217.魔法の戦い
「旦那様ぁぁぁぁぁぁぁぁ?!」
普段は鉄壁の冷静さを誇るメイドのアンナさえ、その絹を裂くような絶叫を上げた。光の矢に胸を穿たれたはずのラルフは、まるでスローモーションのようにゆっくりと地面に倒れ……。
カランカランッ……。
と乾いた音を立てて転がったのは、あのトレントの死骸の丸太だった。
よく見れば、その丸太には、つい先刻までラルフが纏っていたはずの魔導士のローブが、無造作に羽織らされている。
「は? ……」
「えっ?」
「えぇ……? ラルフは……?」
その光景を目撃した者全員が、困惑と呆然の渦に飲み込まれた。今まさに、偉大なるエルフの魔法がラルフを貫いたはず――いや、確かにそう見えた。なのに、倒れたのは、ただの丸太? 現実が、視覚が、理解を拒否していた。
その時、一同の背後から、安堵に満ちた声が響いた。
「ふぅ……、危なかったぜ……」
無傷のラルフが、地面に片膝を立て、額の汗を拭っていた。
彼の全身からは、瞬発的な魔力操作の痕跡が、微かな湯気となって立ち上っている。
「い、いや……。もう、その……、なんというか……。それは、魔法とか、そういうことではないんじゃないか?!」
思わず、ヴィヴィアン・カスターが本質を突いた叫びを上げた。大魔導士ラルフがユニークな魔法の使い手であることは承知している。彼が無事だったのは嬉しい――だが、この奇妙な事態は、どうにも納得がいかない。
偉大なるエルフ、ユロゥウェルは、ただラルフを鋭い眼光で睨みつけていた。攻撃が躱されたこと自体に驚きはない。しかし、ラルフの理解不能な魔法の応用力は、もはや侮っていいものではないと、彼女の数万年の経験が警鐘を鳴らしていた。
「わけのわからんことを……」
ユロゥウェルは低く呟く。
「でしょうねぇ。これは魔法じゃない。忍法、“変わり身の術”と言いまして……」
ラルフは悪びれもせず、得意げに解説しようとする。
「嘘を言うな! 私は今、明らかに魔力発動を感じたわ!」
そう言い放つと同時に、ユロゥウェルは再び光の矢を放った。
今度は、ラルフの額にサクッ! と音を立てて魔法が突き刺さる。
すると、ラルフの姿が、見る間にドロドロに溶け出し始めた。その輪郭は崩れ、半透明なスライムのような物体へと姿を変えていく。そして、地面に吸い込まれていく最中、嘲笑うかのような声が残された。
「へっへっへぇ! 一体いつから、目に映るすべてが現実だと、錯覚していた?」
完全に液体として地面に浸透し、ラルフの姿は消え去った。
「なるほど……。幻影魔法か?」
ユロゥウェルは一瞬でラルフの魔法の正体を見破る。彼女が片手を一閃させると、その場に幻術を打ち消す魔力の波動が走った。
波動が収まった後、丸太に腰掛け、モグモグと甘栗を咀嚼するラルフが出現した。
「モグモグ、ゴクンッ!」と栗を飲み込むと、ラルフは両手を挙げた。
「いやぁ。さすがです! ユロゥウェルさん! ここは、僕の負けってことで……」
「ふざけるなっ!」
ユロゥウェルは激昂し、三度、光の矢を打ち出す。
しかし、その魔法がラルフに突き刺さったかと思うと、彼の姿は陽炎のようにゆらっと歪んだ。そして、彼は何事もなかったかのように、また一つ甘栗を口に放り込んだ。
訝しげに、ユロゥウェルは真後ろを振り返る。
そして、気づいた。真後ろにも、同じように丸太に腰掛け、甘栗を食っているラルフがいる。目線を正面に戻すと、丸太に座るラルフが二人並んでいる。ふと周囲を見渡せば、ユロゥウェルの周囲を、合計六人のラルフが囲んでおり、全員がまったく同じ姿勢で腰掛け、栗を食っていた。
この大魔導士の戦いを見守っていた面々は、その心の内は共通していた。
(いや、凄いのはわかるけど……、なんか、思ってたのと違う……。なんというか……)
「小癪な……」
ユロゥウェルが苛立ちを隠さずに吐き捨てる。
そして、また全員が同じ思考に至る。
(小癪ッ?! まさにそれ!!)
大魔導士の戦いと言えば、誰もがとんでもない大魔法の撃ち合いを勝手に期待していた。しかし、ラルフの性格を考慮すれば、このトリッキーな戦法こそ彼らしいと言える。全員が、真剣に心配した自分が馬鹿馬鹿しくなってきた、と心の中で叫んだ。
「そこだぁっ!」
ユロゥウェルは電光石火で振り返りざま、一体のラルフに光の矢を放つ。その一撃はまさにラルフ本体を捉え、直撃と同時に、周囲の幻影ラルフ達は霧散した。
「うーわぁぁぁぁぁぁ! やーらーれーたぁぁぁぁぁぁぁ!」
ラルフはわざとらしく、胸を押さえながらゆっくりと、大根役者のように倒れるフリをする。
「いいかげんにしろよっ! ガキがっ! 直撃の瞬間、なんかやったろ?!」
稚拙な演技を見せられたユロゥウェルは、完璧にバカにされたと感じ、ブチ切れた。その威圧的な魔力は、周囲の空気を震わせる。
「あっ? わかっちゃいましたぁ? マジック・バッグの生成技術の応用なんですよ。こうして、位相を生み出すんです」
ラルフは掌の上に、真っ黒に渦巻く魔力の塊を浮かばせていた。それは、空間すら歪ませそうな、深淵の色をしていた。
「なるほど。……あのエロガキそっくりだ! ……というか、子孫のお前は、もっと、とんでもなく厄介だわ! なんだその魔法? 私がお前ら人間に魔法を授けたんだぞ?! それなのに……、応用とかそういうレベルじゃないだろう?!」
ブチ切れながらも、ラルフの独創性を褒めるその言葉に、ラルフは照れたように頭をかく。
「いやぁ~。照れますなぁ」
ユロゥウェルは、その仕草を見て、かつて愛した“あの男”の面影を重ねた。
『じゃあ! 俺が邪竜を討伐できたら、そん時は俺と結婚してくれるか?』
そんな馬鹿なことを言い放ってきた、人間達に勇者として崇め奉られた、あのエロガキ。ユロゥウェルは、その時なんと答えたか、もう記憶は朧げだった。
しかし、確かなことは、あのエロガキは邪竜を討伐した。
だが、ユロゥウェルは彼とは結ばれなかった。
約束を反故にされたのか、いや、多分、自分がその好意を拒絶したのだろう……。仕方ない、自分はエルフ、彼は人間なのだから。
懐かしさから、思わず、フッと笑ってしまう。しかし、すぐに冷静を取り戻した彼女は、再びラルフを挑発する。
「そなたからは、攻撃してこんのか?」
「ええぇ……。あんまり、誰かを傷つける為に、僕は魔法を使いたくないんですよぉ……」
その言葉に、ユロゥウェルの心臓がドクリと高鳴った。
――なんだ? 何かを、何か大事なことを忘れている。
魔法とは、魔に属し連なる技法だ。つまり、悪しき法。しかし、このラルフという人間は、魔法の根底に抗うような戯言を言い放った。だが、それが、懐かしい。
わからない……。わからないままに、一つの提案をすることにした。
「どんな魔法でもいい。妾に一撃でも当てられたら、負けを認めようぞ!」
「ええええっ! 本当ですか?! では、遠慮なく……。“黄昏よりも昏きもの、血の流れより紅きもの……”」
ユロゥウェルは、その詠唱を知っていた。太古より、神話の世界より言い伝えられてきた、殲滅魔法の呪文だ。
しかし、ラルフにとってそれは、前世で大好きだったファンタジー作品に登場する、憧れの魔法の詠唱に過ぎない。
ユロゥウェルは、ラルフの手元に集う魔力の奔流を注視した。その時――。
パシャ!
と、ユロゥウェルの頭上から水の塊が落ちてきて、彼女はずぶ濡れになった。
目をパチクリとさせながら、何が起こったのか、考える。ラルフは、魔力発動を解除し、得意満面に微笑んだ。
「《ウォーターボール》が直撃したので、僕の勝ちってことで、いいですか?」
まさかの、殲滅魔法の詠唱は、視線をラルフの手に引き付けるための囮で、本命の水魔法は、視覚の死角で発動させていたのだ。
ユロゥウェルは悟った。
(これは、勝てないかもしれない……)
知識ではなく、魔力保有量でもなく、突拍子もないアイデアで魔法を運用するこの男。二万年ほど魔法の研鑽に費やしてきた自分が、たった数十年生きてきた人間に、このような異常な感想を抱くとは。
そして、ずぶ濡れになったユロゥウェルを見たラルフは、急に顔を赤くして、くるりと明後日の方向を向いた。
ユロゥウェルは、不思議に思い、自分の身体を見下ろした。薄手の神官服が、濡れた身体に張り付き、艶めかしいボディラインが露わになっていたのだ。
彼女は悟った。この男の無垢さと、紳士的な対応に……。どうやら、あのエロガキの子孫は、好ましい節度を身に付けたようだ、と。
思わず、ユロゥウェルは、後ろからラルフを抱きしめた……。
「うぇっ?! はっ、ちょっとぉ!!」
ラルフは顔を真っ赤にして激しく慌てふためく。
そして、ロートシュタインに集う女たちの怒号が響いた。
「離れなさい! この若作りエルフがぁ!」
とエリカ。
「ちょっとぉ! ダメです! 色仕掛けはダメってことになってるんですー!」
とミラは謎の不文律を持ち出す。
「離れて下さい! その男はややこしいのですよー! 国際問題になります!」
とヴィヴィアンは謎の忖度を口にする。
「旦那様には刺激が強すぎます! まずは離れなさい!」
と、ようやく冷静を取り戻したアンナ。
ロートシュタインの女たちが、ラルフに抱きつく偉大なるエルフを、全力で引き離しにかかった。




