221.異常な日常
ラルフは、裏庭に突如として生え伸びた巨樹を、呆れを通り越した諦念の眼差しで見上げていた。
高い秋空は澄み切って、すっかり涼しくなった穏やかな風が、領主である彼の頬を撫でていく。
(この樹、何の樹?)
思わず、前世で聴いた名曲のフレーズが脳裏をよぎる。
そう、この樹は、ラルフや庭師、メイド、つまりドーソン家の内側の人間が植えたものではない。ある日、勝手に誰かが植えて、そしてこんなにも巨大になったのだ。愚直なまでに正直に言えば、「昨日は無かったはず……」としか表現のしようがない。
その樹上には、驚くほど精巧なログハウス、ツリーハウスというやつが、堂々と鎮座している。
「そういえば……」
ラルフは記憶を辿る。昨日の日中、執務室の外からトンテンカンという大工仕事の音が聞こえていた。おそらく、ドワーフの大工たちがこれを造っていたのだろう。ラルフは、(領主館の壁の修繕でもしているのかな?)と、深く気に留めなかったのだ。
そして、誰が、こんな事をしたか?
それが最大の疑問であり、問題だった。
たった一日で巨大な樹を裏庭に生やし、その上に立派な家屋を外注し、そして縄梯子が掛けられていることから、すでに居住の実態があると見受けられる。
そんな芸当が、この領地で可能なのは、約一名しかいない。
ラルフは縄梯子を軽やかに、ほとんど無心で登っていった。
デッキに辿り着くと、その精巧な造りに改めて目を見張る。さすがはドワーフの大工だ。ラルフにもツリーハウスへの密かな憧れがあった。羨ましい、そんな子供じみた感情をちょっぴり抱きつつ、樹上のログハウスを覗き込む。
やはり……。
「ぐがぁぁぁぁ、がごぉおおおお! んがぁぁぁぁぁぁぁ!」
と、とんでもなく盛大なイビキをかきながら、偉大なるエルフ、半裸のユロゥウェルが、大の字になって床に寝転がっていた。
その周囲には、火酒やワインの空瓶が、戦場の残骸のようにゴロゴロと転がっている。
ラルフは、サッ! と身を翻し、手摺りに結ばれたロープを見つけると、それを手繰り寄せた。そしてすさぁぁぁぁぁぁぁ! と、ベテランレスキュー隊員さながらの華麗なファストロープ降下で、樹上から地面に降り立った。着地の瞬間、彼はアメコミヒーローのように姿勢を低くしたポーズを決めるが、一体誰が見ているというのか?
手をパンパン! と払いながら、ラルフは思案する。"何も見てない"として、この樹を即時切り倒すべきか、あるいは……。
「あんれぇ? 領主さま。婆さまに何か用だったん? 夜這いしたん?」
背後から、エルフのミュリエルがひょっこりと現れた。
「するわけねーだろっ! っていうか、夜這いって! まだ真っ昼間だぞ!」
ラルフは盛大にツッコむ。というか、いつの間にミュリエルはそこにいたのだろうか?
「婆さま、起きてた?」
ミュリエルが呑気に問う。
「いや。聞こえるだろう? 耳を澄まさずとも……。怪獣の寝息かと錯覚するような、あのイビキが……」
二人は樹を見上げる。頭上からは、
「ンゴっ! ガッ! ハッ! …………スピピピピピー……」
という、まるで前衛的なノイズミュージックのような轟音が降り注いでくる。
ラルフは前世の知識から、
(睡眠時無呼吸症候群かな……)と、場違いな心配をわずかに抱く。
「相変わらずだなぁ、婆さまは!」
ミュリエルはケラケラと笑う。
「というかさぁ! この樹、なに? 昨日まで無かったし」
「あー、これ? これは、リグドラシルださぁ!」
「り、リグ? リグドラシル? ……ユグドラシルじゃなくて?」
ラルフは、聞き慣れない言葉に戸惑いを覚える。
「世界樹なんて、こんなとこに植えたらマズイってば、あーはっはっはっはっはー! 領主さまは、ホントにおもっしぇこと言うなぁ!」
ミュリエルは腹を抱えて笑っているが、ラルフには何が面白いのかさっぱりわからない。
おそらく、北欧神話のユグドラシルに準じる、何か似た性質の、もしかするとその下位互換の樹なのかもしれない、という推測だけが立った。
「いや、っていうかさぁ。ユロゥウェルさん。ここに住む気満々じゃね?」
「そーそー! しばらくロートシュタインに滞在するって!」
「んんん? しばらくって、どのくらい?」
「んー? さぁ……。さすがに、百年とかはいねぇと思うけどな!」
ミュリエルはあっけらかんと言い放つ。
ラルフは、天を仰ぐような深いため息をついた。そう、彼女は、もしかすると数十年、ここに居続けるつもりなのかもしれない。長命種であるエルフは、人間の時間感覚とは比べ物にならないほど、悠長な生を営んでいるのだ。
「正直、なんか、そんな気は、してた……」
全てを諦めたラルフは、前庭へと移動する。
午前中の書類仕事を終え、夕刻の居酒屋のオープン準備が始まるまでの間が、領主である彼にとっての貴重な心休まるひと時なのだ。
ヴィヴィアンの従魔、オオヤマネコのシャギーをモフり倒すか、赤いワイバーンのレッドフォードを眺めながら「やはり、ウチの子はカッコイイなぁ」と、まるで完成したプラモデルを眺める男の子のような趣向を満喫するか。まあ、色々と過ごし方はある。
領主館の建屋をグルリと回り、前庭に行くと、また騒動が起きていた。
「あのねー、襲われていたんじゃないのよ!」
エリカが、その金髪ドリルツインテールを揺らしながら、まくし立てる。
その先には、最近このロートシュタインに流れてきた冒険者パーティーの若者たちが、困惑顔で立ち尽くしている。
「あの、なんか、ごめんなさい……」
新米魔導士の女の子が、恐縮しきった様子で頭を下げる。
「いや! だって! どう見ても、小さい女の子がフォレスト・ウルフに襲われているように見えたんだって!」
まだ幼い顔立ちの剣士の男の子が、必死に弁明する。
ラルフは、またもやため息をつく。もう状況はわかっていた。庭で、エリカは"お母さん"と呼ばれる狼の魔獣と戯れていたのだろう。それを目撃した冒険者たちが、エリカが襲われていると誤解し、「正義の味方」として領主館の敷地に侵入したのだろう。
もうラルフが介入するのも面倒なのだが、一応、声をかける。
「ども、ラルフ・ドーソンです……」
「はぁ? お前、誰? ラルフ? ラルフって、……えっ? ドーソン? ラルフ・ドーソン?! 失礼しました!! 大魔導士さま!!」
剣士の男の子が反射的に跪く。
「うわっ! わっ! 本物の、ラルフ様だっ!」
新米魔導士の女の子が、目を丸くして慌てふためく。
ラルフは彼らの反応を気にする様子もなく、
「ほらっ お前ら! 来い!」
と、エリカの足元に戯れていた子狼たちに手を広げる。
すると、「キャン! キャン!」と鳴きながら、子狼たちはラルフに向かってピョコピョコと跳ねながら走ってくる。
そして、芝生に仰向けに倒れ、子狼たちになすがままになる大魔導士。身体によじ登られ、顔をペロペロと舐められても、
「ハッハッハッハー!」
と笑いながら受け入れる領主様。
その時、突如としてエリカがピョン! と勢いよくダイブし、ラルフの腹の上に腹ばいに着地する。
その衝撃と重さで、
「ぶげふっ!」
とラルフは呻き声を上げた。
「ちょっとぉ! ラルフだけズルい!」
と、エリカは珍しく年相応なワガママを言い放つ。
「痛ってぇなぁ! お前! 領主様に危害を加えた罰だ! このぉ! こうしてやる!」
ラルフはエリカの脇をこちょばり出す。
「きゃぁ~! キャッハッハッハ! セクハラよ! このエロ領主がぁ! キャッハッハッハー! ちょっと、あんた達もやめなさいよ! ちょっとー、くすぐったいってー!」
子狼たちもラルフにつられるようにエリカに群がり、鼻先でつついたり、顔を舐めたり、尻尾をフリフリと振りながら、楽しそうにエリカをもみくちゃにし始める。
そんな和やかな領主館の風景を見ていた新米冒険者たちは、ポカーンと、無表情だった。
規格外の大魔導士様の治める領地だと聞いて来てみれば、確かに色んな意味で規格外だった。
(でも、なんだか、ここは、誰もが幸せそうだなぁ)
それが、若者たちの偽らざる感想だった。この異常なノリに付いていけるかは、別の問題だが……。
その直後、巨大なワイバーンが上空に現れ、その爪に捕らえた地竜の死骸を落下させて来た時には、若者たちは死を覚悟した。
しかし、偉大なる魔導士、ラルフ・ドーソンは、
「地竜かぁ。唐揚げかなぁ? ……エリカ、カレーに地竜はどうよ?」
「ありね! 鶏に似て淡白だから、"タンドリー地竜"にしてみようかしら?」
この幼い金髪ドリルツインテールの少女さえ、巨大な魔獣を食料としか見ていない。
巨大な赤いワイバーンは大魔導士様のペット。
普通なら、一流冒険者が数十人がかりで討伐するはずのフォレスト・ウルフも、金髪の幼い少女の従順なペット。
このロートシュタイン領の異常性に、新米冒険者は、恐怖と期待という、二律背反な感情を抱きながらも、この夢のような地に賭けることにしたのだった。




