181.バルドルの休暇
王都の会員制の高級酒場。その店の奥、薄暗い個室の中で、二人の男が向き合い、何やらきな臭い会談を行なっていた。揺らめく蝋燭の灯りが、テーブルに置かれたグラスと、男たちの顔を不規則に照らし出す。それは、疲れ切った顔をした、商業ギルドロートシュタイン支部長の、バルドルだった。
向かい合う男は、優雅にワイングラスを揺らしている。共和国の通商会議にも名を連ねる、ワン・ハンセン。彼はまだ二十代と若いが、香辛料の取引でたった数年で莫大な富を築いた大店の商会長だ。
「バルドルさん。貴方のお話しはよくわかった。貴方のご苦労と心労を思うと……、私も涙がちょちょ切れそうになったよ」
ワンは、薄い笑みを浮かべて言った。
「ちょ……ちょちょ? あ、いや。その、ありがとうございます……」
何かワン・ハンセンの言葉に違和感を感じたが、とりあえず礼を述べた。なんだか、ラルフ・ドーソンっぽくなかったか? と思ったが、今はそんな場合ではない。
「しかし。しかしだね。いくら仕事が忙しいからって……。逃亡の為に共和国へ亡命したいとか、いくらなんでも大袈裟すぎではないか?」
ワンは、盛大に呆れた顔で問いかける。すると、バルドルは暗い顔にさらに深く影を落とした。
「あれは……、忙しいとか、そういう領域を超えています……。人間がやっていい仕事ではない……」
「そ、それほどなのか?」
ワンの笑顔が、思わず引きつる。その言葉の重みが、彼にまで伝わってきた。
「夢は……見られますか?」
バルドルは唐突に、不思議な質問を投げかけた。その問いは、まるで彼の魂の奥底から絞り出されたかのようだった。
「ゆ、夢? ……あ、ああ。たまに、見るな……。それがどうした?」
戸惑いながらも続きを促す。
「私はねぇ。毎日見るのですよ。……明け方近く、書類仕事をしている夢を……」
「は? あ、ああ……それで?」
「屋台開店の申請書類。融資先の返済状況。各国の卸売り業者からの問い合わせ。貴族からの、いったい何が言いたいのかさっぱりわからないご挨拶の手紙……。そして、目が覚めると、また絶望してしまいます……。ああ、これから、仕事に行かなきゃならないのか、と」
それを聞いたワンは、とりあえずワインを一口飲んだ。そして、医者でもないのに、「相当に重症だ」と分析できた。
「ま、まあ。わかった。わかった。わかりたくもないが、わかった。……夢の中でも仕事してるのは辛いな……。しかし、それでもだ……。そのような話を私に持ってこられても。失礼だが、お門違いというものではないか?」
「共和国には、私の兄がいるのです。なんでも、時計の修理屋を営んでいるらしいのですが……、そこに弟子入りしようかと……。楽しそうじゃないですか? 時計の修理なんて?」
バルドルは俯いて、初めてヘラリと笑った。その笑みには、絶望の淵に見た一筋の希望が浮かんでいた。
「た、楽しそう、か?」
ワンは首をかしげるしかなかった。
「もうね。私は、書類仕事なんてうんざりなのですよ……。毎日毎日、数字数字数字数字数字……。すべて数字。人も物も金も、すべて数字。すべて数字に見えてきてしまうのです……私はねぇ。これ以上、人間を辞めたくはないのですよ。数字なんて、もう見たくもないんですよ!」
その痛切な叫びに、
ワンは(時計の文字盤にも数字はあるのでは?)と思ったが、口には出さなかった。
その時だった。
突然にして、ドアが蹴破られ、何人かの男たちがなだれ込んできた。
「だ、誰だ?! 貴様らは……。くっ、うぐっ!」
弾かれるように立ち上がったバルドルだが、その不届き者たちはかなりの手練れだったようで、あっという間に取り押さえられてしまう。後ろ手に掴まれ、テーブルに腹ばいにさせられた。
「ギルマス、バルドル。やっと見つけたぞ。手間かけさせやがって」
男の一人が、冷たい声で呟いた。バルドルはその男の顔に見覚えがあった。間違いない、ロートシュタインの領兵だ。
「貴様らぁー! こんなことをして、タダですむと……」
「タダですまないのは、貴方の方じゃないんですかい? ギルマスさんよぉ。こんな大事な時期に職務放棄なんて……。あげくの果てに、亡命だぁ? 大丈夫か? あんた?」
「大丈夫ではないから、こうして逃亡したんだろうがぁぁぁ!!」
バルドルは激怒した。その声は、悲痛な叫びのようだ。
すると、入口の方から、コツコツと規則正しい足音が聞こえてきた。全員がそちらを向く。
黒い影が、部屋の中の蝋燭の灯りに照らされ、その顔が浮かび上がる。それは、魔導士のローブを纏い、不敵で、他者を嘲笑うかのような、軽薄な笑みを浮かべる男。
「ラ、ラルフ・ドーソン……」
バルドルは、絶望した。彼の顔から、血の気が引いていく。
「おやおやおやおやぁ? バルドルさん。こんな所でどうしたんですかぁ? 海外旅行の計画ですかぁ? いいですねぇ」
その顔に浮かぶのは、ある種の狂気を宿した歪んだ笑顔。まるで獲物を追い詰めた獣のようだ。
すると、その時、驚くべき人物が口を開いた。
「やあ、ラルフ君。遅かったじゃないか」
ワン・ハンセンが、片手を上げ、軽い口調でラルフに挨拶をした。その瞬間、バルドルはすべてを悟った。なぜ、このような事態の中、ワン・ハンセンはソファで寛ぎ、ワインを片手に優雅な姿勢を崩していないのか。それは……。
「ワン・ハンセン! 裏切ったなぁ?!!」
バルドルは、絞り出すような声で叫んだ。
「裏切るも何も、そんな大袈裟な話だったか? ……ただ、ラルフ君とはお友達だし……。かくいう、私もジロリアンでね」
ワンは、こともなげに言い放った。
(まさか、まさかそこまでラルフ・ドーソン公爵の持つ人脈が膨大だとは思わなかった……!)
バルドルは、戦慄した。共和国の通商会議のメンバーまで取り込み、さらには胃袋まで掴んで離さない。何か起きたとして、政局においても、軍事力においても、ロートシュタイン領に勝てる者がいるのだろうか?
しかし、諦めるわけにはいかない。ここで諦めてしまえば、一生奴隷のような、否、奴隷より酷い労働に勤しみ、使い殺されるだけだ。ロートシュタインの美食と、大魔導士ラルフ・ドーソンという、二つの怪物によって……。
「クソッ! クソがぁ!!」
バルドルは、唾を飛ばし、涎を垂らしながら、醜く悶える。すると、ラルフ・ドーソンは、まるで慈愛に満ちた聖人のように、優しく語りかけた。
「バルドルさん。みんな心配してますよぉ。さあ、ロートシュタインに帰りましょうよ」
「私は戻らん! またあの地獄のような職場に戻るくらいなら、鉱山奴隷にでもなった方がマシだ!」
その悲痛な叫びに、ラルフは困ったように眉を下げた。
「……うーん。まあ、過重労働なのは僕の責任だから、そろそろ何とかしようとは思ってたんだよねぇ……。なので、そのへんは僕に任せてよ! 絶対になんとかするからさ!」
「お前が何か動く度に仕事が増えるんだよ! 信用できるかっ?!」
バルドルの怒りの言葉に、ラルフは観念したように肩をすくめる。
「いやぁ。それを言われるとちょっと辛いねぇ……。まあ、でもバルドルさんが戻らないことには進まないし。……あんまり使いたくなかったけど、《記憶消去》」
ラルフ・ドーソンは、人差し指に魔力を集中させ、そう唱えた。バルドルは、眩い光を見た。気がした……。
バルドルは、ハッ! と目を覚ました。そこは、ロートシュタインの高級宿、マリアンヌ・ホテルのテラス席だった。
青い空、白い雲。高く威勢の良い太陽が燦々と降り注ぐ。パラソルの日陰には、巨大なヤマネコが丸くなって眠っている。
バルドルは目を擦った。いったい、自分が、なぜここにいるのか、まったく記憶がない。ふと、自分が着ている服を見ると、ゆったりとしたシャツにハーフパンツ。まるで、休暇を満喫している貴族のようだ。
すると、太った御婦人がバルドルのもとへやって来た。
「お待たせぇ! バルドルさん。ご注文の、ピザトーストとクラフトビール飲み比べセットね!」
それは、このホテルのオーナー、マリアンヌさんだった。
「あ、ああ……」
バルドルは、戸惑う。
「お疲れみたいねぇ。まあ、休暇はまだあと三日あるんでしょ? 精いっぱい、ゆっくりしていきなさいな!」
マリアンヌは、そう言って去っていった。
わけがわからない。とバルドルはぼんやりする。
休暇? あと三日と言ったか? そうだったか? そうだった気もする……。
目の前には、熱々そうなピザトーストが二枚と、クラフトビールの可愛らしいサイズの小瓶が三本。
バルドルは、とりあえずそのうちの一本に手を伸ばし、小麦色の液体を喉に流し込んだ。その瞬間、喉から血管を通じて全身に電撃が走ったかのような爽快感が弾ける。そして、瞬時に仄かな酔いが脳に到達した。
日も高いうちから、こうして酒を嗜むなど、いつぶりだろうか? なんとなく気分が良くなってきた。誰とも会わず、何をするでもなく。こうして何もしない、というのも、最高の贅沢かもしれないなぁ。そう思いながら、熱々のチーズがたっぷりと溶けたピザトーストに手を伸ばした。
ヤマネコは、大きな欠伸を一つ。
ホテルのカウンターでは、ラルフ・ドーソンが、マリアンヌさんの手に金貨を三枚握らせた。




