188.もう一人の公爵
「くっそ、ダリィなぁ……」
豪華な装飾が施された執務室の奥、領主の座る重厚な椅子に身を沈めたファウスティン・ド・ノアレインは、心底うんざりしたようなため息をついた。目の前には、見慣れた書類の山、山、山。クルクルと手にしたペンをもてあそぶが、それで仕事が進むはずもない。
メイド長のローラは、呆れたように進言した。
「旦那様、とにかく手を動かしてくださいませ……。そうして、ため息ばかりついても、仕事は捗りませんよ?」
そんなことはわかっている。反論したところで仕方がないのは理解していた。ファウスティンはポケットから煙草を取り出すと、マッチを擦り、火を点ける。今度はメイド長がため息をつく番だった。
ここはノアルディア領のルインフォード地区。城郭都市の一角にある、ノアレイン公爵家の領主館だ。
どうにか夕方までに書類仕事を終えた。
メイドたちの助けを借り、急ぎの書類だけは片付けた。メイドに領主の署名を偽造させるなど、とんでもない話ではあるが、そうでもしなければ埒が明かないのは明白だった。その仕事を終えるまでに浪費した紅茶は四杯、煙草は七本にも及んだ。
ファウスティンは領主館を出ると、門番の男に片手を挙げて挨拶を交わす。
門の前では、いつもの少女が屋台でホットドッグを売っていた。ファウスティンは、いつものようにプレーンと、牛肉とチーズがたっぷりかかったものを二本購入する。
通りに面した向かいの建物の戸を開け放つ。薄暗い店内に日の光が差し込み、舞い上がった埃がキラキラと空中で揺蕩う。ファウスティンは、ドアプレートを「OPEN」にひっくり返し、カウンターにドカリと腰掛けた。そして、王国の貴族の動向を記した手紙を広げる。それは、今朝、魔導二輪車に乗った女の運び屋が届けに来たものだった。お隣のロートシュタイン領で、大きな祭りが開催されたとか、未知のダンジョンが発見されたとか、随分と景気の良い話ばかりが綴られている。
ファウスティンは、その手紙をカウンターに投げ捨て、再び煙草を一本吸い始めた。
ここは、ファウスティンが営む雑貨屋だ。しかし、普通の店とは少し違う。確かに装飾品や剣も陳列されているが、それらに交じって、かなり怪しい物品も取り扱っている。呪いの小箱、呪いの仮面、呪われた人形、呪われた魔剣、呪われた指輪……。
彼は、いわゆる呪物コレクターだった。
こんな怪しい店に客が来るかといえば、実は割と来る。
誰かを呪いたいという欲求を隠し持っている人間は、世の中にいくらでもいるものだ。ファウスティンとしては、これらの呪物の購入をあまり勧めてはいない。「人を呪わば穴二つ」……その意味をよく説くようにしているが、それでも大金を叩いて買っていく客がいる度に、虚しいため息が出てしまう。
ファウスティンがモグモグとホットドッグを食べている時だった。チリンチリン!とドアベルが鳴る。
見れば、教会の神官、メイベルだった。彼女は、無表情のままこちらへ歩いてくる。手には、黒い封筒……。つまり、厄介事の知らせだ。
ファウスティンの、もう一つの副業が、今、幕を開けようとしていた。
夜。ある貴族の家。この家の名誉のため、家名は伏せなければならない。
ベッドの上には、手足を縛り付けられたこの家の娘が、のたうち回っている。
「ゲッハッハッハッハ! どんな神官を連れて来たって無駄無駄ぁ! おい女ァ、早くこの拘束を解けよ。でないとテメェの腹を引き裂いて、仔袋を食ってやるぞぉ?! へっへっへっ! 自分の娘に食われるのは、どんな気分かなぁ?! ゲェへっへっへっへ!」
かつては可憐であったはずの少女は、まるでバケモノのように顔を醜く歪ませ、信じられないような罵声を浴びせ続けていた。
悪魔憑き。それはまさに、その言葉通りの光景だった。
ファウスティンは、懐から聖水の小瓶を取り出し、少女に振りかける。
「ギャァァァぁぁ!!! 痛い、何すんだこの、クソ野郎がぁ!」
聖水を浴びた顔から、白い煙が立ち上る。
「あ、あの! 領主様! イザベラは、本当にこの子は大丈夫なんですか?!」
半狂乱になった母親が、ファウスティンに縋りつく。
「奥さん、ちょっと離れていて。大丈夫ですから……」
ファウスティンがなだめると、少女は突然、悲痛な声をあげた。
「痛いよぅ、痛い……怖いよぉ、ママ、助けて……」
そして、大粒の涙を流し始めた。
「イザベラ! イザベラ! あなた……」
母親は不意に、ベッドの上の娘に近づいてしまった。その時だった。
「ぐぁぁぁ!」
「キャアアアアア!」
少女は母親の右腕に噛みついた。
「おい! お前らも押さえつけろ! 母親を連れ出して、手当てしてやれ!」
ファウスティンの命令で、使用人たちが母親を引き離し、少女を押さえ込む。母親は失神してしまったが、ある意味好都合かもしれない。静かにご退室願うことができるからだ。
ファウスティンは、もう一度聖水を振りかける。
「ギャァァァ!!! クソっ、クソ野郎がぁ! 俺様を誰だと心得てやがる……」
「名もなき下級悪魔だろぅ? じゃなきゃ、こんなセコい騒動は起こさないさ。俺はテメェみたいなクソ雑魚悪魔を何匹も捕らえてきた、プロなんだよ! 貴様こそ舐めてんじゃねぇ。雑魚が」
ファウスティンの言葉に、少女の顔が悔しさで歪む。
「どうせ地獄の一丁目でくすぶってたガキが、名を上げようとノコノコと現世にやってきたんだろ?」
そう言いながら、ファウスティンはポケットから四つの指輪を取り出し、神経質そうに、人差し指から小指まで順に嵌めていく。
「テメェ、この娘がどうなってもいいのか?! 今すぐ娘の魂まで喰らってやってもいいんだぜ?! そうしたらどうなるか……」
「やってみろよ……。お前、まだその子の魂まで、辿り着けてねーんだろ? そんなハッタリが効くかよ。……その子だって、まだ子供ながら、深層心理では必死で戦ってんだろ? お前に乗っ取られまいと……。人間舐めんな」
ファウスティンは、指輪を嵌めた右手で、少女の頭をガシッと掴んだ。
「ギャァァァああああ! や、ヤメロー! ヤメ、や、や、ぐぅあああああ!」
壮絶な悲鳴を上げる少女。ファウスティンは、少女の中の悪魔を無理やり剥離させるため、力任せに引き上げる。
「お前ら、この子の身体を押さえつけろ!」
ファウスティンの命令で、使用人たちが少女に取り付く。
そして、スポンッ! と、それは唐突に引っ張り出された。
部屋の床に転がる、黒い身体。ゴブリンやオークとも違う、異形の人型のバケモノ。
「ふんっ! やっと実体化したか……。やっぱり、小童悪魔じゃねーか。あんまり手間かけさすな」
ファウスティンはその小悪魔を見下す。
「領主様! イザベラお嬢様は息があります! 無事です!」
使用人の一人が少女の容体を確認した。その顔は、先ほどのように醜く歪んでおらず、綺麗なお人形のような顔立ちに戻っていた。
ファウスティンが悪魔から一瞬目を離した時だった。
「チッ!」
ガシャン! と窓を突き破り、悪魔は逃亡を選んだ。
「あーあー。めんどくせーなぁ」
ファウスティンは頭をかいた。
悪魔は走っていた。二つの月が、崩れた城郭や教会の三角屋根の隙間にチラチラと流れていく。宛もなく、クネクネとした小路を駆けていく。新たな獲物を探し出さなければ。
しかし、アイツがいるこの街はもう危険だろう。まさか、現世にもあのよう退魔師がまだ残っているとは思わなかった。魔導文明が発達し、悪魔祓いは廃れていると聞き及んでいたのに。
再起への道を模索していた、その時だった。
「《呪鎖念縛》」
人間の声が聞こえた。しかし、先ほどの男とは違う声に聞こえた。だが、とにかく早くこの場から立ち去ろうとした。しかし、妙なことに気がついた。身体が、動かないのだ……。おそらく、魔法。しかし、こんな強力な魔法を? あの男か? いや、先ほどの声の主は、いったい誰なのだ?
すると、先ほどの男が追いかけてきた。悪魔が、まるで彫像のように動かなくなっている滑稽な姿を見つけると、面白そうに見下ろす。
「なんだ? お前、魔法で止められたのか? ほう、なかなかに強力な、魔法だな。いったい、誰が?」
興味深そうに、悪魔をジロジロと観察し始める。悪魔は、絶望に叩き落とされていた。
すると、教会の三角屋根が作り出す影の中から、一人の男がコツコツと歩み出てきた。ゆったりとしたローブを纏い、皮肉っぽい薄い笑みを浮かべた若者……。それは、
「ファウスティン・ド・ノアレイン公。ご無沙汰しております」
「……ラルフ・ドーソン。……か? どうして、こんな所に?」
「まあ、ちょっと。色々ありましてね……。それより、なんだか、面白そうな事をしてるみたいですねぇ?」
「面白そうなどと……。むしろ、厄介事ですよ。小遣い稼ぎの、副業の最中ですよ」
「そうでしたか。では、お邪魔してしまったみたいですねぇ」
「とんでもない。むしろ、助けられましたよ」
「では、副業のお邪魔しないように、僕は見物に徹しますね!」
そう言って、ラルフは壁に背を預け、腕を組んで面白げに事の成り行きを見守ることにした。
ファウスティン・ド・ノアレインは、身動きが取れない悪魔に、ツカツカと歩み寄る。
「く、来るなぁ、お願いします。あ……、あ、お願い、来ないでぇ!!」
悪魔は体面をかなぐり捨てて懇願する。しかし、ファウスティンの冷たい目は、それを見下ろす。
「かわいそうに……。本当にかわいそうだ。心の底からそう思うよ。誰からも忌避され嫌われるような存在に生まれてしまった、テメェら悪魔が。だから……」
ファウスティンは、指輪が嵌められた右手に拳を作る。四つの指輪に魔力が込められ、それぞれ一文字ずつ刻まれた文字が輝き出す。
その文字とは、悪・霊・退・散――。
その無骨で太い指輪は、聖教国のセラフィム大聖堂の純銀の大十字と、かつて邪竜を討伐した勇者が持っていた聖剣が粉々に砕けた際の、その一欠片を鋳溶かして作られた、特殊な合金で作られていた。
そして、それを装着し拳を握れば、まるでそれは打撃力を強化する為の武器、メリケンサックだ。
「――俺は、憐れんでやろう」
そう言って、腰溜めに右拳を振り抜く。
「へぶっ!」
強烈な右フックを顔面に食らった悪魔は、間抜けな声を上げた。そして、バタリと倒れる。完全ノックアウト。
ファウスティンは、ふぅと息を吐き、残心を解いた。
壁際に立っていたラルフ・ドーソンは、パチパチパチパチと、拍手をしていた。




