208.聖女の生き方
聖教国の聖女、トーヴァ・レイヨンは、王国のロートシュタイン領にいた。
本来、聖女とは、神託を受け、大聖堂で祈りを捧げ続けることで国土を護る存在。その身を削る神聖な役目には、選ばれし者の命をすり減らすという、哀しい宿命が隠されている。
今代の聖女トーヴァは、聖教国の片隅の、小さな荘園に生まれた。
物心ついた頃には父の姿はなく、母と二人きりの暮らし。
麦畑に陽が差し込めば、金色の穂が風に揺れ、遠くから村人たちの笑い声が届く。飢えも、争いも知らない、平和で淡々とした日々。
だが、納屋の陰で耳にした農夫たちのひそひそ話が、幼いトーヴァの心を抉った。
「……あの子の父親は、主様だそうだ」
「ふん、だから顔を見せんのかね。やっぱり身分違いの恋だったんだろ」
心臓がどくりと鳴った。
父はもういないと教えられていた。だが、実際はすぐそばにいた。
言葉にできない影が幼い心に差した。それでも、彼女は母と共に畑を耕し、穏やかな時間の流れの中で、大人へと近づいていった。
――十四歳の春が訪れるまでは。
その日、大聖堂に神託が下った。
「新たな聖女は、トーヴァである」
皮肉なことに、運命の歯車は、そこでかみ合ってしまった。
大聖堂での生活は、目眩がするほど一変した。
教典を開き、教義を学び、儀礼の作法を覚え、ひたすらに祈る。
最初はそれを名誉だと信じていた。己の命を捧げる覚悟さえ持っていた。
……それから六年。
聖女トーヴァは悟る。
(――いや、もうこんなん、やってらんねぇわ……)
そんな時、教会の官女たちの噂話が耳に届く。なんでも、遠く離れた王国で、聖典にも描かれている伝説の竜が、地に墜ちたらしい……。
彼女は閃いた。そして、すぐさま一計を案じる。
「神託が下りました! 遠き王国に、一柱の竜が地に墜ちたと……。その御霊を天へと還すは、我が務め。神の御名において、聖なる鎮魂の祈りを捧げましょう」
と、大嘘をついた。
ロートシュタイン領主ラルフ・ドーソンへのお手紙を書き、返ってきたのは、
「どうぞ! お越し下さいませ!」
という簡潔な文言。
(なんだこの人 ?! 迎えは? 挨拶は? 宿泊場所は? 歓迎の宴は?!)
疑問は尽きなかったが、追伸に、
「とりあえず来てくだされば諸々なんとかなりますから、勝手気ままにロートシュタインをお楽しみ下さい!」
と書かれていた。
(よおし、じゃあ、本当に勝手に押しかけてやろう!)
と決意。気の置けない女官と最低限の護衛を伴い、王国へと渡った。
そこで彼女を待っていたのは、一生忘れられないであろう、世界最大のお祭り。
そして、数々の美食。
いつの間にか護衛や女官とはぐれ、気がつけば広場で酒をかっ喰らい、冒険者やエルフの女性と、大声を上げながら踊り狂っていた。
あれから、ずっとロートシュタイン領に滞在している。護衛や女官たちも、ここに留まることに協力的だった。彼ら彼女らも、このロートシュタインに心を、そして胃袋を掴まれてしまったのだ。
何よりも、この、形容しがたい自由な気風に。
本国には「聖女、体調不良、長旅は難しく、暫くの静養が必要」と、嘘の文を送っておいた。
いっそ、この地で自分の死を偽装できないか、と思い立ち、領主のラルフに相談したら、彼は言葉を失った。さらに、ヴラドおじさんに「外交問題になるからやめてくれ!」と、なぜか泣きつかれた。
それならば、他の手を探すしかない。どうせ、自分の後釜を狙っている者は多い。ならば、望む者にこの聖女の役割を押し付けてしまうのが、最も健全な道だろう。例えば、あの荘園主の娘。つまり、トーヴァの腹違いの妹に……。
まあ、そんな退屈なことは追々考えれば良い。
それよりも、今夜も酒と飯だ!
昼間、米の収穫で知り合った者たちと、童心に返ったように泥んこ遊びに興じてしまった。
マリエンヌ・ホテルに戻り、水上マーケットで買った、共和国の民族衣装に着替える。赤緑黄色の色彩豊かなポンチョを羽織ると、なんだか自分が何者でもないような気がした。聖女という重い肩書を脱ぎ捨てて、ただの一人の小娘に戻れたかのような……。
目抜き通りの風呂屋で汗と泥を流し、居酒屋領主館へと向かう。
扉を開けると、いつもの喧騒。むわりと鼻の奥を突く、酒精の香りと、魚を焼く香ばしい匂い。そして、愉快な友人たちの「かんぱーい!」という声。
やはり、ここが好きだ。心の底からそう思えた。
「ん? あれ? 聖女様かぁ! 一瞬誰かわからなかった! いや、その服、似合ってますよ!」
カウンター越しにラルフ・ドーソンが言った。
その声に、顔が熱くなるのを感じた……。なぜだろう? 理由は分からなかった。ただ、この服を買ってよかったと、単純にそう思った。
さて、どこに座ろうか。
カウンターがちょうど一席空いている。そこに座ろうかと思えば、その右にはお隣の領地を治める公爵が、米酒と秋刀魚の塩焼きを静かに嗜んでいる。そして左には、スパイス・クイーンのエリカが熱々のカレードリアと格闘していた。
(これは……、なんだか濃い……)
別に二人を嫌っているわけではない。普通に、他愛ない世間話をする間柄にはなっているはずだ。多分……。
逡巡していると、奥のテーブルから「聖女さまぁ! こっち来て一緒に飲まなーい?!」と声がかかる。
見れば、騎士ミラ・カーライルと、海賊公社のメリッサ・ストーンと、海の冒険者クラン"シャーク・ハンターズ"のフィセが、笑いながら手招きをしていた。
トーヴァは、そちらへ導かれるように、トトトっと駆け寄る。
「皆さん、お疲れ様です!」
笑顔で挨拶をすると、フィセが、
「この前、ウチのクランメンバーの治癒ありがとうね! あいつも本当に感謝してたよ 聖女さまさまだって!」
と、海で怪我をした仲間を代表して、心からのお礼を述べる。
「聖女様は、聖剣の生成方法とか知らないかな? あ、いや……。私じゃなくて、父がね……興味があるらしくて」
ミラが尋ねてくる。
「コラっ、ここでは、仕事なんて忘れて、ざっくばらんに飲みましょうよ」
海賊公社の長、メリッサが嗜める。
トーヴァはニコニコと顔で席につき、
「じゃあ! 恋バナとかしませんか? 皆さん、好きな人とかいます?!」
歳の近い、このように気の置けない同性の友人を得てしまったトーヴァは、この嬉しさを隠しきれず、感情だけが先走っていた。
すると、フィセが、
「そういえば、最近、メリッサさんと、ヒューズさん。仲良いですよね?」
と新ネタを投下する。
しかし、メリッサは冷静そのものだった。
「普通に、話す仲ではあるが……。こんな傷物を求める男はいないだろ?」
メリッサは、目の下の古傷を指さす。
しかし、残りの三人は思う。
(その傷も含めて、超絶美人が何を言っているのだ?)
燃えるような赤髪の女船長は、今や世界中で人気のアイコンとなりつつある。
その時だった。女同士の恭しい会話を遮るように、
「はいよー。茶わん蒸しお待ちぃ! 聖女様も、茶わん蒸し食べる?」
と聞いてきたのは、大魔導士にして、公爵のラルフ・ドーソンだった。
なぜか、女性たちは、いたたまれないため息をついた。
「ラルフ様って、間違いなく、一番優良物件ですよねぇ……」
とフィセ。
「私と結婚してくれないか? マスター。そして、毎日イエケーラーメンを私の為に作って欲しいのだが……」
ミラは欲望丸出しだ。
「ラルフ様って、そういえば公爵様なんですよね? なんか……、残念ですよね」
とメリッサ。
(えー?! ラルフ様って、公爵様なんですよねぇ? 皆さん、そんな不敬なこと、あり?)
トーヴァは不安になる。しかし、ラルフは、
「お前ら、失敬すぎるだろ?! 他に何か注文は?!」
と、雑に注文を取り、厨房に戻っていった。
トーヴァは思う。おごり高ぶった権威は嫌いだ。父が、そうであったように。
しかし、ラルフ・ドーソンは、違う気がした。
彼は肩書を振りかざさない。ただ、己の望む道を、迷いなく進んでいるように見えた。
(ああ、いつか。このロートシュタインに母を呼び寄せて、ここで暮らしたい)
その時は、聖女としての道ではなく、自分は、ただの小娘として、刹那的な純然たる欲望のままに、幸せな道を選ぶ気がしていた。
もしかしたら、それは、かつての母のように……。




