207.泥試合
快晴の空がどこまでも広がり、窓の外には、涼やかな秋風が流れている。夏の終わり特有の、ほんのりとした感傷が胸を掠める。ラルフ・ドーソンは、そんな心持ちのまま、午前中の書類仕事を完璧に片付けた。
その時、窓を横切る巨大な影。直後、ドォン!と轟くような落下音。レッドフォードが狩りから戻り、本日の獲物を庭に落としたのだ。いつものことながら、その豪快な音にラルフは苦笑する。彼の獲物の一部は、居酒屋領主館の常連客の腹を満たすために供される、かけがえのない食材となっていた。
さて、そろそろ出かける時間だ。目的は、セスの村で催される稲刈りイベント。
愛車である魔導車:ロードスターを走らせ、街道から村道へ。窓の外を流れる田園風景には、稲刈りに精を出す領民たちの姿。涼しくなってきたとはいえ、身体を動かす彼らの額には、キラキラと汗が光っていた。
ふと、視界の端に、道端で蠢く奇妙な物体を捉える。
「ん? んんんん?? あっ!」
目を凝らすと、それは見知った人物だった。ラルフは急ブレーキをかけ、ロードスターを路肩に停める。
「おい! ヒューズ! どうした?! 何があった?!」
駆け寄ると、彼は白い糸のようなものにぐるぐる巻きにされ、もがき苦しんでいた。
「ラルフ様、ちょうどいいところに! 早くこれを何とかしてくれ! 魔獣だ! 厄介な魔獣が出た!」
ヒューズの叫びに、ラルフはマジック・バッグからドーソン家の紋章が入った短剣を取り出し、糸を切りにかかる。
「なんだこれ? くっそ、……やけに丈夫な糸だな……」
ギコギコと刃を前後に動かし、ようやく拘束を解き放つ。
「助かった! とにかくヤバい! 蜘蛛型の魔獣だ! あんなヤツは見たことも聞いたこともない! おそらく変異種だ!」
ヒューズの焦燥した声に、ラルフの表情も引き締まる。
「どっちへ行った?!」
「この先、村の方だ!」
その言葉に、ラルフの背筋に冷たいものが走る。ヒューズが指差すのは、まさに彼が向かおうとしていた、セスが住む村だった。村人だけでなく、王族や共和国の議員、さらには聖教国の聖女様までが集まっているはずだ。加えて、噂を聞きつけた屋台の店主たちも出店すると聞いている。予想以上に人が集まっている可能性が高い。そこに、凄腕冒険者であるヒューズですら歯が立たなかった魔獣が出現したとなれば……。
「乗れ! ヒューズ!」
「おっ、おう!」
二人はロードスターに飛び乗る。ラルフはアクセルをベタ踏みし、タイヤが砂埃を巻き上げて疾走する。
やがて村にたどり着くと、田園の脇に多くの人々が集まっていた。ラルフが想像していたような騒動は起きていない。しかし、その群衆の中心に、"それ"は鎮座していた。
黒髪に黒いセーラー服姿、ダンジョン・マスターのスズ。そしてその隣には、ヒューズが魔獣と呼んでいた、蜘蛛型の物体。
「あ! あいつだ! あれが……、って、あれ?」
ヒューズもようやく、それが魔獣ではないことに気づいたようだ。二人は車を降り、人混みに近づく。居酒屋領主館の常連客の顔もちらほらと見える。
ラルフはスズに問いかけた。
「おい、スズ……。それ、何だ?」
スズは一瞬、不思議そうな顔をして答える。
「蜘蛛ですが、何か?」
「ヤメロ! なるほど、そういうことかぁ……」
ラルフはすべての事情を察し、深い溜息をついた。
「稲刈りに使えると思って、新作を持ってきたの……」
「いや……これ、デザインは微妙に違うけど、どう見ても『あれ』だよな?」
それはラルフの前世でも好きだった、あの有名アニメに登場する蜘蛛型メカ、思考戦車だった。
「そう。その通り。『あれ』で合ってる。ずっと作りたかったの」
「なんで赤色なんだ?」
「ゲーム版の方が好きだったから」
「ああ、プレステのね……」
ラルフは諦めたように肩を落とす。
「ラルフも欲しい?」
その言葉に、ラルフは正直に呟いてしまった。
「…………ちょっと、欲しい……」
「いやいやいやいや! わけわからん!? なんで俺を襲ったんだよ?!」
ヒューズが叫ぶ。
「先に襲ってきたのは、貴方。私は移動していただけ」
「えっ……ああ、そういえ……ば?」
事の顛末は、かくも単純な勘違いだった。スズは新作ゴーレムを地上に出すため、森に転移陣を設置し、村へ移動している最中、運悪くヒューズと遭遇した。ヒューズはそれを魔獣と勘違いし、攻撃。スズは仕方なく、非殺傷の形で彼を無力化したのだ。真実とは、往々にしてこんなものだ。
「なんで今更こんなものを作ったんだ?」
ラルフが尋ねる。
「そう、囁いたのよ。私のゴーストが……」
そのセリフに、ラルフは再び深いため息をついた。
ラルフとヒューズ、二人の魔獣騒動は終焉を迎え、屋台でじゃがバターを購入し、腹ごしらえをする。
人々は、魔導機械を使った大規模農家の収穫作業を眺めていた。
「これは凄い……。人手がほとんどいらないではないか」
共和国の参事会議員が呟く。
「私、少し鎌で収穫を手伝ってもいいですか? 故郷の村では麦を作っていたので、なんだか懐かしくて……」
聖教国の聖女様が、鎌を片手に腕まくりをする。
スパイス・クイーンの異名を持つエリカもこの場にいた。
「セス! カレーライスに合う品種はどれなの?」
彼女の問いに、少年は自信満々に答える。
「何カレーかによりますけど、独立したお米の繊細な甘みより、カレールウとの相性を考えるなら、少し歯ごたえがある、この区画の品種が……」
エリカは真剣な表情でその情報をメモに書き留めていく。
すぐ近くでは、セスの父親が炊きたての新米で小さなオニギリを作り、貴族たちに試食を勧めていた。
「これ、本当に味付けは塩だけなのかね?」
「信じられんな……。この甘みと、ふわりと香る、この……なんというか、野性味はなんなのかね?」
他国の重鎮たちが、農園で雇われている奴隷のブロディに質問する。
「そりゃあ、間違いなく、土と水だ! 特にロートシュタインは水に恵まれている。この米で酒も造るが、酒造りにも良い水は不可欠だ。……わかるかい? あんたらだったらわかるだろ? ここは、約束された大地なんだよ!」
ブロディの巧みな口上は、元地面師という過去を物語っていた。
「なるほど! 私も出資しようかな!」
「いやいや、帝国にも上質な水源がある。我が国でも稲作を導入できると思うのだがなぁ」
麗らかな田園地帯は、いつしか各国の通商の場へと変わっていた。
「うちで仕込んだ濁り酒があるが、飲んでみたい人はいますか?」
セスの父がボトルを持ち上げると、
「飲む!」
「飲ませろ!」
「飲みたい! えーい、私が先だ!」
貴族たちが我先にと奪い合い、平和な戦争が繰り広げられる。その光景を、ラルフは苦笑して見守っていた。
しかし、その時、良からぬ悪戯を企んでいる人物がいた。エリカだ。
水を抜いた水田の片隅で、泥んこ遊びをしていた子供たちが、母親に叱られている。「こら! そんなに汚して! 誰が洗濯すると思ってるんだい!」
エリカは、そっとその泥溜まりに近づく。傲岸不遜な領主、ラルフに一泡吹かせてやる絶好のチャンスだ。両手を泥に突っ込み、泥を掬う。
(あの得意満面な顔面にぶち当ててやれば、さぞ面白いことになるだろう!)と企んだ、その瞬間。
トンッ……。
後頭部をつつく感触。それは、銃口に見立てた、ラルフの右手の指だった。
「動くな! お前、それで何を企んでいた?」
冷たい声が響く。エリカは内心焦りながらも、苦しい言い訳をする。
「は? ……別に、何も企んでなんていないわよ……ちょっと童心に返って、泥んこ遊びでもと……」
「貴族家出身のお前が、童心に返って泥んこ遊びなんてするはずがないだろう?! 変な真似はするな。……おっと、ゆっくりだ……、ゆっくり、それを、置け!」
ラルフが命じる。エリカは考えた。大魔導士といえど、魔法の発動には隙が生まれる。自分が振り返るのが先か、ラルフが魔法を発動させるのが先か?
刹那、エリカは右手に泥を握ったまま振り返った。しかし、ラルフもまた、その先を予測していた。彼の右手にも、泥団子があったのだ。
まるでスローモーションのように、二人の姿が映し出される。
互いに右手の泥を相手に投げつける。
結果は……。
ベチャ!
ベチャ!
顔面に泥を食らい、二人は相打ちとなった。
「ぶはぁ! ぺっぺっ! なにすんだ?!」
「ぶべろっ! ぶはっ! くっそー! やったわね?!」
それを合図に、泥合戦が始まった。
「うりゃうりゃうりゃうりゃ!」
「てや! てや!」
しかし、ラルフが投げた泥団子が、最悪なことに、国王ヴラドの顔面に直撃してしまう。
その場にいた誰もが、凍りついたように固まる。ラルフもエリカも、顔面を青ざめさせている。
そして、国王ウラデュウス・フォン・バランタインは、
「……き、き、貴様らぁ! 極刑に処してやろうかぁ!!!」
そう叫ぶと、足元の泥を手に取り、ラルフに投げつけた。
「おっ! やるかぁ?! こうなったら、国盗り合戦じゃーい!」
ラルフは、自らの馬鹿げた発言に気づきつつも、幼心を抑えきれない。
貴族も農民も関係なく、「面白そうだ!」とばかりに、次々と泥合戦に身を投じていった。
農村の奥様方は、「はぁ、男って、仕方ないわねぇ」と、呆れながらも笑ってその騒動を眺めている。
国王が投げた泥玉が、聖教国の聖女様の顔面にヒットする。
「あっ! うわ、あら……」
ラルフから、思わずヤバめの声が漏れた。誰もが「やっちまった!」という表情で彼女を見やるが、
「……んもぉ……、やってくれましたわね?! なら、こちらからも、いきますよー!」
彼女は楽しげに笑った。
泥合戦は苛烈を極め、誰もが笑い疲れ、腹を抱えた。
その夜、居酒屋領主館の門をくぐろうとする泥まみれの面々。
「汚いから、せめて汚れを落としてから来てください」
冷たい目で言い放ち、アンナはバタンとドアを閉めた。
まさか、この居酒屋の経営者であるラルフや、国王、聖女様という特権階級ですら入店拒否されるとは、誰も予想していなかった。
この世界の摂理は、あのロートシュタインの有能なメイド長が牛耳っているのではないか? と、 泥だらけの面々は、無表情で顔を見合わせた……。




