229.秋の夜と徳利
米の収穫も山場を過ぎ、虫の合唱も次第にその勢いを弱め、夜風は肌を刺す冷たさを増してきた。そんな秋の夜。
「まいどー! ありがとざっしたぁ!」
居酒屋領主館の店主、ラルフ・ドーソンは、千鳥足で帰路につくリザードマンの戦士三人組を、店の戸口まで出て見送った。
深藍の空を見上げれば、半分に欠けた二つの月が、静かに世界を照らしている。
ふうっ、と、ラルフは一つ深く息を吐いた。息はすぐに夜の闇に吸い込まれる。そして、彼は静かに踵を返す。
これからは、夜が深く更ける時間。常連客の中でも、長く居座り、心ゆくまで酒を愉しむ、いわゆる「深酒組」の静かな時間が始まる。
従業員である孤児たち、特に年少組はとうにおネムの時間だ。孤児院に戻る子もいれば、領主館の二階で夢路につく子もいる。その辺りの自由は、ラルフの小さな拘りだった。
数人のメイドとラルフのみで、ゆっくり、ゆっくりと閉店準備が進められる。毎晩、戦場のような賑やかさが繰り広げられる店内で、唯一、ゆったりとした空気が流れる時間帯。
ラルフもまた、愛用の包丁の刃を丁寧にチェックしたり、余り物を保冷庫に仕舞い込んだり、公爵という地位とはかけ離れた、ごく普通の労働に勤しんでいた。その手つきは、日々の営みが培った料理人のそれだった。
「ラルフさまぁ! 熱燗、もう一つくれぇ!」
「こっちにも熱燗!」
と、深酒組から、静寂を破るオーダーが入る。
ラルフは苦笑し、
「はいよー」
と応じる。彼自ら土を捏ねて焼き上げた、素朴な徳利とぐい呑みを用意する。
近頃のトレンドは、まさしくこれ。
"熱燗"だ。
米酒を温めた、ただそれだけの飲み物。
最初こそ、温めた酒という異文化の珍しさから、一部の好奇心旺盛な者しか注文しなかった。しかし、季節が巡り、夜の肌寒さと相まった時、この熱燗の持つ、抗い難い魅力が徐々に人々の心に浸透し始めた。
温められることで、米酒の芳醇な香りがふわりと立ち昇り、冷酒とはまた違った、丸みを帯びた奥深い表情を見せてくれる。
「酒精が強いわけではないが、これはこれで深い味わいがあるな」
「確かにな、この香りは米酒にしかない」
酒豪で知られるドワーフの職人たちも、熱燗をぐいっと一口啜り、その奥深さに感嘆の声を漏らす。彼らのごつごつとした手が、温かい徳利を優しく包む。
また、店内の一角では、
「あっヒャッヒャッヒャッー! 聖教国に帰っちゃったら、もうこんなに美味しいお酒は飲めないわねー、かわいそうにぃぃぃぃぃ!」
「むきぃぃぃぃぃぃい!」
元聖女さまが、新聖女さまを、実に楽しそうに煽り倒している。新聖女さまは今年成人を迎え、未知の米酒という美味を知ったばかりだというのに、聖教国に戻り、聖女としての重い役割を全うしなければならないのだ。その悔しさは、いかばかりか。
「というか、平民! 貴女、なんで聖女じゃなくなったっていうのに、聖魔法の加護が消えてないのよ?!」
「さぁ? 私に聞かれても……」
そう言って、元聖女は小首を傾げる。その仕草は、純粋な悪意ではなく、ただの悪戯心に満ちている。
「じゃあ、まだ貴女も聖女ってことよね?! なら貴女が聖教国に戻りなさいよ! 私はしばらくロートシュタインに滞在していくから!」
「いやですー! なんの為にこの地で私の死を偽装したと思ってるのかしらぁ!」
「もう! やってること滅茶苦茶なんだけど!!」
と、腹違いの姉妹による、なんとも平和な喧嘩が、今夜も居酒屋の片隅で繰り広げられていた。
するとそこへ、二階からエリカが階段を下りてきた。まだ、ほんの少し眠たげな顔をしている。
「コイツらまだ帰らないの? 元気ねぇー」
と呆れたような視線を聖女コンビに向け、保冷庫へと向かう。
「どうした? 眠れないのか?」
と、ラルフは温かい声で問い掛けた。
「今日お昼寝しちゃったのよねぇ」
とエリカは保冷庫の中を覗き込む。
ラルフは、日中、芝生の上でフォレスト・ウルフのお母さんや子狼たちと遊び疲れ、寄り添いながら眠っていたエリカの姿を思い出す。まだ昼間の日差しは暖かかったとはいえ、彼はそっとローブをエリカにかけてやったのだ。夕刻前までぐっすりと寝息を立てていたが、突然ガバッ! と起き上がったかと思えば、「はっ! キーマカレー……」と寝ぼけた顔で呟き、ラルフは腹を抱えて爆笑してしまった。
「なんか飲むか?」
「うん。甘いのある?」
ラルフは、実験的に造ってみた、あの白いドリンクを試してもらおうと思い付く。まだアルコールが飲めない、エリカのようなお子ちゃまにはうってつけの、米から生まれた甘い飲料。
「はいよー」
ラルフはそのカップをエリカの前に静かに置いた。
「これは? 山羊の乳かしら?」
「違う。それは、甘酒だ」
「はっ? お酒?」
「酒と言っても、アルコールは殆ど入っていない」
そう言われても、エリカは疑わしげにその飲み物に鼻を近づけ、クンクンと匂いを嗅いでいる。ラルフは、米農家や、この地に滞在中のエルフ達と協力し、ロートシュタイン産の米麹の開発に成功していたのだ。これは、その米麹を使った、新しい試みの一つだった。
エリカは一口それを飲み込む。
すると、首を傾げたり、もう一口飲んで考え込んでみたりと、その反応は見ていてなんとも興味深いものだった。
おそらく、新し過ぎて、エリカの味覚がその概念を追いつかせられないのだろう。
(まあ、甘酒も好き嫌いがはっきりと分かれる飲み物かもしれないな)
ラルフは、前世の記憶からそう考えた。この世界の住人が、これをどう受け入れるのか、楽しみに思っている。
「ラルフさまぁ! 米酒は、他にどんな銘柄があるんですかい?」
と、冒険者たちのテーブルから、ギルマスのヒューズが声を上げた。
「色々あるよ。セスの親父さんが造ってるのもあれば、デューゼンバーグ伯爵が出資してる農家のもあるし、あとは東大陸から海賊公社が買い付けてきたのも……」
「何っ?! ちょっと待てラルフ殿よぉ、そういう大事なことは先に言わんか!」
とその会話を耳にしたドワーフが、熱燗の徳利を掴みながら声を割り込ませてくる。
「よし、儂らも色々試すぞ!」
と、さらに熱燗のオーダーが怒涛のように入りはじめる。
ラルフは片手鍋をもう一つ取り出し、魔導コンロにかける。鍋の中で徳利が温まり、芳醇な香りが店内に満ちていく。
「あっ、やべっ、徳利とぐい呑み、足りるか?」
と、ラルフは少々焦りだした。メイド達も大半が上がってしまったので、洗い物も給仕も、ほぼラルフが一人でこなすしかない。
しかし、彼の頭には、とっておきの名案が閃いた。
「おーい! 誰か、皿洗いやらないかぁ! やってくれたら今日の分はタダにしてやるぞー!」
その場にいる客の誰かを、文字通り"労働力"として駆り出すという、公爵らしからぬ、実にラルフらしいアイデア。
「あっ! ハイハーイ! 私やりまーす!」
と元聖女さまが元気よく手を挙げる。その顔は、タダ酒への期待に輝いていた。
「はっ! ちょっとぉ!」
と新聖女さまは戸惑いの声を上げる。姉のずる賢さに、純粋な妹はついていけない。
「おう! 頼むわ! いくらでも飲んでいいからさ!」
「イェーイ! タダ酒、タダ酒♪」
と元聖女さまはウキウキと厨房へ向かう。その足取りは軽い。
「ちょ、ちょっとー! 私もやるー!」
と何故か新聖女さまも名乗りをあげる。負けず嫌いの血が騒いだか、それとも血の繋がりか。
秋の夜長は、静かに、そして少しだけ騒がしく更けていく。
ロートシュタインの空には欠けた月が二つ、この居酒屋領主館を見下ろしていた。




