁ?! ロットン君にちゃんと許可取ったのかぁ? 肖像権は? パブリシティ権は?!」
ラルフは勢いのままに捲し立てるが、エリカはどこ吹く風だ。
そもそも、この世界には、不正競争防止法もなければ、商標法も、景品表示法も存在しない。
「うっさいわねぇ。ほら、買うの? 買わないの? 他のお客さんも待ってるんだから!」
エリカが言う。ラルフがふと振り返ると、カレーの芳しき香りに誘われた人々が、ラルフの後ろにひしめき合っていた。
「あっ、すみません……」
ラルフは思わず、待たせてしまった購入希望者に頭を下げる。
「まあ、いいわよ……。ひとつ、あたしの奢りよ、持って行きなさい!」
エリカは、熱々のロットンカレーマンを一つ、ラルフに手渡してくれた。
「あっ。すまんな……」
それを受け取り、素直に退散するラルフ。振り返ると、エリカの屋台には、人々が猛烈な勢いで押し寄せはじめていた。
ラルフはついでに、近くの屋台で薬膳茶を一杯購入し、桟橋のベンチに一人腰掛けた。人工湖に映る秋空。人々のざわめき。そして、釣り人たちの静かで、しかし確かな気迫。
未知の巨大魚騒動は、この水上都市に新たな経済的な活気を生み出した。
その光景は、領主としては好ましい。
しかし、幻とは、いつまでも幻なのだ。種明かしのない、手品なのだ。
では、その手品を、毎回毎回、同じ手順で見せられ続けた人々はどうなるか?
それは、種明かしはされずとも、
飽きるのだ。
この騒動も、同じ。いつか、人々は飽きるだろう。ロットン君がその正体を白日の下に晒さない限りは……。
ロットン君など、存在する可能性は低い。
しかし、「いて欲しい」と、少しだけ思っている自分に気づき、ラルフはやはりエリカの言う通り、"バカ"なのかもしれないと自嘲気味に微笑んだ。
そして、包み紙を開き、ロットンカレーマンを、一口、がぶり! と頬張る。
「えっ! 美味っ! なにこれ?! えッ! 美味っ!!」
中身のカレー餡は、エリカのスパイス研究の集大成と言えるほどの絶品だった。
珍しく、エリカが奢ってくれた逸品。
しかし、
(奢る……? エリカが、僕に?)
その不合理に、ラルフは首を傾げた。
何故なら、確か、エリカは、公爵ラルフ・ドーソンの、奴隷だったのでないか?
その事実を、ラルフもすっかり忘れていたのだ。
(奴隷が、主人に、まんじゅうを、奢る?)
モグモグとカレーマンを頬張りながら、ラルフは悩む。
複雑だ。エリカのスパイスの調合と同じくらい、この構図は複雑怪奇だ。
そして、同じくらいに、未知の巨大魚がもたらす経済効果と、人々の欲望も、捻じれに捻じれて複雑なのかもしれない……。
ラルフは清らかな湖面を眺め続けた。その水面には、秋の青空と、彼の微かに揺れる憂鬱が映っていた。




