231.水上都市の巨大魚①
ランドルフ第七王子が、ロートシュタインの水上マーケットを訪れるのは、もはや日常の儀式となっていた。
「マス寿司いらんかねぇ〜! とれたてだよ!」
「特製のウナギの押し寿司もオススメだぜ〜、王子様!」
「そこのお兄さん、今朝とれたての鯉で拵えた鯉汁が旬だぜー!」
食べ物を売る小舟がひしめき合う人工湖の一角。水上に浮かぶ簡素な小屋群は、まるで水面に咲いた花びらのようだ。そこに人々が住み、生を営む喧騒は、王都のそれとは全く異なる、温かみのある生活の息吹に満ちている。器用に細い櫂を操る住民たちの声と、そこに集う観光客のざわめきが、湖面に複雑な模様を描いていた。
ランドルフ王子は、この場所の自由な雰囲気がお気に入りだった。
この日も、彼は護衛も従者も伴わず、少し前に自腹で購入した飾り気のない小舟に立っていた。
長い櫂を水に差し入れ、淀みなく引き回すその手つきは、もはや王族というよりも、この水辺で生まれ育った漁民の少年のようだ。
王族にあるまじき姿だが、彼は周囲の目を全く気にしなかった。
(さて、今日の昼メシは、なんにしようかなぁ?!)
小舟の商人たちを眺めているだけで、迷いは尽きない。
鮮やかな色彩の屋台、鼻腔をくすぐる食欲をそそる匂い。どれもが最高の味を約束していることは、彼がこのマーケットに通い詰める理由だ。
時折現れる、隠れた名物であるカレーパンを売る少女の姿を見つけられれば、それこそが一択なのだが、あいにく、この日はその姿が見えない。
それでも、腹の虫が無視できないほど、水上のグルメが彼の心を捕らえて離さない。
ランドルフは結局、香ばしく焼き上げられたマスの塩焼きと、丁寧に握られたシンプルなオニギリを買った。
そして、自前の小舟を、水上マーケットの密集地から、静寂な沖合へと漕ぎ出す。
湖面の水は銀色に輝き、清澄な秋の空を鏡のように映し出していた。
少し先には、活気溢れる水上マーケット。背後には、彼の身分を象徴する、荘厳な王族の離宮が見える。
権威と平民の、ちょうどその狭間。この静寂に満ちた湖面こそが、ランドルフが心底愛してやまない場所だった。
小舟に腰を下ろし、熱々の塩焼きを頬張り、オニギリに豪快にかぶりつく。距離を置いたマーケットの喧騒は、風に乗って遠い音楽のように耳に届く。
この何者でもない、純粋な静けさ。それは、王位継承権が絶望的に低い(すなわち、王位に就く重責から解放されている)彼の心を、清貧なものへと立ち返らせる、儀式めいた時間だった。
なんともなしに、湖面へと手を差し入れる。パシャパシャと、水面を乱す。その、一瞬の、安らぎの最中だった。
人工湖の、仄暗い底から、ユラリと巨大なモノが浮かび上がってきた。
一瞬、ランドルフは、湖底に沈んでいた太い丸太が水圧で浮上してきたのかと思った。
(いや、違う……!)
本能が警鐘を鳴らし、思わず身の毛がよだつような感覚に襲われ、彼は素早く手を水から引き抜いた。
すると、
「うわっ!」
小舟が大きく揺れた。重心を失い、ランドルフは舟の上に尻もちをつく体勢になった。
水面を切り裂くように現れたのは、巨大な背びれ。そして、その背びれに続く、圧倒的な大きさの、黒くぬらぬらとした背中だった。
それが魚類であることは間違いない。しかし、マスなのか、鯉なのか、あるいはナマズなのか……彼の知る全ての魚の範疇を超越していた。それは、あきらかに自分の身長を優に超える、とんでもない、巨大魚。
なぜ、ここに、こんなモノが存在するのか?
ランドルフは一瞬にしてパニックに陥った。
ここは、ラルフ・ドーソンという伝説的な大魔導士が、爆裂魔法で大穴をあけてできた人工湖のはずだ。そして、ここに棲息する魚は、人の手によって意図的に移植されたはずではなかったのか?
揺れる舟の縁に掴まりながら、ランドルフはただ、その巨大な影が音もなく再び深い湖底へと沈んでいくのを、呆然と見届けることしかできなかった。
彼の穏やかな休日は、一瞬にして、この人工湖の持つ、計り知れない深淵を覗き込んでしまった。




