227.ヤバい酒
透き通る秋の空は、氷のように冷たかった。陽が中天に昇り、黄金の光を降り注いでいるにもかかわらず、上空の空気は肌を刺すような峻烈な冷たさを孕んでいる。
巨大な翼竜、レッドフォードはその身を翻し、ロートシュタインの森の奥深くに広がる連山を舐めるように滑空していた。
その背には、一人の人間がまたがっている。まるで馬賊のような、使い込まれて鞣された革のジャケット。そして、風を避けるための厳重なゴーグルをかけたその男こそ、このロートシュタインの領主、ラルフ・ドーソンその人だった。
彼は先日の大水害の原因となった山中の崩落現場を、自らの目で確認しようと思い立ったのだ。
眼下には、大規模に崩落し、赤土の山肌を晒す巨大な壁が広がっていた。あの壁面が崩れ落ちたことで天然のダム湖が形成され、それが豪雨によって決壊し、セスの村へと土砂と濁流を送り込んだのだ。幸いにも、再び鉄砲水を生み出すような危険な堰止めは確認されない。
しかし、ラルフの視線は、その傷跡の奥、山の一部から立ち昇る、奇妙な湯気へと引きつけられた。そして、風に乗って運ばれてきた、その前世で慣れ親しんだ、強烈な臭いが、彼の鼻腔を突いた。
(これは……、硫黄だ。つまり、温泉……)
前世が日本人であったラルフの心は、制御できないほどのざわめきに囚われた。
だが、場所があまりにも奥深い。未踏ではないにせよ、野生動物や、ときに危険な魔獣すら棲息する深山だ。この場所に陸路で安全に行き着けるのは、よほどの凄腕冒険者くらいなものだろう。温泉地として再開発するにしても、作業員、つまり、戦闘力が高くない一般の人足を送り込む必要がある。それはあまりにも現実離れした、危険な選択肢だった。観光地開発のために、尊い命を危険に晒すような領主では、彼は断じてない。
(まっ、そのうちやるかもだしな!)
ラルフは、その発見への固執を、あっさりと手放した。
"今日できないことは、明日やればいい"。そんな彼の呑気さは生来のもの、いや、前世からの習性だった。
夏休みの宿題は、八月三十日から慌てはじめ、三十一日の夜にはもうどうでもよくなって、すべてから目を背けてゲームに逃避していた性分だ。決して、良い子は真似するべきではない!
「ぶえっくしょん!」
吹き付ける寒風に、ラルフは盛大なくしゃみを抑えきれなかった。
後頭部に、ご主人様の盛大なスプラッシュを受けたレッドフォードは、思わず(は? えっ? マジか、コイツ?!)とでも言いたげな、この上なく嫌そうな表情を晒した。
「よーし! 戻るぞー!」
ラルフはレッドフォードの頭をペシペシと叩き、帰還を促す。風を切る翼は、再び、領地へと大きく旋回行動に入った。
領主館の庭に、バサリと強風を巻き起こし、レッドフォードは優雅に着地した。その背からラルフが降り立つと、メイドのアンナが待ち構えていた。
「おかえりなさいませ。崩落現場の様子は如何でしたか?」
「ふう……。とりあえずは、また同じような事はしばらく起きなさそうだ。しかし、治水は何か、根本的に考えないとな……」
案外、領主としての職務には真面目に取り組むラルフだ。その眼差しは、遠い水の記憶を捉えていた。
「あと、一つ、お知らせしたいことがございます」
「ん? 何だ?」
「今、一階に、聖女様とドワーフ達がいらしています」
一階とは、即ち領主館の一階。居酒屋領主館の客席である。まだ居酒屋が開店していない時間に彼らがやってきたということは、客としてではなく、ロートシュタインの民として、領主であるラルフになんらかの報告か、または陳情があってのことだろう。まだ日も高い。きっと、何か真面目な話に違いない。ラルフは背筋を正し、居酒屋領主館の戸へと向けて歩き出した。
そして、戸をくぐり抜けた瞬間、ラルフが先ほど抱いた覚悟、真面目に職務にあたろうとする心意気は、まるでバカを見るような光景に打ち砕かれた。
「はーはー! わたしは天才よ! 酒造りの天才聖女様よ! 崇め奉りなさいぃぃぃ!」
聖女、トーヴァ・レイヨンが、顔を真っ赤に染めて叫んでいる。
ドワーフ達は、彼女の周りでグラスを打ち鳴らし、大声で応じる。
「ちげーねーぜ! こんな酒は、ラルフさまでも造れねーぜ!」
「聖女さまバンザーイ! だな!」
その光景を見たラルフの胸には、じんわりとした怒りが湧き上がった。
(何故に、開店前に出来上がってる連中がいるんだよ?!)
「んんん~? あー、ラルフ・ドーソンさーん。わたしぃー。凄いお酒生み出しちゃったわけ~。これ凄いのよ~! 酔える酔える! もう嫌なことも面倒臭いことも、ぜーんぶ、ぱーっと忘れて、ワッヒャッヒャッ!」
聖女はそう言いながら、手酌で透明な酒を自らのグラスに注ぐ。しかし、ラルフの意識は、彼女の手元にある書類に釘付けになっていた。
それは、あまりにも、あまりにも見覚えのある、魔導論文。
ラルフが執筆し、魔導士の権威団体、賢者の塔に提出したその論文のタイトルは、
『魔力圧縮風流による蒸気制御と高純度酒精生成の試み』
つまり。それは米酒から、さらにアルコール濃度を高めるための魔導生成術式。水魔法、火魔法、そして風魔法の応用によって、蒸留という技術を理論体系化したものだ。
そして、この聖女様は、その魔導論文を読み、たった一人で再現してしまったのだ。この、“焼酎”の生成を……。
ラルフは、深い葛藤に苛まれた。焼酎。それは、ホンモノの酔っ払いを生み出す、禁断の酒。こんな危険な代物を、この世界に生み出してしまって良かったのか?
この世界には、ラルフが生み出した、芳醇で美味な醸造酒がすでに浸透し始めている。それならば、水のように透明で、ただ酔っ払う機能性しか持たないこの酒が、果たして人々に広く受け入れられるのか、という疑問もあった。ドワーフ族が受け継ぐ火酒で事足りるはずなのに。にもかかわらず、この世界初の、高純度アルコールである焼酎が、聖女の聖魔法という力によって、今、現実に生まれてしまったのだ。
「これ、このお酒、米の、お酒、ヘフ君だっけ? あー、セス君? そうそう、その家の、米のお酒……。蒸留した!!」
聖女様は、もう潰れる寸前だ。紡ぎ出す言葉はしどろもどろ、最早、ポンコツそのものだった。
いや、ラルフは、もっと手前の、シンプルで根源的な疑問に立ち返る。
(開店前なのに、なんでコイツら、呑んでるん?)
一応、ここは領主館。つまり、貴族の住処なのに、何故こうも自由に常連たちが出入りできるのだ? そんなことを考えても、無理、無駄、無意味なのは、重々理解している。
その時、聖女がドンッ! とテーブルに突っ伏し、
「ぐがー、ごー……」
と、盛大ないびきをかきはじめた。
ラルフは、静かに踵を返そうとした。
「えっ! 聖女さま?! 潰れちまっただ……」
「さすがに人間族に、この酒精は厳しいか……」
ドワーフ達は、呆れたような、しかしどこか誇らしげな目で、彼女を眺めている。
ラルフは再び振り返る。このロートシュタインを訪れた人々が、心底幸せそうなのは、堪らないほどに嬉しい。
誰も彼も、時代に翻弄され、自らの意思で生きる希望を切り拓けなかった者たちだろう。その背景は、漠然とではあるが、理解できる。
しかし、しかしだ!
聖教国から、「今代の聖女さまの弔いの儀を、ロートシュタインにて開催したい」という文を、受け取っているラルフとして、そして王国として、どのような対応が相応しく、外交上問題ないか、王城にて話し合われている真っ最中なのに――。
(なのに、……この聖女は?!)
ラルフは、両手で頭を抱えるしかなかった。居酒屋領主館の店内に、聖女の、あまりにも幸せそうないびきが響き渡っていた。




