226.思いがけぬ才能
「俺たちゃ鉄打つ民だぜー♪ 堅苦しいのは野暮だぜー♪」
「おいらの聖剣みてみなー♪ 仕事上がりには酒だぜー♪」
居酒屋領主館の梁に、ラルフとソニアの朗々とした歌声が響き渡る。
これはドワーフの仕事歌。陽気でアップテンポ、一度聴けば耳に残るメロディと、汗と酒の臭いがするような素朴な歌詞は、酒宴の余興として、もはや定番となっていた。
「へい! よーほー♪ よっほっほー♪ よーほー♪ よっほっほー♪」
客たちは、その狂騒に身を委ねる。手を打ち鳴らし、足で床を力強く踏み鳴らし、ある者は腰を揺らし、ある者は獣のような奇声を上げる。夜も更け、酔いが回ったこの空間に、身分や肩書きは存在しない。貴族も王族も、平民も商人も、そして命知らずの冒険者も、ただ酒と音楽に溺れ、騒ぎ散らす。
「カレーライスはいらないのぉ?!」
給仕係のエリカは、新米冒険者たちのテーブルに向かって、声を張り上げた。
「ええっ? はぁ?! なんだってぇー?!!」
「だから! カレーよ! カレー!!」
「あー! ……ビールもう一杯!!」
まだ幼さの残る剣士が、空のジョッキを天に掲げる。この絶叫にも似た歌声、弦楽器の喧しい音、客たちの狂騒。この騒乱の中でオーダーを取り、まともなコミュニケーションを成立させるのは、至難の業だ。
エリカは脇にトレーを抱え、小さく息をつき、額に滲んだ汗を手の甲で拭った。
(まったく、この酔いどれどもときたら……)
彼女が自ら給仕に立つのは、自らの手で試行錯誤し、生み出すカレーを世に広めたいという、自己顕示欲、承認欲求、そして純粋なカレー愛。それらが美しくも歪に絡み合った、ひとつの信念の方程式故である。
「オーダー! ルーキーたちにテキトーにビール持っていきなさい!」
エリカは厨房にいるドリンク担当のメイドに指示を出す。メイドたちは、この金髪ドリルツインテールのチンチクリン少女の不遜極まりない態度には慣れっこで、巨大なピッチャーに、樽から芳醇なフレーバービールを注ぎ入れた。
ふと、エリカはドワーフたちが居座るテーブルに目を向けた。
「いよ! せいや!」
「よーほー♪」
調子っぱずれな声と、手を鳴らし、床を踏み鳴らすその音に、言いようのない不快感が湧き上がってくる。騒がしいのは慣れている。むしろ、自分自身も大概騒がしいという自覚が、微かに、ほんの少しだけある。音楽が嫌いなわけでもない。むしろ、実家にいた頃は、貴族の嗜みとして音楽の家庭教師についていた。
そうではない。エリカが我慢ならなかったのは、その、リズムだ。
エリカは「ふんっ!」と鼻を鳴らし、床に落ちていた箸を一本ずつ拾い上げ、両手に構えた。そして、フレーバービールの空き樽が置かれた一角まで歩いていく。
「よーほー♪」
「よっほっほー♪」
ラルフの伸びやかな歌声と、客たちの叫ぶコール&レスポンスが終わるタイミングを待ち構える。
この後、ラルフの弦楽器によるソロパートが控えていた。しかし、その見せ場を、エリカは乗っ取る。
ついに、その時。
カララララッ♪ ドッカ♪
カッツタラッタドッカタット♪
カッツカドッタン♪ カッツカタン! カッカッカ♪
見事なパーカッションソロが披露された。それは、十六分音符と休符の組み合わせ、そして二拍三連符を織り交ぜた、あまりにも独創的で、躍動感に満ちた即興演奏だった。
「ふぉー!!!」
「いぇぇぇぇ!!」
客たちは、さらなる熱狂に包まれた。
弦楽器を弾いていたラルフは、ソロという見せ場を強奪され、驚愕に目を見開いていた。
そして、そんなエリカを、ある男がギラリと見つめていた。宮廷楽団のオルランドだ。
(て、天才だ。……天才が、いた!)
新たな才能を発掘した喜びに、彼の体は微かに震えた。
「リズム感無さ過ぎよ! アンタら! アタシのリズムにノリなさいなっ!」
そう言い放ち、エリカはこの夜のセッションに身を投じていった。客たちが騒ぎ疲れ、踊り疲れ、酔い潰れるまで、彼女は樽を打ち鳴らし続けた。
翌朝、目覚めた時、両腕はパンパンに張り、激しい筋肉痛に見舞われていた。
その数日後、エリカは王都へ向かう魔導車に、不承不承乗り込もうとしていた。
「もう帰ってこなくていいからな!」
見送るラルフが、とんでもなく情けのない言葉を投げつける。
「うっさいわねぇ! 王城での晩餐会が終わったら、帰ってくるわよ!」
エリカは言い返すが、ラルフは優しく、そして諭すように続けた。
「いや、そもそも。お前、王都が故郷だろ? せっかく楽団の仲間入りできたんだ。お前は、お前の人生を歩めよ……」
「エリカ様、そろそろ……」
王城の召使いが告げ、魔導車のドアがバタリと閉まる。
エリカは、後部座席から遠ざかるラルフの背中と、ロートシュタインの景色を振り返った。
あの領主は、特別な言葉をくれなかった。
エリカは知っている。
(アイツは、そういう奴だ)
自分自身の幸せより、他人の幸せを望む……。
なのに、
なのに……。
「アタシの幸せを、アイツが決めつけるのは、アイツがバカだからよ……」
これから、王城で開催される晩餐会で、ソニアと宮廷楽団の一員として音楽を奏でる。それが、これからのエリカの役割。
そうして、エリカは、ロートシュタインを去った。
数日後。
居酒屋領主館。
ラルフは厨房に立ち、愛用の包丁で野菜を刻んでいた。
サクッ! トントン! トントン!
まな板の上で、これから提供する料理の具材が、正確に切り分けられていく。
サクッ! トントン……。と、安定したリズムを刻んでいる。
すると、金髪ドリルツインテールの少女が、
「ちっちっち! ラルフ、アンタ、リズム感は良いけど、グルーヴ感がないのよねぇ、グルーヴ感が!」
と、得意満面に、ラルフの包丁のリズムに文句を言うのだ。
ラルフは、額に青筋を浮かべて、包丁をピシャリと置いた。
「お前ぇさぁ! ちょっと宮廷楽団と王城で演奏しただけで、何者になった気だよ?!」
ラルフはツッコミを入れるが、エリカは涼しい顔で、腕まくりをする。
「ふんっ! 素人が何言ってるのかしらねえ、……さあ! そろそろ、演奏はじめるわよ!」
ラルフは思う。
カレーに、打楽器奏者。
エリカにアイデンティティが与えられていく度に、このチンチクリン少女は、ますます面倒臭くなっていく……。
そして、皮肉なことに、王城での晩餐会より、このロートシュタイン領の居酒屋領主館の方が、各国の外交の場として、より機能してしまっている現実がある。
エリカが、店の片隅に置かれた樽を叩き出し、客たちが騒ぎ出したのを見て、ラルフは「やれやれ」と肩をすくめ、仕方なく弦楽器を店の奥に取りに向かった。
新たなグルーヴが、今、ロートシュタインの夜に生まれる。




