220.カイノマリョク
ゴォー、ゴォー。風は地の底から湧き上がるような唸りを上げ、それはまるで世界を飲み込まんとする魔物の息吹のようだった。フィセは、その音に突き動かされる不安から、幾度となく背後を振り返る。
「さあ、もう少し先よ」
ダンジョン・マスターであるスズは、揺るぎない足取りで先頭を歩く。彼女の白い肌と黒い髪が、手に持つ魔導灯の青白い光に照らされ、暗い洞窟の中で幻のように浮かび上がった。足元は膝まで冷たい海水に浸食され、一歩ごとにジャバジャバと不気味な水音を立てる。ここは、岩島ダンジョンの潮溜まりになった、異質な一部だ。
「本当にこんな所に、美味しいモノがあるんですか?」
フィセの声は、広がる闇に吸い込まれ、か細く響いた。その問いには、疑念と、微かな恐怖が滲む。
すると、スズは歩みを止めずに、冷徹な響きで言い放った。
「ある。ずっと準備してきた。ダンジョンの一部に、これだけの海水を完璧に引き込むのは、なかなかの苦労だった」
「は、はぁ……」
フィセは、その"苦労"の意味を理解できなかった。彼女の頭の中をよぎるのは、この暗黒の空間で、もし万が一、想像を絶する事態が起こったら——誰にも看取られず、発見さえされず、自分という存在が残酷な自然の摂理に則って消滅していくのではないか、という根源的な感情だった。その思考が、背筋に冷たい雫となって流れ落ちる。
いや、しかし。この岩島ダンジョンの支配者、スズがいる。彼女がいれば、絶対に大丈夫なはずだ。そう理性では分かっていながらも、拭い去れない恐怖が湧き上がる。暗闇、身を締め付けるような狭さ、そして、しばらくすればこの空間が完全に海水で満たされるという事実。それらは、人間が本能的に持つ根源的な危機感として、フィセの精神を影のように深く侵食していった。
「もう少しよ……」
スズの声は、先程よりも一層冷たさを帯びて響いた。彼女は、ついに一度もフィセを振り返らない。その瞬間、フィセは強烈な既視感と共に、このダンジョン・マスターという存在が、人間ではないという紛れもない事実を思い出した。恐怖が、一気に加速する。
(彼女は、もしもの時に、私を助けてくれるのか?)
いや、ここは彼女の支配領域。本来、危険などあるはずがない。だが、なぜ、私だけが、今、ここに呼ばれたのだろう?
(まさか、私を、始末しようとしているなんてことは……ないよね?!)
あり得ない。いつ、自分が彼女の恨みを買うようなことをしたというのか。
そのとき、スズはジャバジャバと海水を蹴り上げていた足をピタリと止めた。
そして、振り返らずに、冷ややかな命令を下す。
「さあ、この先よ。貴女が先に入ってみて……」
魔導灯の光の先に、洞窟は急激に小さくなっていた。人一人が体を屈め、這うようにして、やっと通れるほどの穴。その先に、一体何があるというのか?
「あ、あの……わ、私、ちょっと、狭いとこ、苦手というか……。あのぅ、その……是非、先に入って案内して頂けたらなぁ!なんて……」
フィセは顔を引き攣らせ、必死にヘラヘラとした愛想笑いを貼り付ける。
スズは、静かに、そして恐ろしくゆっくりと振り返った。
彼女は、笑っていなかった。
魔導灯の明滅が、彼女の顔に深い影を落とす。その表情は、なんの感情も帯びていない。ただ、虚無のように、フィセを見つめていた。
「先に、進んで……」
再びの言葉には、明らかに苛立ちの色が混じっていた。フィセは、抗いがたい威圧感に、膝が震えていることに気づく。
「あの?! あの、なんで、なんで?! こんな……」
フィセは、衝動的に、背中の隠し持っていた魔導銃に、後ろ手で伸ばそうとする。しかし、その指先がグリップに触れる直前、スズの一言が、彼女の動きを完全に凍結させた。
「ダメ?」
その言葉の響きに、フィセの全身から冷や汗が流れ落ちた。
(いや、……こんなバケモノに、敵うはずがない……)
フィセは、このスズという存在の戦闘力を、岩島ダンジョンの最深部で目撃している。それは、大魔導士ラルフ・ドーソンほどの規格外の存在でなければ、到底太刀打ちできない領域だ。
(なのに……。何故、私が……)
「私が行かなかったら、どうするのですか?」
努めていたわけではないが、フィセの口から漏れたのは、奇妙なほどに冷静な言葉だった。
「別に、私が先でも良いけど。それじゃあ、つまらないじゃない? せっかく、サプライズを用意してあげたのに……」
スズは、楽しげに、両手を広げてみせた。
フィセは、全てを諦め、暗く狭い洞をくぐり抜けた。泥水を這い、頭を打ちそうになりながら、ようやくその先へ身体を押し出す。そこは、おそらく広い空間だった。暗すぎて、何も見えない。
恐る恐る、手に持った魔導灯を頭上へ向けると――。
「うっ! ……ぎゃぁぁぁぁああああ!!」
暗い洞窟の中に、フィセの絶叫が、幾重にも木霊した。
✢
「うっわ!! すっげぇ!! こんな大量に牡蠣とムール貝がっ!」
場所は変わって、居酒屋領主館の厨房。カウンター越しにラルフの驚愕の声が響き渡る。
「そうなんですよ! すっごいんですよ! 天井までびっちりと。貝、貝、貝、貝!」
興奮気味のフィセが、その時の光景を身振り手振りで説明する。
「うわー、凄そう……」
ラルフは、その絶叫のサプライズが、大量の貝によって引き起こされたことを察した。
「私、偏食だけど。ムール貝は好き……。バケツで食べたい」
スズが、まるで当然のように、至高のオーダーを放つ。
すると、ラルフは腕まくりをして笑った。
「あー、オケオケ! 気持ち悪くなるくらい、ムール貝を食わせてやるよ!」
早速、調理に取り掛かるラルフ。
その日の仕入れの異変を嗅ぎつけ、いつものように常連客たちが暖簾を潜ってきた。
彼らはチラリとカウンターの奥を窺う。何か、珍しい、新しい食材が仕入れられていないか、と品定めをする為だ。この店では、そうした未知の食材は、数量限定メニューとして提供されることが多い。常連達は日々、その情報を逃すまいと、目を光らせているのだ。
案の定、自称:ヴラドおじさんこと国王が、山と積まれた牡蠣に目を留め、その血走った眼差しをラルフに向けた。
「おい! ラルフ! それはどう食うのだ? 聞いた所によると、毒を持つこともあるというが?」
想像通りの反応に、ラルフは苦笑いを浮かべる。
「大魔導士が経営する酒場で、食中毒が起こるわけないでしょ! 生でも可! ボイルでも良し! 牡蠣の炊き込みご飯、あとは網焼きに醤油とニンニクとオリーブオイルも垂らして! みたいな!!」
その魅惑的な言葉の連鎖が聞こえてしまった常連達の心中は、ただ一つに統一されていた。
(じゅるり……)と、湿っぽい音が口元で鳴る。
すると、その日たまたまロートシュタインに来ていた、ファウスティン・ド・ノアレイン公爵から、滑るように流暢な注文が入った。
「牡蠣の土手鍋なんて作れるか?」
「あー。多分、いけますよ……」
ラルフは即答した。それは、ラルフの前世の日本の(おそらくファウスティンの前世も)広島を中心とした郷土料理。鍋の内側の縁に味噌を土手のように塗り付けるのが名前の由来だ。鰹や昆布の出汁を張り、その土手味噌を少しずつ溶かしながら食べる。具材は、牡蠣が主役で、豆腐、春菊、白菜、長ネギなどが定番。すべて問題なく用意できる。締めは、うどんや雑炊が定番だ。
ラルフは、スズの最高峰のオーダーである「バケツにムール貝」という、イタリアン・バル定番メニュー。そして、土手鍋の調理をはじめる。
すると、店内のすべての視線が、ラルフの手元に集中し始めた。
エルフのユロゥウェルなどは、立ち上がり、血走った目で調理台を凝視している。
何故か、魔導連盟のメンバーや、賢者の塔の構成員までもが店内にいて、歴史認識の再構築について話し合っていたはずだが、誰も彼もが、ラルフを穴が空きそうなくらいに睨んでいる。
ラルフは察する。どうせ、この後、嵐のようなオーダーが飛び交うのだろう、と。
前世が日本人だったラルフには、その熱狂の理由が痛いほど理解できる。しかし、この世界の大魔導士として、分析、そして的確に言語化できない、しかし確固たる一つの事象が存在するのだ。
それは、"貝には、人を惹きつける魔力がある"ということ。




