199.吟遊詩人の欲②
ソニアとラルフが連れ立って足を踏み入れたのは、ドワーフの道具屋街だった。
昼下がりの陽光が石畳に影を落とし、行き交う人々のざわめきが、どこか遠い調べのように響く。
ラルフは、ソニアの心を揺さぶったという、その豪華な弦楽器に興味を覚えた。
前世の趣味であったギターの弾き語りを、この異世界でララティナという楽器と共に復活させて以来、半ばプロのミュージシャンとして、ラルフ&ソニアのフォークデュオは、海の向こうの国々にまでその名を轟かせている。
公爵、領主、魔導研究者、発明家、居酒屋経営者、そしてミュージシャン。
多すぎる肩書を思えば、この謎の忙しさにも合点がいく。だが、その事実を直視しただけで、どうにも疲労感がこみ上げてくるので、ラルフは考えるのをやめた。
道すがら、屋台で買った苺飴を口にしながら、二人は目的の店へと向かう。
そこは、一目で職人の並々ならぬ拘りが感じられる店構えだった。複雑に組み合わされた木材の外壁は、まるで精緻なプラモデルのよう。大きなガラス窓からは、店内の様子がうかがえ、色とりどりの装飾品や小箱が陽光を浴びて輝いている。そして、その店の顔とも言うべき場所に、硝子ケースに収められた、あたかも美術作品のような豪華なララティナが鎮座していた。ソニアが心奪われたのは、間違いなくこれだとラルフは確信した。
「なるほど、こりゃあ、凄ぇわ……」
ラルフが思わず感嘆の声を漏らし、その洗練と巧緻の極みを覗き込む。その時、店の中から一人のドワーフが顔を出した。店主のポール・リーだ。
「もしかして……とは思いましたが、やはりラルフ様でしたか……」
ポールがそう言うと、ラルフは懐かしむように答えた。
「やあ、ポールさん。ソニアから話を聞いたとき、ポールさんのお店なんじゃないかって思ってたんですよ」
唐突な知り合い同士の会話に、ソニアは戸惑いを隠せない。
「え、お知り合いでしたか……?」
ラルフは得意げに胸を張った。
「居酒屋領主館をオープンさせるとき、食器類でお世話になったのよねぇ。店で使ってる、お椀もお箸も、全部ポールさんのお手製なんだな!」
ソニアは合点がいった。確かに、居酒屋で使われている木製の器は、このララティナと似たような花の模様が描かれていた気がする。その精緻な手仕事は、この店の職人が生み出したものだったのだ。
ポールが不安そうに問いかける。
「もしかして、その楽器を買いにいらしたんですかい?」
ラルフは首を横に振った。
「いや、僕は見てみたかっただけ。ソニアは、これが欲しいんだろ?」
しかし、ソニアは言葉を濁した。その目に宿る欲望と、それを抑え込もうとする理性の間で揺れ動いている。
「あ……、いや、その……でも……」
すると、ポールが衝撃の事実を口にした。
「実はですねぇ……。これを買いたいという客が、もう一人おってな……」
この楽器が放つオーラを思えば、当然のことだった。ソニア以外に目を付ける者がいても、不思議ではない。
ラルフは興味本位で尋ねる。
「それは、どなた?」
ポールは答えた。
「この国の宮廷楽団の楽団長さんでな……。なんでも、娘さんのために買い与えたいとか……」
その言葉に、ラルフとソニアは無表情で顔を見合わせた。知り合いどころか、まごうことなき親しい間柄、オルランドだった。
彼の娘がソニアの熱狂的なファンであることは、以前から耳にしていた。王都での記念式典でソニアの歌と演奏を聴いて以来、自室に肖像画を飾り、サイン色紙を眺めてはため息をつくという。
己を憧れてくれる存在から、その楽器を奪うような真似はできない。
ソニアは、ラルフに借りてでも買おうかと一瞬よぎった自身の浅ましさに、胸が痛むのを感じた。
そもそも、自分には素晴らしい楽器がある。大工の父が作ってくれた、弾きやすく、愛着のある楽器だ。その初号器をラルフに譲って以来、さらに使いやすさを追求して父にオーダーしたのが、今の愛器。不満などあるはずもない。なのに、どうして、これほどまでにこの楽器に心を奪われてしまったのだろう。
いや、ダメだ!
私は、ダメだ。……ラルフ様に頼ろうとした時点で、私はもうダメなのだ。楽器の力で高みに登ろうなどと、考えた時点で。
歌でお金が稼げるようになった。ラルフ様と巡り合えた。
ちょっと運が良かっただけ。それに胡座をかいてはいけない。
平民だから、
女だから、
生き方を選べないなんて、そんなの、
本当に嫌だった。
音楽に惹かれたのは、お金のためではない。
ただ、
そう……。自由になれる気がしたからだ。
この身を、この生涯を音楽に捧げようと、そう心に誓ったはずなのに、今の自分はなんだ?
すると、ラルフがソニアの心情を察するように言った。
「オルランドさんに、僕から頼んでみようか?……ねぇ、ポールさん……」
その言葉を遮るように、ソニアはラルフの袖を強く掴んだ。そして、掠れた声で、決意を口にする。
「いえ、……オルランドさんの娘さんに、よろしくお伝えください。音楽って、楽しいから……。楽しんでね! って……」
ラルフは、ソニアの目に浮かんだ涙に気づき、それ以上は何も言えなくなった。
彼の優しさが、今のソニアには痛かった。みじめだ。
あまりにも……みじめすぎる。
これを買えるお金は、今の自分にはない。しかし、買えないわけではない。本当にそうなのだ……。
ただ、本当に欲しい"もの"を諦め続けるのは、自分の力不足ではなく、何か目に見えない大きな不条理のせいだと、責任を転嫁したくなるのだ。
ソニアは、物欲の果てに、無人島で一人佇んでいるかのような錯覚に陥った。ラルフの声も、ポールの声も、遠い海の音のように聞こえる。
本当に欲しくてたまらないものは、常に蜃気楼のように、手の届かない場所に消えていく。
私には、不釣り合いだから……。
ソニアは、もう一度ガラスケースに視線を戻した。煌めくララティナは、もはや現実の楽器ではなく、彼女が追い求めてきた自由の象徴に見えた。
それは、平民として生まれ、女として生きてきた彼女が、音楽という唯一の手段で手に入れようとした、夢そのもの。
しかし、その夢は、他の誰かの純粋な憧れとぶつかり、蜃気楼のように揺らいでいる。彼女は、それを掴むことを諦めた。それは、敗北ではなかった。むしろ、自分の心の弱さを認め、そして、もう一度立ち上がるための、静かなる決意だった。
本当に大切なものは、他者から与えられるものではない。自分の手で、この声で、この音色で、創り出していくしかないのだ。
ソニアの唇から、小さな、しかし確かな呟きがこぼれた。
「……帰りましょう、ラルフ様。なんだか、お腹が空いてきました」
その声は、彼女自身の心に響く、新しい歌の始まりなのか、……単なる言い訳なのか……。
ラルフは、
「まあ、まずは、まずはさ、色々あるだろうけどさ……、酒でも飲もうぜ!」
と言ってくれた。




