219.失われし挿話と宴
賑やかな喧騒が渦巻く居酒屋領主館の暖簾をくぐりながら、
「うへぇ……、疲れたなぁ」
と、ラルフは深い溜息と共に疲労を吐き出した。昼間のトレント討伐という激務の余韻が、重く肩にのしかかっている。
彼の後ろには、達成感と興奮に包まれた討伐参加者たち、そしてその劇的な一部始終を見届けた野次馬たちが、ぞろぞろと後に続いた。
厨房から、愛らしい顔を覗かせたのは、看板娘のミンネだ。
「お兄ちゃん! おかえりなさい!」
と、弾む声が店の空気を温める。
ホールでは、ハルがその猫耳をぴこぴこと機敏に動かしながら、
「いらっしゃいませぇ!」
と、慣れた手つきで常連客を迎え入れていた。
ラルフが不在であっても、孤児として育った彼女たちや、頼れるメイドたちの手により、居酒屋は澱みなく開店を迎える。その光景を目にするたび、ラルフの胸中は複雑だった。自分の存在意義が薄れるような一抹の寂しさと、彼女たちの目覚ましい成長への誇らしい喜びが、ないまぜになる。
その時、偉大なるエルフ、ユロゥウェルが、まるで小さな子供のように小走りでラルフを追い越し、ドサリと一つのテーブル席に腰を下ろした。
「さーて! 腹が減ったわい! 何を食おうかのぅ!」
満面の笑みでメニューを開くユロゥウェルに、ラルフは思わず二度目の溜息をつく。
厨房へ入る前に、彼は魔法を使い、自身の全身の汚れを徹底的に洗い落とした。
一方、エリカは、討伐に同行した狼たちを裏手の馬小屋へと連れて行った。異物混入は厳禁――この店の衛生管理は、この世界では未だ発展途上の意識を遥かに凌駕し、ラルフの徹底した職業意識によって貫かれている。狼の毛一本たりとも、料理に入れるわけにはいかない。
ふと視線をやると、ユロゥウェルはメニューの一角で歓声を上げていた。
「おー! チーズがあるではないかぁ?!」
その喜びようを見て、ラルフの脳裏に閃きが走る。ならば! と。日中に採取したばかりのキノコを贅沢に、そしてチーズもたっぷりと使ったピザはどうか?
疲れた身体に染み渡るような、新たな逸品への創造意欲が湧き上がる。
「ビールくれぇ!」
「火酒のボトルと、あと適当にツマミ持ってこーい!」
「オススメのワインをくれ!」
「なんだか、田園にいたからか、米酒を飲みたいなぁ」
「おっ! それなら、米酒を温めて飲む、アツカンって飲み方があるらしいぞ?」
「はぁ?! 温めた酒ぇ?!」
日中のトレント討伐騒動がまるで嘘のように、店はたちまちいつもの喧騒に包まれ、宴の幕が切って落とされた。
その最中、ヴィヴィアン・カスターが、ユロゥウェルに近づいていった。
「あ、あの……失礼を承知でお声をかけます。もし差し支えなければ、貴女様の偉大なる知識と、人々がとうに忘れてしまった悠久の歴史を、どうか私にお聞かせいただけませんか?」
その畏まった申し出に、なんと国王ヴラドまでが便乗する。
「偉大なる御方よ――この儂もまた、耳を傾けさせて頂ければと……」
その抜け目のない姿勢に、ラルフは苦笑を禁じ得なかった。
するとユロゥウェルは、豪快に笑い飛ばす。
「ハッハッハッハ! ふむっ! ならば酒を奢れ! そして、そなたらのオススメを教えよ!」
「ならばっ! 白ワインとグラタンの組み合わせがオススメです!」
と、ヴィヴィアンは身を乗り出して熱弁する。
「いやいや! 今の時季ならば、サンマの塩焼きにダイコンオロシを添えて、合わせるのは、ヌルカンだな! もちろん、白飯もイケる!」
と、ヴラドが対抗。
「ちょっと、俺も話聞きてぇなぁ」
と冒険者の男が加わり、
「むっ! 私も、精霊について聞きたい!」
とパトリツィアも彼女に近づいてゆく。
この夜の主役は、文句なしにユロゥウェルだった。誰もが彼女が持つ悠久の年月のうちに蓄積された知識を求めた。しかし、それはいつの間にか、崇高な学問や、消えゆく歴史のロマン、あるいは魔道の深淵へ近づこうとする上昇意欲からかけ離れ、酒の肴の小噺へと変貌していった。
深夜を過ぎ、ユロゥウェルは、火酒のボトルを自らのグラスに手酌で注ぎながら、赤く染まった顔で哄笑した。
「ゲッハッハッハッッハー! 魔導国家のバカどもなんて、竜族の血を取り込もうとして、自滅しやがったからなぁ! ゲッハッハッハー!!」
「あーハッハッハっ!」
「ギャッハッハッハッ! ひー、腹痛え! 面白ろ過ぎるぜ! 姉御ぉ!」
彼らがバカ笑いしているのは、どう考えても神話級のとんでもない歴史的事実だった。
「妾が神の一柱を葬ってやった時の話をしてやろうかぁ?」
とユロゥウェルが提案するが、
「ちょっとー! ユロ姉さん! その話、もう六回目だからぁ! 調子にノッてた黒き女神をぶっ飛ばしたんでしょう?! もう覚えちゃったしー。勘弁してよー! ギャッハッハッハッー!」
「あーハッハッハー!!」
「で! その黒き女神に恋してた人間の王が、彼女を振り向かせようと、大悪魔と契約するんですよねぇ?! ナニソレぇ?! 面白すぎぃ! そんなの聖典に載ってなかったしー! キャッハッハッハッハー!」
聖女までもが、赤ワイン片手に膝を叩いて大笑いしているのだから、事態はもはや手の施しようがない。
「人間の欲望とか真理とかなんて、何百年、何万年経っても、実は同じなのかもですねぇ、ケッヘッヘッヘッヘ……」
と、吟遊詩人のソニアが、酔いに任せて核心を突くような言葉を吐き出した。
神話級のスキャンダラスな話題が酔っ払い達の間を飛び交う混沌の最中、ラルフは完全に宴に参加する機会を失っていた。いつもなら、常連客たちと酒を酌み交わすこの時間帯に、彼は青い顔で立ち尽くすしかなかった。
聖典や建国記を根底から書き改めなければならないような、決定的な「新事実」の数々に、どう対処すれば良いのか見当もつかない。
奥の席では、魔導士の権威団体、"賢者の塔"の構成員らしき一団が、目を血走らせながら、酔っ払いどもの「戯言」を一語一句聞き逃すまいと、ひたすらにメモを取り続けている。その姿は、この夜の異常性を象徴していた。
そして、ラルフの脳裏には、決定的で、本質的な疑問が、一つの黒い文字のように、くっきりと浮かび上がった。
(この、エルフ、いつまでいるんだ?)
それは、偉大なる知識や歴史の真実よりも、居酒屋のオーナーとして、彼の精神を最も深く苛む、切実な問題であった。




