233.水上都市の巨大魚③
夜の帳が降りた居酒屋領主館は、酒と喧騒に満ちていた。
冒険者たちの熱気は、今宵、一つの噂によって最高潮に達している。
「おい、聞いたか? 水上都市の湖に、バケモンみてぇな魚がいるんだとか!」
ざわめきに負けじと、低い声が響く。
「ああ、聞いたぜ。冒険者ギルドも、明日から調査に乗り出すらしいぜ」
別の席の男が、テーブルを叩きながら同意する。その言葉には、期待と、わずかな畏怖が滲んでいた。
「魔獣なのかな?」
「さあ、どうだろうな? 魔獣なら、あそこに住んでる連中に被害が出ていそうだが……」
「じゃあ、やっぱりただの魚なのか?」
「あり得ねぇほど、馬鹿デカいらしいぜ。なんでも、小舟より大きいだとさ」
「いったい、どっから来たんだろうなぁ?」
「知らんが、俺は明日から水上都市に通うぜ! そんで、そいつを釣って、この居酒屋領主館で焼いてもらって、食ってやる!」
「そりゃあいいや!」
「ギャハハハハっ!」
野太い笑い声が、居酒屋中にこだまする。
彼らの頭の中には、すでに巨大な魚が炭火で焼かれ、香ばしい匂いを立てる情景が描かれているのだろう。
その噂は、まるで疾風かの如き速さで、ロートシュタイン領全体を駆け巡っていた。ランドルフ第七王子が目撃したという、水上都市の湖面に揺らめく巨大な背びれ。その正体を巡っては、連日、喧々諤々の討論が繰り広げられている。
「あの湖の底に、大穴が空いていて、それが海まで繋がっているのではないか?」
「古代から生き延びていた巨大生物なのではないか?」
「いや、渡り鳥の足に、どこか遠くからこの王国には棲息しない魚の卵がくっついて来て、それがあの場所で孵化したのではないか?」
カウンター越しに肘をついているラルフ――領主にして、この居酒屋の店主――は、客たちの妄想が爆発した討論を呆れ果てた眼差しで見守っていた。
そもそも、あの水上都市の湖は、ラルフが爆裂魔法で地面を吹き飛ばして作った、正真正銘の人工湖なのだ。海に繋がっているはずもなく、古代から生き延びてきた水棲生物がいるはずもなく、そして、何処からか卵が運ばれて来たとして、それが孵化し成長するだけの年月は到底経ていない。
しかし、人々の想像力というのは、まるで無限に湧き出る魔法の泉だ。
その未知に対するロマンは、人々の好奇心を刺激し、架空の物語性までをも生み出す。
居酒屋領主館に集う客たち――冒険者だけに限らず、貴族も、商人、そして外交官としてこの地に留まる諸外国の重鎮たちも――今宵のトピックは、巨大魚(釣りロマン)を求めて、それに尽きるようだった。
ある者は、高級な釣り竿をドワーフの職人にオーダーすると息巻き、ある者は、「水に潜って捕まえてやる」と豪語する(それはリザードマンの戦士だったが)。
ラルフは、その光景を眺めながら、ふと、前世の記憶に思いを馳せた。
前世にも、このような未知の巨大生物騒動は、枚挙にいとまがなかった。どの世界でも、「未知」とは、人々の胸をざわつかせる「ロマン」のファクターなのだろう。
前世で、そのような未確認動物は、
UMA(Unidentified Mysterious Animal)と呼ばれていた。
代表格は、ネス湖のネッシー。
日本にも、屈斜路湖のクッシー、
そして今回の巨大魚騒動と酷似した、山形県鶴岡市の大鳥池のタキタロウ伝説があった。
それを題材とした釣り漫画を読んだ記憶まである。
創作にしろ、学術にしろ、人々の思考をざわめかせるのは、常に未知という要素だ。
しかし、ラルフは知っている。ロマンは、その正体を永遠に明らかにしないことを……。
結局、誰かの見間違い。
勘違い。
あるいは。嘘。
大捜索の果てに、お茶を濁すかのような、結論のない結論。
"どこかでひっそりと、我々の知らない神秘が隠されているのかもしれない"
"我々は、超自然の一端しか、まだ目にしていない"
"俺達の冒険は、これからだ!"
そのようなキャッチコピーなのか、マーケティング戦略なのか、よくわからない言葉遊びがメディアのビジネスとして昇華されていく実情を知っている。
ラルフは、その前世と似たような状況を、心底、うんんんんんんんんざりしながら眺めた。
だが……。ロマンに、罪はない。
それは知っている……。
否!
むしろ、ロマンは好きな方だ……。
そして、この怪魚騒動が、ロートシュタイン領にとってのビジネスチャンスであることも、ラルフは即座に理解していた。
彼は、領主として、ロートシュタインの魅力を広めることには、どんな要素でも利用するという矜持がある。
しかし、彼の脳裏に浮かんだのは、小さな懸念だった。
(正体不明の怪魚ごときでは、弱いのかなぁ)
彼はそう信じていた。
この時、彼は夢にも思っていなかったのだ。この巨大魚騒動が、ロートシュタインを揺るがすほどの、大騒動に発展するなどとは……。




