197.月
「う、う、うううむぅ……」
呻き声が、どこか遠い響きのように、耳の奥で反響した。
火魔法の名手、パトリツィア・スーノは、今、人生の岐路に立たされていた。彼女の視界を埋め尽くすのは、ロートシュタイン領の商業ギルドの求人掲示板だ。壁一面にびっしりと貼り付けられた紙の束が、まるで無数の白い鱗のように、光を反射している。
"至急求む!"
その文字は、どれもが血走った目のように見えた。かつての同級生、領主ラルフ・ドーソン公爵が巻き起こしたグルメ革命は、新たな産業の芽を次々と生み出し、それに引き寄せられるように人々が流れ込んできた。だが、産業の成長スピードが人口の流入に追いつかず、この街は空前絶後の人手不足に陥っている。
パトリツィアもまた、その「移住者予備軍」の一人だ。
あのロートシュタイン祭で花火要員として王都から呼び出されて以来、彼女はここに根を下ろし続けている。王都では、その火魔法の腕を活かし、冒険者の真似事をして糊口を凌いでいた。しかし、ロートシュタインの魅惑的な美食と、ざっくばらんな気風が彼女の心を捉えて離さない。
何よりも、この地で起きた「出会い」が大きかった。ロートシュタイン岩島ダンジョンでの、炎の精霊、"サラちゃん"との邂逅。その縁によって、パトリツィアは"炎の精霊使い"という特大のランクアップを遂げた。この街にいれば、きっとこれからも面白いことが起こる。そんな予感は、確信へと変わりつつあった。
(王都の下宿は引き払えばいい。ただ、そのために一度戻らなければならないのがもどかしい)
二拠点生活という選択肢も頭をよぎるが、どちらにせよ、このロートシュタインで暮らしていくための「糧」が必要だ。
「また、冒険者の臨時メンバーでもやろうかなぁ」
ぽつりと呟いた。その瞬間、彼女の肩に小さな重みが乗る。真っ赤な、眠たげな目をしたヤモリのような姿をした相棒、炎の精霊のサラちゃんだ。パトリツィアはそっと、その小さな頭を撫でた。
悩む。悩む。ひたすらに悩む。
多種多様な仕事が目の前に広がっている。冒険者として生きていく道も悪くはない。しかし、この街に来てから、彼女の心に前向きな欲求が芽生え始めていた。自分のスキルを、そして可能性を、もっと広げてみたい。そんな衝動が、彼女の胸を焦がしていた。
かつて、学園で師が言っていた言葉が脳裏をよぎる。
『人生とはな、案外長い……。後悔無きように。挑戦すべき時こそ、挑戦せよ! 若者よ……』
その言葉に、パトリツィアは深い感銘を受けたものだった。だが、つい昨日、居酒屋領主館で見かけた師の姿は、その幻影を打ち砕いた。
「あー、もう。これからは毎日うまい酒飲んで。それで死んでいくわぁ。バカなガキども教えるの、もう、疲れたわ……。もう、仕事したくない……ラルフぅ! 米酒二合追加ぁ!」
師は、泥酔して余生宣言をしていた。
その姿に、パトリツィアは深く幻滅したが、同時に、人間らしい弱さを垣間見た気がして、なんだか笑えてきた。
さて、余談は置いておいて、仕事だ。
求人広告を眺める。そこには、火魔法の使い手である彼女の興味を掻き立てるものが、いくつもあった。
"来たれ! 海のバケモノ狩り! 君は、伝説になることができるか? 一狩りいこうぜ!"
問い合わせはこちら→シャーク・ハンターズ
確か、フィセが所属する冒険者クランだ。
"大海を駆けるロマン……。まだ見ぬフロンティア……。君も、海賊王になれる! かも……"
問い合わせはこちら→海賊公社
メリッサ・ストーンが代表を務める、半官半民の輸送船団。未だに「海賊」を名乗っているのは、彼らの矜持なのか、それとも誰かの趣味なのだろうか。
他にも、パン屋の店員、大規模米農家の従業員、ポンコツラーメンのフランチャイズ店員、商業ギルドの事務員、地下街の店舗施工管理、水上都市の養殖業マネジメント、物流管理業務……。
どれもこれも、提示された報酬額は満足のいくものだ。そして、将来的な成長に応じて増額される希望が記されている。
だが、パトリツィアは知っている。冒険者ギルドに行けば、これ以上の、桁外れの報酬が提示されたクエストが貼り出されていることを。
彼女は迷いを抱えたまま、街道を歩き出す。足は自然と、居酒屋領主館へと向かっていた。
パトリツィアは、領主館の客室に寝泊まりしている。そこには、博識な孤児たちや、貴族令嬢のエリカも滞在していた。夜、領主館の大浴場に集い、裸の付き合いをする女たちの生々しくも下世話な噂話は、彼女の心を高揚させた。王都では決して味わえない、このざっくばらんな空気が心地よかった。
居酒屋領主館の暖簾をくぐると、いつもの喧騒が彼女を迎える。
「サシミくれ!」
「チャーハン! 大盛り!」
「ビールありったけ持ってこい!」
毎日、この場所に足を運んでしまう。この場所の、この熱気の中で、彼女は安らぎを感じていた。パトリツィアの姿を見つけた領主、ラルフ・ドーソンが、いつものように満面の笑みで叫んだ。
「パトリツィア! またサラちゃん貸してぇ! ⋯⋯あと、ピザ釜に《火炎球》ぶち込んでぇ!」
その言葉に、パトリツィアは思わず笑みがこぼれた。
この男は昔から、自分のためではなく、他人のために何かを始め、そして自分の首を絞めている⋯⋯。公爵家に生まれたのなら、人を従え、命令し、楽をすればいいものを、彼はそれをしない。⋯⋯いいや、できないのだろう。
それが彼の不幸であり、同時に、彼を愛する者たちにとっての幸せな生き方を無意識に提供してしまう性なのだ⋯⋯。だからこそ、こうして、彼のもとには人が集まる。
今夜も、ほんの少しだけ手伝えば、ラルフは彼女に金貨三枚を渡してくれることを、パトリツィアは知っている。だからこそ、彼に頼らず、この街で自立したいと願う。だが、彼に甘えてしまう自分への罪悪感と、焦燥感を禁じ得なかった。
ずっと、自分自身の心に嘘をついてきた。あるいは、気が付かないふりをしてきた。あまりに身分が違いすぎるから。
パトリツィア・スーノという一人の女は、ラルフ・ドーソンという一人の男を、
⋯⋯きっと、
好き、なのだろう⋯⋯。
しかし、しかしだ! ⋯⋯夜が更け、飲み過ぎてヘベレケになったラルフが、メイドや孤児たちに介抱されている姿を見ると、百年の恋も醒めてしまう気もする⋯⋯。
深夜、パトリツィアは、そんなバカな自分に苦笑しながら、大浴場の窓から見える月を眺める。
浴槽の隣に浸かるエリカは、ひたすらにラルフがいかにバカかということを、話し続けていた。




