218.循環と営みと恵み
「天つ風の神霊よ、妾が身を撫で、滴りを払い去り、乾ける衣を賜え!」
ユロゥウェルが詠唱を終えると、彼女の周囲にだけ、ふわりと暖かい旋風が巻き起こった。その風は濡れた神官服を優しく撫で、みるみるうちに彼女の身体から水気を奪い去っていく。
(なんか、ラルフも似たような魔法使うよなぁ……)
その場にいる全員が、既視感を覚えつつ、しかし口には出せない共通の感想を抱いていた。
気を取り直すようにして、ラルフはユロゥウェルに改めて問いかけた。
「本当に、この赤土をなんとかできるんすかぁ?」
この広大な田園を覆い尽くし、復興を阻害している最大の障害、赤土の堆積物。
「ふむっ。まあよい。なんとかしてやろう……」
さっきまでの殺気立った様子は消え失せ、少々不満顔のユロゥウェルだったが、彼女は静かに水田の方へと歩を進める。
そして、両手を大きく広げ、まるで空を仰ぎ見るかのように、静謐で凛とした魔術詠唱が紡がれた。
「地脈の精霊よ、樹の命脈を揺り起こせ。妾が祈りに応じて、幹を伸ばし、葉を繁らせ、今ここに巨森の護り手を顕現せしめ給え!」
大地に向かって、神秘的な光が降り注ぐ。誰もがその光景を無言で見つめた。それは、神話の一幕を見ているような、厳かで美しい光だった。
すると、水田に広がる赤土がモコモコと異様な音を立てて盛り上がり始めた。あれよあれよという間に、そこかしこで同じ現象が起きる。土の中で、得体のしれない何かが蠢いているのだ。人々は察し、一斉に後ずさった。
そして、ボサァと土を零しながら立ち上がったのは、
「ええええっ?! これって、まさか、トレント?」
ラルフは驚愕の声を上げた。見れば、何十、いや、何百もの木の魔物であるトレントが、土の中から次々と生まれ出でてきた。彼らは、まるでアンデッドのように、赤土の上をウロウロと彷徨い始める。
そして、そのトレントたちは、両手のような左右の枝を使い、土を掬い上げては、口元らしき場所へと運んでいる。
「えっ、何? こいつら、赤土を食べてるの?」
エリカが目を丸くする。
「はぁ? なんだと? そんな生態、私は知らないぞ?!」
魔獣生態学者であるヴィヴィアン・カスターでさえ、その新発見に驚愕を隠せなかった。彼女の学術的常識が、今、目の前で覆されている。
「見てみよ……」
ユロゥウェルが指差す。
「ん? なんか、葉っぱが、モサモサと……」
ラルフがよくよく観察してみると、赤土を食べたトレントは、その頭部にどんどんと緑を茂らせていくのだ。そして、その頭部はどんどん丸みを帯び、まるでアフロヘアのようになり、ラルフは思わず笑ってしまった。
さらに気がつくと、その頭部からは、枯葉が常にヒラヒラと舞い落ち続けている。どうやら、恐ろしく代謝を速める魔法が掛けられているようだ。
興味を持ったラルフは、歩き出し、地面に落ちた枯葉を一枚拾い上げた。それを観察しようとすると、突如として、その表面が霜が降りたように白くなった。そして、どんどんと干からび、小さく、黒く、最後は塵となってラルフの手から崩れ去った。
「なるほどっ! わかったぞ! トレントだけじゃなく、菌類、微生物もいるな?」
ラルフは、前世の知識からそう言い当てた。
「ほう……。人間族のクセに、"極小なる者"の存在を知っているとは……」
ユロゥウェルは心底感心したようだ。
「ラルフ・ドーソン! これは、一体何が起きているんだ?」
ヴィヴィアンは、学者の血が騒ぎながらも、目の前の現象がまるで理解できていなかった。
「まずは、トレント達。彼らは、言わば森の優秀な分解者なんだ」
「分解者?」
「そう。彼らは、赤土をご覧の通りに食っている。そして、それを体内で代謝させ、葉を繁らせる。その葉が枯れ落ち、土に還ることで、その土地は植物にとっての豊かな土壌を作り出すんだ」
「なるほど……、しかし、さっきの微生物というのは?」
「それは、もう一つの優秀なる分解者、菌類だ。我々の目には見えないほど小さな生き物が、枯葉の分解を手伝っている」
「目には目えない生き物?! なんだそれは? 大丈夫なのか?! 教会から異端認定とかされないだろうなぁ?!」
ヴィヴィアンは慌てふためく。確かに、科学が発達していないこの世界では、菌、バクテリアの存在など、未知のまた未知の概念だろう。
しかし、ラルフにはもう一つ、不意に閃いたことがあった。
「なるほどっ! だから、エルフ達は発酵食品の作り方を受け継いでいたのか?! 遠い昔から、菌の存在を知っていたんだ!」
ロートシュタインに醤油や味噌という発酵食品を持ち込んだのは、エルフのミュリエル達だった。その食文化は今や世界中に発信され始めている。
「さすがだな、すべて察したようだな」
ユロゥウェルがフッと微笑み、ラルフを褒めた。
「じゃ、じゃあ! もしかして、もしかして! キノコを生やすことなんて、できたり?!」
最近、キノコ採りという趣味にハマっているラルフは、期待を込めて聞いた。
「ほう? まさか、キノコも"極小なる者"だと、知っていたか……。では、お望み通り! 土の奥底に眠る胞子よ―― 秋の風に呼ばれ、雨の雫に目覚めよ。今こそ芽吹き、傘を開き、彩れ、彩れ、大地の宴を!」
そう詠唱し、ユロゥウェルが手を振るうと、そこら中からニョキニョキとキノコが生え始めた。出るわ出るわ、その食欲を唆る光景に、誰もが目を見開き、だらしなくニマニマとヨダレを垂らす。
マツタケに、マイタケ、ブナシメジ、シイタケにナメコ、クリタケ、ハナイグチ、タマゴタケにホンナラタケ……。
まさに、キノコのテイクフリー状態だ。
「えっ?! これ、全部食べられるやつ? 毒キノコ交じってない?!」
ラルフは念入りに確認する。
「むろん! ちゃんと選んでやったぞ!」
「うぉー! キノコ祭りじゃー!」
ラルフは早速収穫を始めた。
「うぉー! ユロゥウェルさん、バンザーイ!」
冒険者達も見渡す限りのキノコ畑に突撃していく。
「さぁ、採るわよー! お母さん! 一番美味しいキノコを匂いで探しなさい! 秋限定極上キノコカレーを作るわよ!」
エリカはまたもや狼に無理難題を言っている。
「ゥォーン、アァァ、デキナイデスゥ……」
なんだか、狼の口から一瞬人語のような鳴き声が聞こえた気がしたが、おそらく気のせいだろう。お母さんフォレスト・ウルフは耳をペタンと伏せて、困り顔だ。
「ほら! セス達も採りな採りな!」
ラルフは村人に促す。水害の復興作業は、思わぬ収穫祭と化してしまった。人々は予想外の秋の恵みにありつけ、ホクホク顔だ。今夜の居酒屋領主館はキノコ尽くしとなるだろうと、誰もが笑い合った。
人々がキノコを採り尽くす頃。トレント達も赤土を食べ尽くし、一面の赤土だった土地は、黒々とした、見るからに豊かな実りを約束するかのような、ふかふかの腐葉土に変わっていた。
ふと、ラルフはユロゥウェルに問いかけた。
「あのー。このトレント達、この後、どうするんですか?」
「あー。討伐した方がいいぞ」
さも当然といった風に、ユロゥウェルは言い放った。
「はあぁ?!」
「そりゃ、森の守り人とは言え、モンスターに違いはないからな。貴様ら人間も、食料認定されるぞ」
「えっ、ええっ……」
そう呟き、ギギギギッと、錆びた玩具のようにラルフは振り向いた。
広大な田園地帯に、大量の木のモンスター。彼らの獰猛な赤く光る目が、その場に集まる人間に向けられていた。
「グガォォォォォォォ!」
そのうちの一体が襲いかかってきた。すると、光が一閃。そのトレントが斜めに両断された。
「硬っ! 木のクセに、とんでもなく硬いぞ!」
いつの間にか剣を振るったのは、女騎士のミラだった。
「そりゃそうだ! トレント材は超高級木材だぞ!」
ラルフも魔力発動を整える。
「《火炎球》」
炎の精霊使い、パトリツィア・スーノが火魔法で応戦する。
「ムゴォォォォォォォォ!」
と断末魔の叫びを上げ、一体のトレントが業火に包まれる。
「えーい! 焼くな焼くな! 高級木材だと言っておるだろぉ!」
ドワーフの職人がこの非常事態の中、なんとクレームを入れてきた。
「ええええっ! じゃあ、私はどうすれば……」
パトリツィアは、火魔法の名手というアイデンティティを、この場に限っては喪失してしまった。
「あー。冒険者の皆さーん! 緊急クエストでーす!! トレントの大群を討伐せよ!!!」
領主という立場から、ラルフは大声で号令をかけた。
そして、ラルフの手元に魔法が渦巻く。大魔導士らしい、大魔法の発動を予期する光が、田園地帯に溢れた。
そして、ロートシュタインでは、その後しばらくの間、木材の市場価格が暴落したという。




