183.社会と経済と難問
女騎士、ミラは目の前に置かれたダンジョン・マスの押し寿司を、食欲を溢れさせた視線でじっと見つめていた。
淡い紅桃色の切り身は、精巧に積み重ねられた寿司飯の上に整然と並び、その身には繊細な霜降りが走っている。
と、その時、チョロチョロと小さな影が現れた。それは、かの岩島ダンジョンで出会った、パトリツィア・スーノが使役した火の精霊、サラマンダーのサラちゃんだ。
人の腕に乗るほどの小さな体に、燃えるような緋色の鱗をまとった愛らしい精霊は、パカッと小さな口を開けると、人間の指先ほどの青白い火炎をチョロリと吐き出し、押し寿司の表面を優しく炙ってくれる。
ジュウ、という微かな音とともに、マスの脂がチリチリと融け出し、芳ばしい香りが立ち上る。食欲を刺激するその匂いに、思わずミラは喉を鳴らし、涎が垂れそうになるのを必死に堪えた。
「ありがとう、サラちゃん」
ミラがそっと声をかけると、彼女は小皿から一粒のナッツを取り出し、可愛らしい精霊の鼻先に差し出した。サラちゃんはそれをパクリと口に入れると、満足そうにヒョコヒョコと跳ねながら、隣のカウンター席に座るヴラドおじさんのシメサバを炙るために移動していった。
さあ、とミラは箸を取り、炙られたばかりのマスの押し寿司にかぶりつく。舌の上に広がるのは、とろけるような脂の甘みと、炙られたことによって凝縮されたマスの濃厚な旨味。そして、シャリのほんのりとした酸味が見事に調和し、口の中で至福の旋律を奏でる。
(間違いない……!)
その確信に、ミラは誰にも見られないことをいいことに、思わずカウンターの下で小さなガッツポーズをした。
「よう、ミラ。最近どうよ?」
声の主は、カウンター越しに包丁を握る、ラルフ・ドーソンだった。
彼はいつものように、気だるげな視線をミラへと向けながら尋ねる。
「どう、と言われましても……」
口いっぱいに押し寿司を頬張ったミラは、モグモグと咀嚼しながら答える。
「ダンジョン・スタンピードでも起これば、我々騎士団の出番ですが……モグモグ……。まあ、仮に起ひたとひても、マスターが何とかひてくれほうでふひ……モグモグ……。……ただ……、ひほがほおくなっへひへ、ひょっとひはほらふるはほおくはっへひはしはへぇ……」
ラルフは眉間に深い皺を刻んだ。
「えええ?! なんだってぇ?!『ただ、人が多くなってきて、ちょっとしたトラブルは多くなってきましたねぇ』で合ってるか?……いいか、食うか喋るか、どっちかにしとけって!」
ラルフは恐るべき推理力でその奇妙な言語を翻訳し、腹ペコの女騎士に最低限のマナーを諭した。
「モグモグ……ゴクン! ふぅ……失礼しました」
ようやっと寿司を飲み込んだミラは、深く息を吐き、改めて口を開く。
「はい。その通りです。特に、屋台街と水上都市のマーケットは、日によっては通行人がぎゅうぎゅうで、交通整理もままならないほどでして……」
「そうかぁ……」
ラルフは片手で顎を撫でながら考え込む。
オーバーツーリズム。
その言葉が、まるで呪文のように脳裏を駆け巡る。あの歴史的な大規模祭りをきっかけに、ロートシュタインは今、まさにその状況に直面していた。外国からの観光客は増え続け、さらには移住希望者まで殺到している。
ここは、冒険者にとっても、屋台の店主にとっても、あまりに理想的な場所だった。四つのダンジョンを抱え、商業ギルドが開店資金を融資してくれる。そして、ラルフがもたらした「美味しい革命」から生まれた「グルメ・ルネッサンス」は、階級や人種、種族の壁を越えた一大カルチャーへと成長した。
当のラルフは、どこか他人事のように「めんどくせーなー」と思うだけだが、領主として解決すべき問題には、真剣に向き合うべきだと知っていた。それは彼の生来の真面目さからくる美徳であり、あまり評価されないとしても、彼自身が譲れない矜持だった。
いっそ、爆裂魔法で森林を吹っ飛ばして街を広げるか?
そんな突飛な思考が脳裏をよぎるが、すぐにその考えを打ち消す。森の恵み、魔獣、野草、そして生態系の維持。それらを破壊することは、転生者であるラルフにとって強い忌避感があった。豊かで実りある森を伐採するなんて、心が痛む。
ならば、と次に思いつくのは高層ビルの建設だった。
「……高層ビル、か。いや、しかし……」
前世で見た日本の都心の光景が、まざまざと脳裏に蘇る。限られた土地を最大限に活用し、空へと伸びる鉄とガラスの塔。観光客で溢れる旧市街を保全し、別の区画に“垂直都市”を建てる。理屈の上では美しい解決策だ。しかし、ラルフの胸には拭いきれないわだかまりがあった。
彼は知っていた。高層建築による床面積の確保が、しばしば社会問題を孕むことを。前世の経済学者たちはそれを「ジェントリフィケーション」と呼んでいた。高級住宅や大企業オフィスが集まることで地価が高騰し、もともとその土地で暮らしていた人々が追い出されてしまう現象。それは、"街の住人が、街の主人公でなくなる悲劇"、だった。
「確かに……観光客の宿泊需要を、高層建築で吸収できれば、一時的には市街の混雑を緩和できるだろう。だが、その結果、入居できるのは資金力のある富裕層か、大商会ばかりになる」
庶民のための小さな宿は姿を消し、街は大企業チェーンと、金に糸目をつけない富裕な旅人の遊び場に変わってしまう。これは経済学の用語でいう"外部不経済"だ。当事者にとっては合理的でも、社会全体にとっては不利益をもたらす副作用。
ラルフは、前世の記憶に散らばったいくつかの単語を思い浮かべた。「資産バブル」「投機需要」……。本来、人が使ってこそ意味を持つはずの宿屋や住居が、投資対象として買い占められ、空き部屋だらけの“幽霊高層塔”が生まれる危険性さえある。
この街にせっかく根付いた酒場、冒険者が営む個性的な屋台、楽師の小屋、ドワーフの醸造所、エルフの発酵蔵。それらが消えてしまえば、観光客がわざわざ訪れる理由そのものが失われるだろう。文化の多様性は、経済効率とは別の、かけがえのない価値なのだ。
だが、領主としては選択を迫られている。
オーバーツーリズムによる渋滞、住民の不満、環境負荷。
これらを放置することはできない。前世の都市経済学者たちでさえ答えを見つけられなかった難問を、異世界の小領主である自分に解けるはずもない。ラルフは額に手を当て、深く、重い息を吐いた。
「効率か、文化か。短期的な経済合理性か、長期的な社会的持続可能性か……。領主とは、常にトレードオフの中で揺れ動く存在だな」
ラルフはそう呟いた。
カウンター席に座るエリカは金髪のドリルツインテールを揺らしながら、デミタマハンバーグをトッピングしたオムライスを無心で頬張っていた。
「まーた。モグモグ、わけのわからない、モグモグ……、小難しいこと考えてるわよ」
エリカは口をモグモグさせながら言った。
「モグモグ……思いついたなら、試しにやってみたらいいのに? モグモグ……」
その隣で、ダンジョン・マスターのスズも、エリカと同じように赤髪のドリルツインテールを揺らしながら、デミタマハンバーグオムライスをハムハムと貪っていた。ラルフの悪戯でこの髪型に変更させられたのだが、ここで過剰に反応すれば、この悪辣な性格の領主が喜ぶのは目に見えている。だからスズは、一切気にしないことにしたのだった。




