23.悪役令嬢、カレーに堕つ
その夜の居酒屋領主館は、まさに戦争のような忙しさだった。
「2番テーブルにギョーザ三枚持っていって!」
「5番テーブルのご新規さん誰かオーダーとった?! あーもー、私が行くから。とりあえずエールジョッキありったけ出しといて!」
アンナの怒号にも似た指示が飛び交い、メイドたちが目にも留まらぬ速さで駆け回る。
厨房では、孤児たちがラルフの指導の下、手際よく鍋を振り、中華鍋から香ばしい湯気が立ち昇る。ラルフ自身も、攻撃魔法エアカッターで野菜を次々に刻んでいく。彼の周りでは、瞬く間に千切られた野菜の山ができていく。
「おーい! 青椒肉絲できだぞぉ! 誰か持っていってくれ!」
なぜこれほどまでに混雑しているのか。一つには、メリッサたちが明日から再び航海に出るため、その壮行会を開いているというのもある。海賊あがりの彼らが、豪快に酒を飲み、大声で笑い合う。加えて、東のダンジョンの最下層記録を打ち立てた冒険者たちが、つまりは一山当てたらしい。彼らもまた、その祝杯をあげるために大挙して押し寄せているのだ。
客席と厨房の間を、メイドや孤児たちが縦横無尽に走り回る。そんな中、不意に悲鳴が上がった。
「痛っ! 指切っちゃった!」
厨房の一角で、孤児の一人が包丁で指を切ってしまったようだ。血が滲む指に、ラルフは迷うことなく治癒魔法を放った。
「《低級治癒》!」
淡い光が指を包み込み、傷はあっという間に塞がる。
「ああ、くっそ! おい! エリカ、お前も給仕に出ろ!」
ラルフは、苛立ち混じりに、厨房の隅で皿洗いをしているエリカに声をかけた。
「はっ! いきなりできるわけないでしょ! わたしは貴族よ!」
エリカは、金髪ドリルツインテールを揺らしながら、反論した。
「いいからやれ! 料理をテーブルに間違わずに運ぶだけだ。アンナの言うことを聞けばそれでいいから!」
「私に命令しないでよ!」
「なんでもいいからやれ! さもないと鉱山に売り飛ばすぞ」
ラルフの脅しに、エリカは渋々といった表情で、しかし反論する術もなく頷いた。
「わかったわよ!」
不機嫌そうに返事をしたエリカは、アンナから盆を受け取ると、恐る恐る客席へと足を踏み入れた。
エリカが給仕に出ると、客たちは見慣れない金髪の少女に興味津々だ。
「おっ! 新顔か?」
「お嬢ちゃん、オジサンたちにお酌してくれるかなぁ、けへへへっ」
無礼な言葉をかける客に、エリカは眉をひそめた。
「こんな忙しいのにできるわけないでしょ! あんたたち、自分で注ぎなさいよ!」
エリカの言葉に、客たちは一瞬驚いたような顔をするが、すぐに面白そうに笑い出した。
「お嬢ちゃんこっちおいでぇ、飴ちゃんあげるぜぇ」
「用もないのに呼ばないでよ! 飴は貰っておくわ」
エリカは、客から差し出された飴をひったくるように受け取ると、さっさと次のテーブルへと向かった。
「エリカちゃーん、エール追加ぁ!」
「エリカちゃーん!」
「エリカちゃーん!」
客たちは、わざとらしく彼女の名前を呼び始めた。エリカは、その度に顔をしかめ、吠え返す。
「うっさいわね! あんた達、気安く呼ぶんじゃないわよ!」
雑な接客だが、なぜかエリカは客たちの間で人気者になっていた。おそらく、キャンキャンと吠えるさまが、小型犬のような可愛さを感じるのかもしれない。彼女のドリルツインテールも、その可愛らしさに拍車をかけているように見えた。
深夜になり、ようやく客足が落ち着いてきた頃。ラルフの声が響き渡った。
「よーし! ガキどもは一旦休憩! エリカも休憩だ! 賄い食べちまえ! 今日はカレーライスだ。おかわりもあるぞー!」
ラルフの言葉に、孤児たちが歓声を上げる。一日中働き詰めだった彼らは、空腹を抱えてテーブルへと集まった。
エリカの目の前に出されたのは、とてもではないが、食欲が湧くとは思えない代物だった。
茶色い何かが、白い穀物の上にかけられている。何かとは、とてもではないが、元貴族のレディとして口が裂けても口にできない、「あれ」のような見た目だ。
しかし、その皿から立ち上る香りは、エリカの嗅覚を強烈に刺激した。おそらく、スパイス。しかも、これまでに経験したこともないような強烈な、そして魅惑的な香りだ。
白い穀物、東大陸では「米」と呼ばれているそれからも、なんともほのかに甘そうな、なんともいえぬ香りが漂ってくる。
エリカは、戸惑いながらも、恐る恐るスプーンを手に取った。そして、白い米の上にかけられた茶色い何かを少量すくい、口に運んだ。
その瞬間──。
エリカの頭頂部に、まるで稲妻が落ちたような衝撃が走った。
それまで経験したことのない、複雑な風味。辛味、甘味、酸味、そして旨味が、怒涛のように押し寄せてくる。脳を直接揺さぶられるかのような感覚。エリカの瞳は大きく見開かれ、全身に鳥肌が立った。スプーンを握る手は震え、彼女の口からは、はっ、と小さな吐息が漏れた。




