232.水上都市の巨大魚②
「はぁ? 謎の巨大魚ぉ?」
ラルフ・ドーソン公爵の素っ頓狂な声は、水上マーケットを覆う賑やかな喧騒の波に揉まれ、あっけなく消えていった。
「そ、そ、そ、そうなんです! こんなに、こんなにデッカイっ!!」
ランドルフ王子は、まるで宙に巨大な魚を抱きかかえるかのように両腕を大きく広げ、その場で横移動までしてみせる。湖面に一瞬あらわれた、怪魚と思わしき魚影の大きさを必死に表現しようとする彼の姿は、どこか滑稽でもあった。
「見間違いではないか? モグモグ……」
そう言いながら、鯉の甘露煮を箸先で丁寧に崩し、それを最高のツマミに米酒をゆるりと呑んでいるのは、ミハエル第三王子、すなわちランドルフの兄である。その仕草には、弟の主張を一蹴するような、鷹揚な余裕が見て取れた。
ここは、水上マーケットの岸辺に新しく建てられたばかりの飲み屋の二階。
この地を治めるラルフ公爵と、ミハエル第三王子が、まさに膝を突き合わせ、川魚料理に舌鼓を打ち、グラスを傾けている。
ラルフが前世の知識から導入した、畳のような敷物が敷かれ、靴を脱いで床に直接座るスタイルのこの店は、格式とはおよそ縁遠い、ざっくばらんな空気に満ちていた。
共和国南部民族の文化をヒントに、ラルフやグレン子爵、さらにはウラデュウス国王までもが出資したというこの店は、人々が一つの大皿を囲む、開放的な親密さを是としていた。
「おかみさーん! 酒追加ぁ!」
ラルフは窓の外に身を乗り出し、水面を渡る風に乗せて、大声で注文を飛ばす。
「はいよー! ちょいと待っとくれ!」
威勢のいい返事が階下から響く。地上の店の前には、石を組んだ焼き場があり、共和国の移民らしい、逞しい女性がテキパキと魚を焼き、酒を温めている。その周囲には、その日の仕事を終えた漁民たちが集い、水仕事で冷えた手を火に向け、熱燗のカップを大事そうに抱えながら、来る冬支度について和気あいあいと語らっている。その風景は、人々の営みの温かさに溢れていた。
「ラルフさまも、ミハエルお兄さまも、信じてくれないんですか?」
ランドルフは拗ねたように口を尖らせる。その瞳には、真実を理解されない苛立ちと、僅かな寂しさが揺れていた。
「いやさぁ、信じるとか信じないとかじゃなくてさ。それは、あり得ないんだよなぁ……」
ラルフ曰く、ここは彼が放った爆裂魔法で地面を穿った大穴に水が溜まっただけの、極めて新しい人工湖だ。ここに棲息する水棲生物は、全て人の手で放流されたもの。まだそれほど月日が経っていない以上、この水上都市に、生態系を乱すほどの巨大魚がいるはずがない、というのが彼の論理だった。
「でも。僕は確かに……」
尚もランドルフは言い張る。彼の小さな背中には、目撃者としての確信が重くのしかかっていた。
「本当に魚だったのか? たとえば、足のある水棲生物。そして、巨大化しやすい、つまり、魔獣が棲み付いた、なんてことは?」
ミハエルは、現実的な可能性を冷静に提示する。王族としての教育が、彼の思考を常に論理的に保たせていた。
「モグモグ……。それなら、マスの生簀が無事じゃないだろ?」
ラルフは、マスの塩焼きをつまみながら米酒をぐいっと呷る。その意見は、至極現実的だ。魔獣ならば、既に何らかの被害が出ているはず。
「だけど……。僕は本当に見たんです! 僕が乗る小舟を揺らす程の、大きな魚を!」
その必死なランドルフの訴えに、ラルフとミハエルは複雑な心持ちになってきた。ランドルフはまだ十を少し過ぎた年頃。この多感な時分には、少し誇大妄想に囚われることもあるのでは?
二人の脳裏に、そんな疑念がよぎり始めた、その時だった。
「いや。儂は、ランドルフの言う事を信じるぞ……」
思いがけない声が響いた。
そこに現れたのは、ミハエルとランドルフの父親、すなわち国王だった。
平民風の装いをしている彼は、今は「ヴラドおじさん」という偽名で潜行中なのだろう。
「何しに来た?!!」
思わず、ラルフは公爵としての体裁をかなぐり捨てて叫ぶ。
「一応、儂は国王だからなっ! その不敬な物言いは、どうなんだ?!!」
国王は、親しみを込めた眼差しでラルフを咎める。二人は最早、気の置けないマブダチといった間柄だが、この若き公爵は親しき仲にも礼儀あり、という美徳を時折忘れるフシがあるので、こうして時折釘を刺しておく必要があった。
「おかみー! 儂にも酒と、カニをくれ!」
今度は国王自ら、窓から身を乗り出し、一階にオーダーを通す。すると階下から、
「そんじゃあ、そのロープ引き上げてぇ!」
と女店主から威勢の良い声が返ってきた。
ラルフのすぐ横の梁に結ばれているロープ。その場にいる全員の視線が、ラルフに集中する。
「あー。そうかい……。僕が引き上げるのね?」
諦めたようにため息をつき、ラルフはロープを引っ張り上げる。
その先には、追加の徳利や、鯉の甘露煮の大皿が載せられた盆が、ロープに並行に結びつけられていた。
「ゆっくり~! ゆっくり~!」
女将さんの掛け声。ラルフは、その盆が揺れ、大切な酒がこぼれぬよう、慎重に、慎重に引き上げた。
「よしっ! いいぞ! ラルフ!」
身を乗り出したミハエルが、その盆を確と捕らえてくれる。
「ささっ、父上も、どうぞ。駆けつけ一杯!」
ミハエルは徳利を差し出す。国王は「ふむ……」と呟き、息子であるミハエルからお酌された酒を、一気に呷った。
「で? ヴラドおじ。ランドルフ殿下が見たっていう、巨大魚を信じるって話なんだけど?」
ラルフは、鯉の甘露煮や、川海老の素揚げを並べながら、国王に問い掛けた。
すると、国王は、深く静かな眼差しを湖面に向け、
「これを見てみよ……」
そう言って、ドスンと畳の上に投げだしたのは、一本の太い釣り竿だった。
「これが、どうしたと?」
ラルフは、海老を咥えたまま聞いた。
「その糸は、デーモン・スパイダーの糸を撚って編んだものだ……。それを、切るようなバケモノが、この湖にいる!」
ふと見ると、確かに、その強靭なはずの糸は、無残にも切断されていた。
詳細に話を聞くと、国王ことヴラドおじさんは、この水上都市の離宮で釣りに興じていたという。なかなか魚が掛からない日だったが、やっと本日一発目のヒット。竿のしなりから、おそらく鯉かナマズだろうと推測した。しかし、仄暗い水底で、唐突にその獲物は横っ走りをはじめた。後で考えると、海釣りの際、サメに獲物を横取りされた時と、その引きの感覚が酷似していたとのこと。そして、通常では考えられない、暴力的とさえ言える力によって、糸が切られたのだ。
それを聞いても、ラルフは容易には信じられなかった。
この人工湖に、得体の知れない、生態系の頂点に立つナニかが潜んでいるというのか?
赤黄色に染まり始めた西日と、人々の喧騒がざわめく水上都市の景色を、ラルフはふと横目で見た。水面は、鏡のように静かで、何も映していないはずなのに……彼の胸の奥で、不可解な何かが、微かにざわめき始めていた。




