212.命
「マイタケの"テンブラ"くれー!」
冒険者の野太い声が、酒場に響く。
「"テンブラ"じゃない、"テンプラ"な……」
ラルフは呆れたように訂正しながら、揚げ鍋から黄金色の天ぷらをすくい上げた。
今夜の特別メニュー、舞茸の天ぷら。それは、ラルフとポンコツ三人娘が森で採取してきた、数量限定の特別な料理だ。一口食べればサクッとした歯ごたえと共に、中からキノコの旨味がじゅわりと広がる。その絶妙な味わいに、幸運にもありつけた者たちは至福の表情で舌鼓を打つ。
「このキノコ、こんなに美味かったのかぁ」
「もっと食いてぇなぁ……」
「明日は森に行って、探してみるか?」
そんな会話が酒場のあちこちで交わされる。ラルフは、天ぷらを揚げながら、最近の密かな趣味であるキノコ狩りについて思いを巡らせていた。この世界には、前世のようなデジタルコンテンツは存在しない。娯楽といえば、もっぱら物理的なものばかりだ。しかし、それがかえってシンプルで面白い。文明や科学が未発達な分、人々は自らの手で楽しみを生み出す。そのことに、彼はどこか新鮮な驚きを感じていた。
思考にふけっていると、裏口からヴィヴィアンが慌てた様子で入ってきた。
「ラルフ・ドーソン、どうやら、あの狼が産気づいたようだ」
その言葉に、ラルフは目を見開く。
「えぇー?! 大丈夫なの?」
「今はクレア王妃が見ている。しかし……なぜこんな時期に群れから逸れたのか……」
ヴィヴィアンは厨房の片隅にある従業員用の椅子に、どっと疲れたように座り込んだ。
「はいな!」
エリカが、ヴィヴィアンを労わるように温かいミルクティーを差し出す。
「ああ。かたじけない……」
ヴィヴィアンはミルクティーを受け取り、一口飲む。
「妊娠している一匹狼ってのは、珍しいのか?」
ラルフは、天ぷらを揚げながら尋ねた。
「狼は魔獣といえども、群れで生きるものだ。子育ても群れで協力して行う。なのに、あの子は……ある意味、ラルフ・ドーソンに助けを求めたのだろう」
「いや、最初は襲ってきたんだけどな」
ラルフは苦笑いを浮かべる。
「気が立っていたのだろう。とにかく、今夜中か、明日には生まれそうだ」
「あー、そういえば。狼って、何匹も産むんだっけ?」
「そうだ。私が聞いた話では、一度に七匹出産した例もあるようだ」
「はぁ……。どうすんだよ……」
ラルフは深いため息をついた。一匹ついてきたと思ったら、一気に五匹も六匹も増えるらしい。彼は思わず頭を抱えたくなる。
そのやり取りを聞いていた、カウンター席に座っていたドワーフが口を開く。
「思い出すなぁ……去年の冬だ。うちのが急に産気づいてよ……。そんで、厄介なことに逆子だったんだ……」
彼の神妙な声に、誰もが深刻な話だと聞き入っていたが、隣にいたドワーフがツッコミを入れた。
「お前の言ってるの、馬の話だよな?」
「そうさ……。あれは大変だった」
ドワーフは遠い目をして、しみじみと語る。その瞬間、エリカが突然立ち上がった。
「ちょっと、あたし見に行ってくるわ!」
「またかよ……。手伝えることなんてないんだから、ヴィヴィアンと王妃様に任せとけって」
ラルフは呆れるが、エリカは辛辣な言葉を返す。
「気になるじゃない! 役に立たないのは、あんたら男どもでしょ!」
そう言い放ち、彼女は裏手の馬小屋へと駆け出した。ラルフは、なぜ彼女がそれほどソワソワしているのか不思議に思う。エリカは、そんなに動物好きだっただろうか?
その日の夜、常連客たちは夜が明けるまで酒場に居座り続けた。
「もう帰れよ!」
ラルフが言っても、誰もが「いや、今夜は、ちょっと、居させてくれないか?」と答える。実は、ラルフ自身も、今夜ばかりはなぜか酔えなかった。いつもなら、夜半過ぎにはメイドたちに店を任せ、常連たちと深酒しているはずが、今夜はカウンターに立ち続けていた。孤児たちは早々に休ませたが、ハルなどは眠い目を擦りながら、「狼さん、どうなったの?」と真夜中に起きてくる始末だった。誰もが、異様な緊迫感と、ある種の期待に胸を高鳴らせていた。
やがて、エリカとスズが馬小屋から戻ってきた。二人とも、目をしょぼしょぼさせて眠そうだ。
「無理するな……。大丈夫だから。絶対に大丈夫だから……」
ラルフは珍しく優しい声で二人に語りかける。
「でも、あの子、苦しそうだった……」
エリカはいつもの傲慢な態度とは打って変わって、心配そうに呟く。
「ラルフ、お願い! あの子を助けて!」
珍しくスズがラルフに懇願する。
「だから、大丈夫だよ。僕を誰だと思ってるんだ? この王国随一の、大魔導士様だぞ!」
その言葉ほど頼もしいものはなかった。その時、聖教国の聖女が二人に声をかける。
「二人とも、こっちにいらっしゃい!」
聖女は二人をベンチ席に招き入れ、微笑んだ。
「心配なのはわかります。でも、大丈夫ですよ! ……ああ、そうだ! 聖教国に伝わる、狼と人間との神話でもお聞かせしましょうか? それは、まだ、すべての生き物が仲良しだった頃の世界のお話です……」
聖女の静かで、滑らかな陶器のように心地よい声に、二人は夢の中へと落ちていった。
エリカは夢を見ていた。
それは、森の中をどこかへ向かって歩いている夢だった。
行き先はわからない。
ただ、そこへ向かわなければならないことだけはわかっていた。
気がつくと、周囲には様々な生き物たちが、同じ場所を目指して歩みを進めている。隣にはオオヤマネコ、すぐ前にはキリン、振り返るとネズミたち。左には、なんと恐竜が歩いている。カバ、シカ、ライオン、マンモス、サル……ありとあらゆる生き物が、同じ道をたどっていた。
ふと、横にきた狼に尋ねる。
「ねぇ、これは、どこに向かっているの?」
すると狼は、
「ん? "あのお方"が、大切な話があるっていうからさ! あのお方が言うなら、行かなきゃだろ?」
と教えてくれた。
「そう。ありがとう」
なぜか納得してしまった。"あのお方"の言うことなら、仕方がないのだと。再び狼が話しかけてきた。
「なあ! また、耳の後ろを掻いてくれないか? お前の指は長くて器用だ。それが本当にたまらないんだよ。なあ、頼むよー」
そう懇願され、言われるがままに掻いてやった。狼はとても気持ちよさそうに目を細める。
やがて、開けた場所に出た。信じられないほどの数の生き物たちが集まっている。その中心には、"あのお方"がいた。光り輝き、その姿を形容することすら不敬に思える存在が……。そのお方が、言葉を紡ぎ始めた。
「ヒトは、大いに知能を手に入れてしまった。もう、森では生きられまい。なので、世界を分かつ必要がある」
その簡潔な言葉に、そのお方は手を振った。
すると大きな揺れと共に、大地に深い谷間ができてしまった。エリカは振り返った。そこには誰もいない。谷間の向こうには、大勢の生き物たち。そこで、エリカは気づいてしまう。
自分こそが、その、"ヒト"であると……。
ヒトである自分は、他の生き物たちから隔絶され、追放された存在なのだと。悲しみがこみ上げてきた。
そんなつもりはなかったのに……。
これからは、原罪を背負いながら、孤独という罰を受け入れなければならない。それが、なぜか理解できてしまったのだ。これから何年、何百年、いや何万年も続く、終わりのない孤独を……。
しかし、その時、遠吠えが響いた。
「アォォォォォォォォーン!」
一匹の狼が、突然走り出す。そして、谷間を飛び越え、ヒトの側にやってきた。あのお方ですら、戸惑いの声を上げた。
「な、何故だ?! そなた、何故そのような……」
「何故か? なんて、わかりません!」
狼は振り返り、偉大なる存在に毅然とした態度で答えた。
「バカな……もう森には戻れぬぞ!」
「構いません! 私は、私のともだちを、一人ぼっちにはさせたくはないのです!」
「愚かな……」
そんな声が聞こえた。
はっ! と、エリカは目を覚ました。
常連客たちは客席で突っ伏してイビキをかいている。誰がかけてくれたのか、エリカには毛布が掛けられていた。それを退け、裏口へ向かう。外へ出ると、朝日が燦々と降り注ぎ、鳥の声が聞こえた。エリカは思わず目を細める。
恐る恐る、馬小屋の扉を開いた。そこには、ヴィヴィアンとクレア王妃、聖女、そしてラルフがいた。彼らは、干し草に横たわる母狼を見下ろし、覗き込んでいる。ラルフがエリカに気づき、小さな声で手招きをした。
「おい、エリカ、見てみろよ!」
エリカは歩み寄る。
「五匹ですよ! 元気な赤ちゃんたちですぅー!」
聖女が歓喜の声を上げる。
「可愛い! 本当に可愛い! 頑張ったわねぇ、お母さん!」
クレア王妃が母狼の頭を優しく撫でている。その時、後ろのドアが「バンッ!」と開かれ、スズが恍惚とした表情で叫んだ。
「産まれたの?! うっわー、ちっちゃぁい! 可愛い!」
誰もが苦笑いを浮かべる。
エリカの眼下、フニャフニャとした、か弱い生命が、力いっぱいに「ぴゃー! ぴゃー!」と鳴いている。まだ目も開いていないのに、必死で生きようとしている。
ラルフがエリカと母狼に問いかける。
「ほら、抱っこしてみるか? いいか? お母さん?」
母狼は「ワフゥ……」と気だるい返事をした。ラルフは、その小さな生命をエリカの手にそっと乗せてくれた。
「クゥ~ン! クゥ~ン!」
エリカは、その頼りない子狼を抱き上げる。温かく、そして、か弱い。
こんなにも生命は、こんなにも弱く生まれてくるのか……。
そして、エリカは思わず呟いた。
「そう……、あなた……、あなた……。あなたは……こっち側へ、……来てくれたのね?」
次の瞬間、彼女の目から大粒の涙が溢れ出した。
「う……、ぐ……、ゔ……、ゔわぁぁぁぁぁぁぁん! うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!」
思わず、盛大に泣き出す。
エリカ自身、なぜ自分がこんなにも感情が溢れてしまったのか理解できなかった。
ただ、愛おしかった。生きていることが、たまらなく愛おしくなってしまったのだ。
その場の誰もが、優しい涙を流すエリカを見守っていた。




