213.嵐の夜
その日の夕方から、居酒屋領主館の裏口には、絶え間なくノックの音が響いていた。
「今度は誰だ?!」
ラルフは苛立ちを隠さずに、勢いよく扉を開く。
「よ! 公爵さま! 森でキノコを採ってきてやったぜ!」
そこに立っていたのは、カゴいっぱいのキノコを自慢げに見せる、木っ端貴族の若者たちだった。彼らは、家を継げない次男や三男で、いつからかこのロートシュタインに流れ着き、冒険者や商人の真似事をして生計を立てていた。
「はいよ。ありがとな。美味い料理にしてやるから期待しとけよ」
ラルフがニヤリと笑うと、若者たちは歓声を上げる。
「いぇー! ビール! ビール!」
「はぁ、わかってませんねぇ、舞茸のテンプラで、ハイボールこそ最上の組み合わせ!」
彼らは騒がしく、すでに開店を待つ行列へと去っていく。はぁ、とラルフは深いため息をついた。ここの常連客たちは、秋の味覚、キノコに完全に脳を焼かれてしまっていた。
森に分け入り、ひたすらキノコを探し、居酒屋領主館に差し入れとして持ち込む。ヒューズの著書に「幻」と書かれていた舞茸も、続々と運び込まれてくる。どうやら、探せばいくらでもある、という感じらしい。
その時、芝生を踏む音が聞こえた。また差し入れだろうか、と顔を上げると、冒険者ギルドマスターのヒューズが背中にカゴを背負って立っていた。
「ラルフ様、キノコと、イガ玉も持って来たぜ」
「おい、ヒューズ。舞茸なんだけどさ、お前、幻って書いてたよな? このとおり、割と集まってしまったんだが?」
ラルフが皮肉を言うと、ヒューズは肩をすくめた。
「今は人海戦術と言っていいくらい、冒険者たちが森に入って探しているんだ。そりゃ、集まるだろ?」
ラルフは、その言葉に納得しかけた。確かに、これまではソロの冒険者や小規模パーティーの活動範囲は限られていた。それに、ロートシュタインでは、冒険者は森よりもダンジョンに集まる。だからこそ、これまで幻とされていたのも無理はないのかもしれない。
その時、ヒューズが意味深なことを口にした。
「あの母狼が、群れから離れた理由、わかったかもしれん」
その言葉に、ラルフの表情が引き締まる。
「ほう……。何か、森に異変が?」
「珍しいことではないんだが、先週、夜中に大雨が降っただろ?」
「ああ。そういえば、確かに……」
「ちょいと気になってな。今日は誰も行かないような山奥まで行ってみたんだが……沢が崩落を起こしていて、堰止め湖ができていた……どうやら、かなり大規模な崩落だったらしい」
ヒューズの口から出たのは、不穏な事実だった。
「えっ? それって、かなり水が溜まっているのか?」
ラルフはその危険性を即座に理解した。もし堰き止めが決壊すれば、麓に土石流が押し寄せる可能性がある。ラルフは急いでヒューズを二階の執務室に連れて行き、地図を広げた。
「どこだ?」
「ここだ! この大川の支流、この峰に沿って、そう、ちょうどこの場所だ」
ヒューズが指差した一点を、ラルフは真剣な眼差しで見つめる。
「これは、……マズイなぁ」
ラルフが珍しく真剣な声で呟いた。
「ああ、俺もそう思うぜ……」
ラルフは事態の全容を把握した。
「もし決壊が起きてしまったら……被害が出るのは、水上都市か……セスの農村だ……」
もしも、水上都市の人工湖に土石流が流れ込めば、マスの養殖業は壊滅的な被害を受けるだろう。そして、セスの村に流れ込めば、水田に土砂が流れ込む。幸い、稲刈りは終えているが、復興は簡単ではない。
事態は想像以上に深刻だった。
自然災害。ラルフはいつかこの日が来ることを覚悟していたが、いざ直面すると、その重圧に息をのんだ。
「ラルフ様、どうする?」
ヒューズの問いに、ラルフは冷静に答える。
「今すぐにどうこうなるわけではない……。と、信じたい……。だが、対策はしておこう。そして、領民への説明も」
二人はゆっくりと階段を下りていく。居酒屋領主館はすでに開店時間を迎え、いつもの喧騒に包まれていた。
「ヤバい! ヤバいって! このサツマイモとキノコのグラタン! ワインが進みすぎるぅ!」
炎の精霊使い、パトリツィアが新たな美味に発狂していた。
「私は、このキノコになってバターの海に溺れたい!」
目の前に、スキレットいっぱいのキノコのオイル煮を広げた腹ペコ女騎士、ミラが恍惚とした表情で呟く。
その喧騒を打ち破るように、ラルフは声を張り上げた。
「すまん! みんな! ちょっと聞いてくれ!」
ラルフは、かいつまんで状況を皆に説明する。誰もが真剣に耳を傾けたが、どこか楽観的だった。
「ま、なんとかなるだろ?」
ドワーフの一人が呟く。
「そうだなぁ。心配ばかりしても、なるようにしかならんからなぁ」
セスの父親、ドッヂが相槌を打つ。
その時、裏口の扉が勢いよく開かれた。
「ねぇ、ラルフ! なんだか、"お母さん"、ソワソワして落ち着きがないの!」
エリカが現れた。彼女が"お母さん"と呼ぶのは、あの母狼だ。出産以来、エリカは謎の母性が芽生えてしまったかのように、子狼たちに付きっきりだった。
その横から、テイマーのヴィヴィアンも顔を出す。
「ラルフ・ドーソン。シャギーも、なんだか落ち着かないのだ……。もしかしたら、何か良くない事の前兆なのかもしれない……」
ヴィヴィアンの従魔、オオヤマネコの魔獣、シャギーも異変を察知しているらしい。
さらに、客席にいたリザードマンの戦士三人組が顔を上げる。
「領主さま。今夜は、なんだか、アタマ、痛い……」
「そうそう! こういう日、嵐が来る……」
「間違いない。それも、特大のやつ……」
彼らの野生の勘を、もはや無視することはできなかった。窓辺にいたドワーフが窓の外を眺め、呟く。
「なんだか……風が出てきたなぁ……」
ラルフは意を決してメイド長のアンナに告げた。
「アンナ、領兵たちに緊急の伝令を……非番の者も叩き起こせ。そして、ロートシュタイン全域に、警戒警報。及び、水辺の住人たちには避難勧告を……。行く当てのない者には、ここ、領主館に集まるように。最速最短で頼む」
その言葉には、信じられないほどの覚悟が滲んでいた。アンナは息をのむが、優秀なメイドとして、主を失望させるわけにはいかない。努めて硬い表情を保ち、
「はい……」
と簡潔に答え、すぐに動き出した。
「ラルフ……」
「お兄ちゃん?」
「え、なに? ……どうなっちゃうの?」
エリカもミンネもハルも、不安そうに尋ねる。しかし、ラルフは無言で厨房に入り、カウンターに立った。そして、皆が差し入れてくれたキノコを包丁で切り分け始める。
「今夜は嵐だ……。どうせ、帰るのも面倒になるだろ? 安くするからさ。お前ら、朝まで飲んでいけよ」
その言葉に、常連たちは歓声を上げた。
「いぇー!」
「そうこなくっちゃ!」
「キノコぉ! キノコぉ!」
誰もが、酒と料理に浮かれ、いつもの夜を過ごしているつもりだった。しかし、夜半過ぎ、雨が屋根を激しく打ちつける。誰もが、呆然と窓の外を眺め、試しに外に出てみる者もいた。
その夜、ロートシュタインに、観測史上、記録的な豪雨が降った。




