196.裏メニュー
静謐な夜の帳が下りたロートシュタイン領の中心。その喧騒は、居酒屋領主館に吸い寄せられるかのように集まり、熱を帯びていた。琥珀色の照明に照らされた店内は、今日もまた、満員御礼。お祭り騒ぎ。宴もたけなわ……。グラスのぶつかる乾杯の音、笑い声、そして、活気に満ちた人々の話し声が、まるで祝祭の音楽のように響き渡る。
厨房の主、ラルフ・ドーソンは、その喧騒の中心で、まるで嵐の海に立つ船長のように保冷庫を覗き込み、「うーん……」と低く唸り声を上げた。視線の先にあるのは、見慣れた食材の数々。だが、彼の思考は、それらを超えた遥か彼方、この店の常連であるデューゼンバーグ伯爵が言い出した、なんとも厄介な注文に囚われていた。
「この店のメニューも一巡してしまった。何か、目新しい料理はないのか?」
その言葉を聞いた瞬間、ラルフの脳裏には(じゃあ別の店に行けよ……)という本音が閃光のように走った。しかし、さすがに口に出すわけにはいかない。また、その無遠慮な物言いは、彼の愛娘であるエリカのそれと、驚くほど酷似している。彼女のわがまま無遠慮さは、もしかしたらこの父親譲りなのかもしれないと、ラルフは苦笑を浮かべた。
だが、伯爵の言葉は、ラルフの心に刺さった。多忙を理由に新メニューの開発や、期間限定メニューの企画をサボっていた自覚がないこともない。言い訳じみているのは、自分自身が一番よくわかっていた。仕方なく、保冷庫の有り合わせで、創作料理を作ってその場を凌ぐことにした。
まず、彼の目に留まったのは、国王が岩島から釣り上げてきたという、見事なブリの刺身。そして、実験的にラルフが自作してみたチャンジャ。この二つの食材が、運命の出会いを果たそうとしていた。
ラルフはブリを一口大のぶつ切りに、そこに赤く光るチャンジャを和える。ごま油をさっと一垂らし、香りが立ち上ったところで、鮮やかな青紫蘇と細かく刻んだ海苔、そして香ばしい炒りごまをパラリと散らす。
「お待たせしました……。"ロートシュタイン風、ブリとチャンジャの和え物"です!」
自信に満ちた声で、ラルフは伯爵の目の前にその皿を差し出した。前世の記憶に裏付けられた彼の料理の勘は、味見などせずともわかる。これは、客の舌を唸らせ、酒を加速させる一品になったはずだ。
伯爵は興奮気味に、声を震わせた。
「うむ! 辛い! しかし、美味い! これは、白ワインがすすむ!」
ラルフがトッピングとして添えた小皿の"わさびマヨソース"を勧めると、伯爵はそれをちょんと付け、一口で頬張った。その瞬間、彼の顔は驚愕に歪み、言葉を失う。
後に伯爵は、「あれは……トラウマになるくらい美味かった」と語り、この料理は伝説となった。
この一件を機に、「メニューにない料理も、頼めば作ってくれるらしい」という噂が、常連たちの間で瞬く間に広まった。そして、その噂が厄介なのは、居酒屋領主館の常連には、この世界の重鎮たちが含まれていることだ。つまり、この噂は、ロートシュタインの街から、まるで狼煙のように世界中に発信されるに等しい……。
翌日、開店を待ちわびる行列の最前列に、例の腹ペコ女騎士、ミラが満面の笑みで立っていた。彼女の瞳は獲物を狙う猛禽のようにギラつき、開店と同時に店内へ飛び込んでくる。
「マスター! 何か、麺料理の裏メニューを!」
その大声に、ラルフは慌てて人差し指を口元に当て、「シー!」と制止のジェスチャーを送る。
だが、もう手遅れだった。その場にいた常連客たちの耳に「裏メニュー」という言葉が響き、空腹中枢に電光石火の如く届く。彼らの視線は、期待と好奇心で熱を帯び、ラルフに突き刺さった。
ミラの前に出されたのは、"シラスと明太子のTKM(卵かけ麺)"。トムの製麺工場の中華麺を茹で、ラルフが魔法で生み出した氷でキンと冷たく締めあげる。そこに、セスの家で飼われている魔獣、コロントロ(アローカナに似た鶏)の生の卵黄を落とし、ラルフと海賊公社が極秘に開発したシラスと明太子を贅沢にトッピングしたものだ。
それを一口啜ったミラ。あまりの美味さに、彼女の意識は一瞬遠のき、床にバタリと倒れ込む。しかし、次の瞬間には、まるで野良犬のようにむくりと起き上がり、残りの麺を猛然とすすり始めた。
ラルフは深いため息をつきながら、次に何が起こるかを悟った。寸胴鍋に、ドボン、ドボンと、次々と中華麺を放り込んでいく。
さらに、休憩中のカレー担当、エリカまでもが、ラルフに裏メニューを要求してきた。
「カレー味の裏メニューもあるんでしょ? どうせあるんでしょ?」
そのドヤ顔に、ラルフは敢えて"カレーコロッケ"を出してみた。すると、エリカは金色のドリルツインテールをぶんぶんと振り回し、激怒した。
「パクリよ! パクリっ! 明らかにあたしのカレーパンのパクリじゃない!」
確かに、エリカが作るカレーパンと、このカレーコロッケには共通点が多い。どちらもパン粉をまぶし、油で揚げるという工程が特にそうだ。しかし、散々文句を言いながらも、彼女の口は休むことなく、サクサクのコロッケを貪り食っていた。
静かに、そして遠慮がちに、聖教国の聖女様がカウンター越しに尋ねる。
「あの……、熱々の、チーズがトロリとした、ピザ以外の、裏メニューはありますか?」
その慎ましやかな要求に、ラルフは"チーズ春巻き"を差し出した。一口かじった聖女様は、恍惚とした表情で、瞳に涙を滲ませた。
さらに、リザードマンたちが遠慮なく注文を放り込む。
「肉! 肉! 生魚、飽きた! 裏メニュー。珍しいの食いたい!」
「肉良いな!」
「獣なら、臓物、美味い」
その言葉を聞いたラルフは、誰も注文しないだろうと秘めていた牛タンを提供することにした。七輪でじっくりと焼かれた牛タンは、獣の舌とは思えないほどの香ばしい匂いを店内に充満させる。その匂いに、初めは気味悪がっていた他の客たちも、ネギ塩ダレで牛タンに舌鼓を打つリザードマンの三人組を、食い入るように見つめていた。
そして、カウンターに座った国王様までもが、顔を上げて尋ねてきた。
「裏メニューとやらが、あるそうだな?」
もう、思いつく料理は残っていない。だが、ラルフは前世の知識を捻り出す。この国王様は魚料理にご執心だ。ならば!と、彼は"なめろう"を提供してみた。国王様はそれをパクパクと食べ進め、皿が空になると、この料理の語源である文字通り、皿にこびりついた最後の欠片を"舐めとろう"か、と逡巡する。しかし、さすがに、このようなお忍びの場であっても、一国の国王が皿を舐めるのは外聞が悪いに決まっている。
そして、裏メニューブームは、もはや止まらなかった。客は誰も彼もが、まるで呪文のように唱え続ける。
「裏メニューを!」
「裏メニューください!」
「裏メニューくれぇ!」
次から次へと、裏メニューのオーダーが、ラルフのいる厨房に舞い込む。ついに、彼の堪忍袋の緒が切れた。
「うるせぇぇぇぇぇえ! 裏メニューってなんだよ?! なんだよ? 裏って?!! メニューあるんだから、そのメニューの表に載ってる料理を注文してよ!!!」
その絶叫に、常連客たちはキョトンと首を傾げる。(何を今さら言ってるんだ?)と。
裏メニューの"明太高菜チャーハン"を炒めている第八王子のフレデリックですら、同じことを思っていた。
(何を今さら?)
と……。
カウンターに座るファウスティン・ド・ノアレイン公爵は、裏メニューの"油揚げの味噌汁"を啜りながら、ラルフを憐れみの目で見上げていた。彼にとって、それはもはや、抗うことのできない運命なのだと、悟ったかのように。




