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居酒屋領主館【書籍化&コミカライズ進行中!!】  作者: ヤマザキゴウ


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228/293

228.新たな聖女の過ち

 その日、ロートシュタインには冷たい雨が降っていた。ひときわ粒の大きな、冷たい雨が。大地の熱を奪い去るかのような湿り気が、黒い喪服に張り付く。

遠く、聖教国から訪れたマルシャ・ヴァールは、海を望む崖の上、黒衣の人々の群れの中で立ち尽くしていた。潮風と雨に晒されながら、故・聖女トーヴァ・レイヨンの死を悼む人々が、俯き、静かに祈りを捧げている。彼女たちの敬虔な姿は、まるで濡れた石像のようだ。


 マルシャは、執事が差し出す漆黒の傘の下。腹違いの姉——と聞かされた女の突然の訃報にも、この儀式に自分がいるという事実にも、不思議なほど大した感慨が浮かばなかった。

 ただ、傘の縁を叩く雨音と、肩口を微かに濡らす冷たい飛沫を、ひどく煩わしいと思うだけだ。


 マルシャは、聖教国の荘園主の家に生まれた。つまり、彼女は「選ばれし者」の血を引く、上流階級の娘。幼い頃から、畑の土を触ったこともなく、日差しのもとで汗を流す労働に勤しんだこともない。しかし「蝶よ花よ」という形容は、彼女には当てはまらない。何故なら、聖教国は女神リシュアーナを崇める敬虔な信徒たちで構成されている「はず」だからだ。

 平民より良い生活を送ってきたのは確かだ。それに引き換え、彼女の父は、欲にまみれた、

 まさに権力者だった。

 家の外に愛人をつくり、大教会からの評判を気にし、農奴を働かせて得た金で多額のお布施を払う。母はそれを「当然の対価」として受け止めていたようだ。平民のように暑さや寒さに身を晒して働く必要がない、その特権階級にいることに、文句があろうはずがない。


 そんな母に、マルシャは何度もこう言い聞かせられて育った。


「貴女は将来、聖女としてこの国を守護する者になるのよ! マルシャこそが、リシュアーナ様に選ばれるの!」


 マルシャは、その言葉を疑うことを知らなかった。生まれ育った屋敷の中、父と母、そして執事たち、彼らの賛辞が彼女の世界のすべてだったからだ。父もまた、マルシャが聖女として拝命されることを、自らの権威の証明として信じて疑わなかった。

 そう。あの日までは……。


 大教会に神託が下り、聖女になったのは、あの平民の娘。トーヴァ・レイヨンだった。


 その日以来、父も母も、マルシャを見る目が変わった。愛憎の混じった、冷たい侮蔑の目。ある日、父は酒に酔った勢いに任せ、


「いったいどれほどのっ! お前を、お前を! 聖女に仕立てるためにどれほどの大金を払って来たと思ってるんだ?!」


 とテーブルの食器をすべて払い落とした。陶器の砕ける音と、父の罵声。母とマルシャは執事に促されるまま、二階へ避難した。一階から響く破壊音と怒鳴り声に、二人は肩を抱き合い、ただ震えるしかなかった。

 母は、口元を震わせながら、マルシャの耳元で囁いた。


「ぜんぶ、あんたのせいよ。あんたが、聖女に選ばれなかったから……」


 その言葉を聞いた瞬間、マルシャは自分の心の奥で、何かがカシャンと、決定的に壊れる音を聞いた。


 違う。何かの間違いだ。あの平民の娘だ。トーヴァ・レイヨン。あいつが、何かズルをしたに違いない。そう信じ込まずにはいられなかった。


 荘園で働く農奴たちが、ヒソヒソと噂話をしているのを、以前聞いたことがあった。「トーヴァは、マルシャ様のお腹違いの姉君だ」と。腹違いの意味を執事に質問して困らせたことも、今では遠い過去だ。

 しかし、今ならわかる。


 忌々しい、腹違いの姉が、死んだのだ……。


 この遠く離れた、異国のロートシュタインという地で。


 遺体はない。「偉大なる竜族ドラゴンの御霊を天上に導くため、その身すらも犠牲にし、人としての形を捨て、天に昇った」という。


 彼女を慕っていた聖教国の司祭や官女たちも、雨に濡れながらこの儀式に参加している。聞いた話によると、彼ら彼女らは、このロートシュタインに残るという。その生涯をかけて、聖女トーヴァ・レイヨンの御霊と安寧を、この地に留まり祈り続けるのだ、と。


 マルシャには、まったく理解不能だった。


 死んだ人間に、なんの価値があるというのか? 狂気の沙汰だ。


 マルシャは、そんな愚かな選択はしない。これからが、私の、私こそが、聖女になるための始まりなのだ。雨に濡れた右手の爪を、カチリと噛んだ。思わず、凶悪で野望に満ちた笑みが、口元にこぼれる。


 な、の、に、だ!


「ワッヒャッヒャッヒャッヒャッ! 焼酎は奥深いのなんのって、わたしのオススメは、これ! 焼酎のお湯割りにー、ウメボシー!」


 デロンデロンに酔っ払ったトーヴァ・レイヨンが、真っ赤な顔で臭い息を吐きながら、畳みかけるように捲し立てる。


「なんでお前が生きてるんだ?! この平民が?!!」


 死んだと聞かされた腹違いの姉の、あまりにも元気なその姿に、マルシャは腹の底から大声を上げた。


「ヒャッヒャッヒャー! 死んだと思ったぁぁぁ? ざんねーん、このとおり、ピンピンしてますー!」


 と、真っ赤な顔で煽り倒すトーヴァ。マルシャはわけのわからない状況と、内側から煮えくり返る怒りに、全身を震わせた。


 ここは居酒屋領主館。この王国の、ロートシュタイン領の領主が経営する酒場で、各国からの重鎮も集まる場所だと聞き、情報を求めて訪れてみたのだが、まさか死んだ人間が生きているどころか、ベロベロに酔っているとは思いもしなかった。


 この平民の姉は、聖女の象徴であるはずの長い髪を切り、神官服ではなく色彩豊かな貫頭衣を着ていて、一瞬、知らない人かと思ったほどだ。

 そして、酒に酔うと、これほどまでに「バカ」になるのかと、マルシャは初めて知った。


 マルシャに随伴してきた神官たちも、トーヴァの取り巻き(これも神官服を着ていない元聖教国の官女たちだ)に向かって、驚愕の声を上げている。


「はぁぁっ? お前、神官長の座を狙ってたはずだろぉ!!」


「まあ、前はそんなことも考えてました。だが、今はもうどうでもいいんです。このロートシュタインで生きてくことにしました!」


 彼女らは事もなく、故郷の聖教国に帰らない宣言をした。

 いったい、何があるのだ? この、ロートシュタインに?? 聖教国の使者たちは困惑の極みだ。


 そこへ、この地を治める領主、ラルフ・ドーソンが現れた。


「はいよー。おでん、お待ちー!」


 ラルフは、トーヴァとマルシャの間、テーブルの上に、湯気を立てる"おでん"なる煮込み料理の皿を置いた。


「いや、いやいやいやいや! 聖女としての役割があるでしょう?! それを放棄できると思っているの?神託により、貴女が選ばれたのよ!」


 マルシャは、聖女であることの根源的な意味を、トーヴァに突きつける。


「んんん~? でも、本当は、あんたが聖女になりたかったんだよね?」


 トーヴァの赤い顔が、マルシャの顔を覗き込む。その瞳は、酔っているにも拘らず、妙に透き通っていた。


「……知ってたのね?」


「そりゃあ、ね! 今まで、あんまり話したことなかったけど、一応、姉妹なわけじゃーん!」


 トーヴァは、何故か人懐こい、とびきりの笑顔を向けてくる。それが、マルシャにとっては腹立たしく、憎き姉を一層憎らしくさせた。


「じゃあ、どうしてこんなことを……」


「貴女が聖女になりたいなら、なればいいと思うけど……。聖女って、そんなにいいもんじゃないよぉ? 聖魔法による結界って、命を擦り減らすから」


 姉は淡々と言う。しかし、マルシャにとってはその言葉も耳に入らない。


「でも。それでも。私は、聖女にならないといけないの……。だけど、神託は下らない。……今代の聖女は、平民、貴女のままなの……」


 居酒屋の客たちも、カウンターの調理場に立つラルフも、この二人のやり取りが、ただの姉妹喧嘩ではない、のっぴきならない話だと察し、静かに成り行きを窺っている。


「んじゃあ! 女神様に、お願いしましょう!」


「は? え?」


 マルシャが戸惑う間もなく、腹違いの姉は、客席の床に突如として額づき、聖句を唱え始めた。


「大いなる祝祭の女神、黎明の杯に息づく御方――リュシアーナよ。我が名に宿る聖印を、いまひとたび返しましょう。この身に満ちた光は、妹マルシャへと受け継がれますように。彼女の歩む道が、あなたの祝福に照らされんことを。対価として、ここに捧ぐは、我らが友、森人の結晶。大地に育まれ、焔により磨かれし琥珀の滴――エルフの友とともに醸した、極上の芋の酒にございます。七日に一度、この聖なるボトルを、あなたの御名に捧げましょう。どうか、我らが祈りと酔いを、祝福と笑みで受け給え。燃ゆる大地の香に包まれし、あなたの杯が満ちるまで――わたしはひざまずき、祈り続けましょう」


 聖句が唱え終わるやいなや、店内に神々しい、濃密な光が満ちた。


 そして、神託が下る。


「次なる聖女は、マルシャ・ヴァールである」


 その途端、テーブルの上に置かれていたエルフと聖女さまの実験作、芋焼酎の瓶が、聖なる光に包まれ、音もなく消滅した。


 ラルフ領主を含め、たまたまこの場にいたヴラド国王も、そして各国から訪れていた重鎮たちも、全員がその光景を目撃した。


 彼らが見たのは、まさしく奇蹟だった。


 それも、欲にまみれた奇蹟……。


(この聖女、よりによって、女神を買収しやがったぞ!)


 しかも、その対価は、芋焼酎。


 マルシャは、女神から与えられた聖なる力が自分の内側を満たしていくのを感じながら、なんだか、自分が人生で決定的な間違いを犯している気がしてならなかった。

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― 新着の感想 ―
 女神ィーッ!?(笑)
お酒を供物にするのが流行るんかな?聖教国 女神に認められる酒を造る為に血で血を洗う抗争とかも起こりそう?
まぁどの世界でも、神様ってお酒好きらしいしね 仕方ないね
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