198.吟遊詩人の欲①
吟遊詩人のソニアは、その日、運命の出会いを果たした……いや、厄介極まりない巡り合わせだった。
場所は、ロートシュタイン領、ドワーフたちが営む道具屋街。最近、領主であるラルフ・ドーソンや、親しみを込めて「ヴラドおじさん」と呼ぶ国王がかけている色つき硝子板の眼鏡、――すなわちサングラスに興味を惹かれていた。妙にお洒落に見え、自分に似合うものはないかと足を運んだのだが、思わぬものがソニアの目を奪った。
とある店の硝子ケースの中に、それは静かに鎮座していた。ソニアも愛用する、ララティナと呼ばれる弦楽器。だが、それは愛器とは似ても似つかない……、いや、格が違うと直感させる代物だった。ソニアは吸い寄せられるように硝子ケースに張り付き、眼球が飛び出さんばかりに凝視する。そして、感嘆の吐息が漏れた。
「うぅぅぅぅぅぅっわ……。何これ? 凄すぎ……」
それは、まるでアーティファクト。伝統工芸品であり、美術作品。あるいは、音楽の女神ミューズがこの世に具現化したかのよう。どんな最上の言葉を並べても、その美しさを言語化することは叶わない。
黄金色の麦畑を思わせるボディトップには、木目がさざ波のように奥深い立体感を演出している。そして、最もソニアの心を掴んだのは、指板の黒檀に施された、クレマチスの花と蔓の細工だった。見る角度によって青白い光沢を放ち、まるで命が宿っているかのようだ。
「えぇ……。これ、どうやって描いてるんだろ?」
無意識に疑問を口にした、その時だった。
「それは描いてるんじゃない。黒檀を彫って、そこに孔雀貝を隙間なく埋め込む、細工技術だ……」
柔らかな笑みを浮かべた、痩身のドワーフがそこに立っていた。どこか得意げな顔つきに、ソニアは息をのむ。
「貴方が、この楽器の、作者ですか?」
「ああ、その通り……。初めまして、吟遊詩人のソニアさん」
「えっ?! 私の名前を?!」
ソニアは飛び上がらんばかりに驚いた。
「当然だろう! ここ、ロートシュタインのドワーフで、ラルフ様とあんたを知らん者はいないと思うがな……」
その言葉に、ソニアは気分を良くして、つい長話をしてしまった。楽器の制作者であるドワーフの細工師は、ポール・リーと名乗った。
「これはロートシュタイン祭で、ラルフ&ソニアのステージを観て、その感動的な音楽に感化されて作ってみたんだ」
と、彼は事も無げに言ったが、実家が家具屋を営んでいたソニアには、その技術の凄まじさが手に取るように分かった。
木材の選定、木工、金属加工、そしてコンマミリ単位の狂いも許されない象嵌の細工……。それは最早、"狂気"と言っても過言ではない。ソニアの肌には、ゾクリと鳥肌が立った。
(これが、……欲しい……)
それは抑えきれない、自然な欲求だった。しかし、問題はただ一つ。
「あのぅ……。これ、おいくらですか?」
意を決して尋ねると、ポールの表情は少し曇った。
「これはなぁ……正直、売り物として考えてなかった。だが、売るとするなら、せめて制作費を貰いたいところで……このくらいかな?」
ポールが示した指の数に、ソニアは悟った。通常のララティナの、桁が一つ上の額。
しかし、……買えないわけではない。
ソニアの稼ぎ三ヶ月分ほどだ。だが、その稼ぎを全てこれに費やして、どうやって日々の糧を得るのか。
手が届きそうで、届かない……。いや、冷静に考えれば、衣食住すべてを犠牲にして、物欲に身を投じるなど、ありえない話だ。ソニアは頭を抱えた。
ならば、どうする? 諦めるのか?
いや、この魔力に抗えるはずがない。
仕事を増やすか? 幸い、自分は売れっ子の吟遊詩人だ。演目を増やし、稼働日数を増やし、王都での単独公演をこなせば、収入は増やせる。だが、その間に誰かに買われてしまったら? ポールに、取り置きをお願いすることも頭をよぎったが、職人に対して機会損失を負わせるのがどれほど悪かを知るソニアに、そんな我儘は言い出せない。
いっそ……ラルフに金を借りるか?
いや! ダメだダメだダメだ! それは、なんだか一線を越えてしまう気がする!
ソニアは知っている。事情を話せば、ラルフは金貨の何枚かを惜しみなく差し出してくれるだろう。なにせ、ラルフとは仲良しなのだから。しかし、それに甘えていいはずがない。
「試し弾きしてみるかね?」
ポールの提案に、ソニアは肩を落とし、店を後にした。
「いえ……。また来ます……」
本当に、あの楽器を諦めて後悔はしないのか? 悪魔の囁きのように、物欲と切実な経済状況がソニアの中でせめぎ合う。
結論、
(節約だ!)
まずは、居酒屋領主館で毎日飲むのをやめよう。そう決意したにもかかわらず、その日の夜も、ソニアは暖簾をくぐってしまっていた。
(バカっ、バカっ! 私のバカっ!)
自責の念に駆られながらも、時すでに遅し。ソニアの大いなる悩みを気にも留めず、隣に来た給仕係のエリカが、
「ほらぁ、ちゃっちゃと注文しなさいよぉ……」と急かす。
「あのぅ……。このお店で、一番安いメニューって、なんですか?」
恐る恐る尋ねると、エリカは目を丸くした。カウンターの向こうから、ラルフの声が聞こえる。
「目玉焼き定食だな」
なぜ鶏卵を焼いただけの料理が、"目玉"などという不気味な名を冠しているのかは常連たちにとっても謎だったが、ソニアはそれを注文した。ラルフは訝しげに尋ねる。
「ソニア……、もしかして、ダイエット中?」
エリカは悪戯っぽく、唐突にソニアの脇腹をつまみながら、
「お腹のぜい肉が気になるお年頃かしら?」
思わずソニアのチョップがエリカの眉間に炸裂したが、「悪かったわよ……」と額を撫でながら退散していった。
やがて目の前に運ばれてきた目玉焼き定食。鶏卵を焼いたものが二つ。"タコさんウィンナー"と呼ばれる、海の魔獣を模した腸詰めが二匹。刻んだキャベツ。小鉢には、麻婆豆腐に、胡瓜の浅漬け、そして鯖の味噌煮まで付いている。ご飯と味噌汁はおかわり自由。ラルフ曰く、学生や新米冒険者向けのサービスメニューだという。
(豪華すぎやしない?!)
ソニアは焦りを覚える。その様子を見て、ラルフが切り出した。
「聞きづらいけどさぁ、……何? お金に困ってる感じ? 売れっ子吟遊詩人の、ソニアが?」
「ぐっ……」
ソニアは唸る。やむなく、事情を正直に話した。するとラルフは、
「金、貸そうか?」
と、何の気なしに提案してきた。なぜ、この領主様は、これほどまでに優しいのだろうか。また、甘えてしまいそうになる。
いや……、ダメだダメだダメだ!
意地か、見栄か、それとも矜持か。ソニアは奥歯が砕けんばかりに歯を食いしばり、味噌汁を流し込んだ。しかし、脳裏に浮かぶのは、あの最上級に美しいララティナの姿。いっそ、ここで皿洗いをさせてもらって、収入を増やそうかとも思ったが、それもまた、ラルフに甘えることには変わりない。
タコさんウィンナーを一つ、口に放り込む。
(あっ、美味しい……)
いっそ、数カ月、このタコさんウィンナーだけ食べて生きたら、もっと節約できるのではないか? と非現実的な妄想まで浮かんでくる。とにかく、今は金。金。金。あれを手に入れるには、金が必要なのだ……。
「おい、ソニア……」
(そういえば、競馬で大勝ちしたら大金が手に入ると聞いた……)
「ソニア!」
(エリカさんに、馬券の買い方を聞けば!)
「ソニア!!」
(明日にも、アレが買える!)
「おい!!! ソニア!!!!」
ラルフ・ドーソンの本気の絶叫が店内に響き、店内は静まり返る。ラルフはため息を一つ。
「あ。いや。ごめん……。その楽器、そんなに欲しい? ……いや、そりゃ。わかる。わかるけどさ…。欲しいものがあるのは、本当にわかる……。けど、なんか……。今のお前、らしくないぞ……」
そう言って、ソニアが我慢して注文しなかったトニスのハイボールをカウンターに置いてくれた。どうやら、これは奢りらしい……。
「そりゃあ、ラルフ様はお金、ありますよねぇ……」
その言葉。思わず吐いてしまった。……いくらなんでも、不敬にも程がある。公爵であるラルフに、平民のソニアがこんな物言いを許されるはずがない。常連たちも固唾を飲んで見守っている。ソニアは、少し後悔した。そうだった……、この厚顔無恥な振る舞いを許してくれる音楽のパートナーは、公爵なのだ。
しかし、ラルフは、
「いやまぁ……。でも、それ。そんなに、凄いの? ちょっと、僕も見てみたいんだけど! 明日一緒に、ドワーフの道具屋街に行かない?」
と、ニヤニヤしながら誘ってきた。それによって、店内に漂っていた緊迫感は霧散していく。ソニアは、自分を気遣ってくれたラルフの配慮に、欲望に囚われていた自分を恥じた。
なんだか、歌を歌いたくなった。また、ラルフとの歌を……。そこには、あの豪華絢爛な楽器は必要ない気がする。
それでもラルフは、酔いが回った夜更けに、しきりに言い募るのだった。
「いいから! 僕が買ってあげるってば!!」
と、
またもや、自分の欲を恥じるばかりだが。
明日、この心優しい領主さまとお出掛けできるのは、なんだか楽しいのではないかと、そう思ってしまうのだ……。




