214.青い空と、海の向こう
夜が明け、嵐は完全に過ぎ去った。空は煩わしいほどの快晴で、まるで夏の太陽が舞い戻ってきたかのようだ。
「こういうもんなんだよなぁ……」
農奴のブロディが、透き通る青空を見上げて呟いた。ラルフも隣で同じ空を見上げる。
「何が?」
「嵐が過ぎた後ってよぉ、こういうふうに、冗談みたいに晴れるんだよなぁ。悪い冗談みたいにさ……」
元ゴロツキの地面師風情が、やけに詩的なことを言うものだと、ラルフは感心した。
昨晩は、水害が想定される警戒地域の住民に対し、緊急の避難勧告が出された。水上都市の住民は移民が多く頼る者が少ないため、冒険者ギルドマスターのヒューズがウルトラCとも言える避難場所を確保した。それは、東のダンジョンの一階層。入口は小高い山の中腹にあり、浸水の可能性は低い。仮に大水が来ても、ダンジョンが持つ神秘的な力が水の流入を防ぐと判断されたのだ。冒険者たちはあの豪雨の中、住民の避難誘導にあたったという。ラルフは、勇敢な彼らに報奨金を出すことを決めていた。
一方、セスの村の住人たちは、領主館に避難した。
避難誘導には、動ける者全てが緊急事態として参加した。共和国の貴族が足の悪い老人たちのために自前の馬車を提供してくれる一幕もあった。
避難が完了すると、村の男たちは一階の酒場で飲み耽り、御婦人方は恭しい女性特有の下世話な話に花を咲かせる。まるで修学旅行か合宿のようだったと、ラルフは苦笑いを浮かべた。
そんな一夜が明けて、ラルフたちは透き通る空の下、領兵たちによる被害報告を待っていた。
その場にいる皆に、朝食としてホットサンドが配られた。ミンネとハルを中心とした孤児たちが自発的に作り始めたものだ。メイドたちもこの日は帰らず、今も人々に紅茶を配っている。
「はい! お兄ちゃんも!」
ハルがラルフにホットサンドを差し出してくれた。
「ありがとうな! 今日はもう休んでいいんだぞ」
そう言ってみるが、ハルは首を振る。
「ううん……。これからが大変かもなんでしょ? じゃあ、私も手伝いたい」
まだ小さいのに、なんて出来た子なのだろう。ラルフはハルのブラウンヘアーをそっと撫でた。そして、ホットサンドを齧る。
(美味っ!)
ラルフは目を見開いた。カリカリに焼けたトーストの中身は、ブロッコリーとベーコン。そこにチーズとマヨネーズが合わさり、ブラックペッパーのピリリとした刺激が絶妙なメリハリを生んでいる。見渡せば、誰もが幸せそうにホットサンドを食み、濃いめに煮出した紅茶を楽しんでいた。
その時、一人の領兵が息を切らして駆け寄ってきた。
「報告します! 水上都市は僅かな土砂の流入が確認されましたが、特に大きな被害はありません!」
最敬礼の姿でラルフに報告する。
「そうか。それは、良かった……」
ラルフは心の底から安堵する。しかし、領兵は言葉を続けた。
「ですが、……新たに開墾した、米農園の方が……」
それを聞いていたドッヂが、思わず立ち上がった。
「被害は……どれほどだ?」
ラルフは真剣な表情で報告の続きを促す。
「はっ! ……その、水田は、ほぼ埋まってしまいました……。土砂だけでなく、流木や、大岩も流れてきたようで……」
領兵は言葉を選びながら報告した。
ラルフは肩を落とす。
「そっかぁ……。あの時、早くに対処すれば、……できることはもっとあったのになぁ」
この世界屈指の大魔導士である自分なら、ヒューズの報告を聞いた時点で動いていれば、得意の魔法でこのような事態は未然に防げたはずだ。ラルフは、自らの判断の甘さと、領主としての怠慢に苛立ちを覚えた。
しかし、その時、セスが言った。
「しょうがないですよ。水害なんて、いつか起こることです。ラルフ様のせいじゃありません……」
ラルフは振り返り、その意志の強い瞳を見つめた。
「まあ、とにかく、現場に行ってみよう……」
関係者で村に向かう。
泥濘み、そして土砂で道が埋まっているため、魔導車は役に立たない。途中から、皆徒歩で現場を目指した。
セスの村に到着したのは、昼を過ぎた頃だった。
誰もが呆然としながら、その光景を見た。
「これは、ひどい……」
ヴィヴィアンが呻くように呟く。
「本当に、ひどいな……。これは、どのくらいで復興できるのだ?」
国王であるヴラドおじさんまで現地視察に来てくれていた。
「米の収穫が終わっていて、本当に良かったです。今年は、なんとかなりそうですから……。でも、来年は、もしかしたら難しいかも……」
セスは暗い顔で俯く。
その景色は惨憺たるものだった。
何日か前までは、黄金の稲穂が揺れる、ロートシュタインの豊かさを象徴するような美しい景色だったはずが、今は大岩、枯れた木々、そして赤砂が一面を覆い尽くす、まるで死の大地と化していた。
その時、ラルフ・ドーソンはセスの肩にポン、と手を載せた。
そして、
「大丈夫さ!」
と、大きな声で励ました。
「何か、お考えがあるのですか?」
アンナが問いかけるが、
「いや、ない!」
と平気で言い放つ。
「じゃあ、どうするのよ?!」
エリカが詰め寄る。彼女はなぜか、狼たちを引き連れてこの場に来ていた。
「僕を舐めるなよ……。このロートシュタインの領主であり、大魔導士なんだ……、全部まるっと解決してやるぜ」
そう言って、右手の親指をグッと立ててみせた。
✢
一方その頃、時を同じくして、東大陸のとある港町。
波の音と、海鳥の鳴き声が響く。晴れ渡る空の下、海辺の茶屋で一人の女性が優雅に本を読んでいた。その姿は誰もが目を奪われるほどだ。通りかかった若い漁師たちは、
「おっ、おい……。とんでもねぇ美人がいるぜ……」
「あっりゃあ、ホントだ……ちょっと、声かけてみるかぁ〜?」
「バカっ! やめろ! よく見ろ!」
そう言われて、よく見ると、彼女の耳は特徴的な形をしていた。
そう、彼女はエルフだった。
恐ろしいほどに美しく、いや、神々しいとさえ言えた。まるで彼女の周囲だけが光で満たされているかのように。光を反射する極上の絹のようなロングヘア。鋭い剃刀のような光を宿した目。そして、薄手の神官服のような見慣れない服を着ていた。
そこへ一人の女性が駆けてくる。
「ユロゥウェルさん! ここにいましたか! ……どうやら、嵐は過ぎたようです。もう少しで出航できますので、どうぞ乗船してください」
ふむ、と頷いて、ユロゥウェルと呼ばれたエルフの女性は読んでいた本をパタリと閉じた。
「手間をかけさすなぁ、メリッサ船長。この茶を飲んだら、すぐに向かおうぞ……」
メリッサ・ストーンが去った後、ユロゥウェルは手元の本の表紙を見た。タイトルは『ロートシュタイン 魅惑のグルメ読本』。どうやら、ヨハンたちが手掛けた著書が、海を渡っていたらしい。
「……ロートシュタイン、か……」
ユロゥウェルは呟く。
あの地にいたのは、ほんの僅かな時だった。あれはいつのことだったか? 百年前か、二百年前か。いや、もしかしたら、千年以上経っているかもしれない……。
彼女はあまりにも長く生きすぎ、記憶すら陽炎のように霞む。ふと、あの男の人懐っこい笑顔を思い出す。
(まあ、あの"エロガキ"は、とっくにくたばっているだろうなぁ……。人間はすぐに死んでしまうから。……だが、もしかしたら、アイツの子孫には、会えるかもしれないな……)
彼女は本を片手に立ち上がる。
そして、
「……さて、孫たちは向こうで上手くやってるかねぇ……」
と呟いた。長い髪が、海風にたなびきキラキラと光った。
一方その頃、ロートシュタインでは……
「ブワッハェェェェェェェゥクション!」
「うっせぇなぁ! 汚ったねぇクシャミしてんじゃねーよ!!」
エルフのミュリエルの特大のクシャミに対して、ラルフがブチ切れた突っ込みを入れていた。あまりにも空気を読まなすぎる。
土砂に埋まった田園を前に、ラルフを中心とした頼もしい仲間たちが、珍しく真剣に復興計画を話し合っていた最中だったからだ。
ズルズルと鼻を啜ったミュリエルは、
「なーんか、寒気したなぁ、……風邪でもひいたろっか?」
と、一人不思議そうに、眉を歪めていた。




