176.予兆
ダンジョン・マスターである大森 鈴は、薄暗い体育倉庫のマットに、ただ寝転び天井を眺めていた。
その表情には、ほんのわずかな倦怠感が漂っている。何故、ダンジョンの最深部をこのような場所として設計したのか。それは、単に落ち着くから、という以外に理由が見当たらなかった。
鈴の前世は、もうあまり思い出したくもない。それは、あまりにも最悪なものだった。家庭にも、学校にも居場所はなく、よくこうして、誰も来ない体育倉庫に忍び込み、一人で孤独な時間を過ごしていたのだ。
ふと見上げると、このダンジョンの心臓とも、あるいは頭脳とも呼べる、輝く球体――ダンジョン・コアが、跳び箱の上に鎮座しているのが見えた。その光は、まるで彼女の魂そのもののようだ。
さて、今日はどんなロボットを作ろうか? 三つ首竜型は最高傑作だったが、ラルフ達によって無残にも破壊されてしまった。最初は憤慨したが、残骸を回収し、修理だけではなく、さらなるバージョンアップのための試行錯誤も、どうしようもなく楽しい。そうだ。蜘蛛型もいつか作りたいと思っていた。創作意欲は尽きることはない。
しかし、はぁ……。と、微かな溜息が漏れる。最近、なんだか自分が、おかしい。薄々はその変化に気付いている。正確には、あの日以来だ……。そう、ラルフ達と会ってから……。
別に、寂しくなんてない……。一人には慣れている。いや、むしろ一人がいい。他人に気を使うことも、心の裏側に隠された他意に怯えることもない。一人は良い。一人は自由……。
なのに、なのに……。心の奥底で疼く、名状しがたい感情の正体を探るように、彼女はただ天井を見つめ続けた。
その頃、ラルフ・ドーソン公爵は、午前中にさっさと書類仕事を片付け終え、執務室のソファーに寝転んでいた。
何故か、ラルフの太ももを枕にして、エリカも寝そべりながら本を読んでいる。最近、彼女のお気に入りは、東大陸で流行しているという宮廷内の愛憎劇を描いた物語だ。ラルフは前世の記憶から、
(なんか、似たようなの、ちょっと流行ったことあったなぁ……)
と、懐かしさに浸っていた。
ただ。ラルフの膝を肘掛け代わりに、煎餅をボリボリと咀嚼し、時折、しれっとラルフのズボンで指先を拭うのは、ちょっと勘弁願いたかった。とてもではないが、ご令嬢のやることではない。
「……もう。しばらく、なんも起きないよなぁ」
ラルフは、魂が抜けたかのような声で呟いた。
「……パリっ、ポリッ、モサモサモサモサ……そうねぇ」
エリカは、煎餅を咀嚼しながら、気のない返事を返した。
「さすがに、忙しすぎたからなぁ……。しばらくは、平和に過ごしたい」
「バリッ、バリッ、ボリボリ……。そうねぇ……」
「……お前、全然聞いてないよな?」
「バリッ……! モサモサ。そうねぇ」
「おいっ! 人のズボンで指を拭くな! てぇい!!」
ラルフは、容赦なくエリカの頭を跳ね上げた。
「うわっ?! 何すんのよ?!!」
エリカは、不満げに飛び起きる。
「こっちの台詞だ! それがレディーのすることか? わきまえろよ!」
「何よ! 人のこと言えるの?!」
言い返されて、ラルフは「ぐぅぅぅぅぅ……」と、ぐうの音も出ない筈なのに、ぐぅぅぅぅぅの音を吐いた。
そんな他愛のない、いつもの光景。祭りも終わり、新ダンジョン発見に沸き立つ者たちはまだ多いけれど、のんびりと平和な、というかほどほどに騒がしい、そんな日だった。
突然にして、ゴゴゴゴゴゴッ、と領主館全体が揺れた。ガラスの共鳴音のような不快な振動が、床を伝い、壁を震わせる。
「ん? なんだ? レッドフォードか?」
ラルフは、ペットであるワイバーンが日課の散歩から帰還したのかと思ったが、なんだか様子が違う。ガタガタっ! と窓ガラスが軋む音は、ただの帰還の音ではないことを告げていた。
「えっ?! はっ?! ちょっと、何よこれ?!」
エリカは、慌てて飛び起きる。その顔には、困惑と焦りが混じっていた。
「いや! これ、地震だ!」
前世が日本人だったラルフは、経験から冷静に分析できた。しかし、ここロートシュタインでは、地震は非常に珍しい現象だ。エリカは、いつの間にかグラグラと揺れる本棚を押さえていた。人間とは咄嗟に、本人でも思いもよらぬ行動をとってしまうものだ。
やがて、揺れは治まる。静寂が戻った空間で、エリカは金髪のドリルツインテールを振り回し、キョロキョロと周りを見た。
「何よ? ……なんだったのよ? また、何かとんでもないことが起こる予兆じゃないでしょうね?」
彼女の言葉には、不安が色濃く滲んでいた。
「不吉なこと言うなよ。ただの地震だ……震度四くらいだったか?」
ラルフは、冷静に分析を告げた。そして、ノックの音が聞こえると、すぐにメイドのアンナが執務室に入ってきた。
「失礼します。旦那様、大丈夫でしたか?」
彼女は慌てる様子もなく、いつもの冷静沈着な表情だった。
その目は、本棚にしがみつくエリカと、窓際に飾られている大きな花瓶にいつの間にか取り付いているラルフという、二人の間抜けな姿を捉えていた。人間の咄嗟の行動は、本当に奇妙なことがしばしばある。
「うん……。まあ、大丈夫。一応、領内に被害がないかの確認はしておこうか……」
ラルフは、領主として危機管理に基づいた命令を発した。領兵たちに見回りをしてもらったが、幸い、特に領内に大きな被害はないようだった。
屋台でラーメンを食べようとしていた女騎士が丼をひっくり返し、号泣していたことや、愛玩用に飼育されているラヌートという魔獣が驚いて逃げ出したこと、エルフのミュリエルが醤油の入った巨大な瓶の中に落下したことなど、些細な被害は確認されたが、特に人命に関わるようなものではなかった。
エリカの言っていた、「予兆」……。ラルフも、なんだか胸の奥がざわざわしたというか、小さな引っ掛かりを感じないわけではない。だが、気にしても仕方がない、と彼は己に言い聞かせた。
いつも通り、居酒屋領主館の開店準備を始める。夕暮れ時になると、店の前にはすでに長蛇の列ができていた。ラルフが暖簾を掲げると、「待ってました!」とばかりに、客達が一斉に店内になだれ込んでくる。
「いらっしゃ~い! いらっしゃ~い。ようこそ、居酒屋領主館へぇ」
いつものように、やる気があるんだかないんだか分からない、ラルフの間延びした声が客を出迎える。
「いらっしゃいませ! ようこそ! 居酒屋領主館へ!」
「いらっしゃいませ! 何名様ですか? では、そちらのテーブルへ……。ああ、中庭での立ち呑みですね? どうぞどうぞ!」
ミンネとハルをはじめとした孤児の従業員たちは、元気いっぱいに挨拶し、来店客を次々と案内する。瞬く間に、店内には嵐のようなオーダーが飛び交った。
「シトラスビール人数分と、天ぷら盛り! あと、……唐揚げにするか、フライドチキンにするか……。いや、両方ちょうだい!」
「キンキンに冷えた米酒! あと、なんか魚焼いてくれ!」
「ねぇ? この、キムチって何かしら? 葉野菜を辛い香辛料で漬けたもの? ちょっと食べてみようかしら?」
貴族、商人、冒険者。さらには、王族。様々な身分の人々が、思い思いに注文を飛ばす。
「おい! 生魚、あるぞ!」
「えっ? ホントに?」
「ホントだ、ホント。ここにそう書いてある。サシミ? フナモリ?」
見慣れないリザードマンの戦士達が、メニューを見て盛り上がっていた。彼らの好奇心旺盛な声が、店内に響く。
「はいよー。……フレデリックぅー。全自動タマゴ割機をもう稼働させとけ。どうせすぐに戦場になるぞぉ」
「はい!」
いつもの喧騒、いつもの祭り騒ぎ。
だが、その中に、いつの間にか見慣れない少女が現れ、カウンターに向かって歩いてゆく。
「ん? なんだ? あの子、喪服?」
一人の冒険者が、訝しげに呟いた。その少女の姿を見た、一部の人間は、驚きに目を見開いた。
それは、ダンジョンの先遣調査隊だった面々だ。
フィセとミラは、驚愕に開いた口からダラダラと酒を零している始末。ギルドマスターのヒューズは、なんだか諦めたように細い目で成り行きを見守ることにした。
そして、少女は、カウンターに座る。ラルフは、その顔を見て、絶句した。
「いや……。なんで、ここにいるんだよ?」
ラルフは、ダンジョン・マスターの少女にそう問いかけた。
「なんか、……食べたくなった」
大森 鈴は、簡潔にそう答えた。その言葉は、まるで当然のことのように響く。
ラルフはカウンターから身を乗り出し、ひそひそと少女に質問をした。
「っていうか。ダンジョン・マスターがダンジョンから出て大丈夫なのかよ? というか、ここまでどうやって来たんだ?」
すると鈴は、涼しい顔で答えた。
「ダンジョン・コアが自立式で管理できる……。ここへは、反対側にダンジョンの通路を掘って、ここの地下に繋げた……」
「はぁぁぁぁぁ?!」
驚愕の事実を伝えられたラルフは、弾かれたように走り出した。廊下を走り、階段を降り、地下室へと踏み入れた。すると、そこに広がっていた光景に、彼は思わず叫んだ。
「なんじゃこりゃぁぁぁ!」
壁には、見知らぬ大穴が空き、階段が地下深くに向かって、まるで無限に続くかのように伸びていたのだ。再び一階に取って返し、ダンジョン・マスターの少女の頭をガシッ、と掴んだ。
「人ん家に、何してくれとんのじゃぁぁあ!」
「痛い! 痛い!! 暴力反対!!! だいたい、先に住居侵入したのはそっち!」
正論と言えば正論を言われてしまい、ラルフはぐうの音も出なかった。そして、彼は気付いた。昼間の地震。あれは恐らく、ダンジョン生成時に、トンネルのボーリング工事をする際に発生する振動だったのだ。そして、もう一つの疑問が、彼の脳裏に浮かぶ。
「ん? というか、どうしてこの場所が分かったんだ?」
ラルフが問いかけると、少女はすうっと、指をラルフに向けた。ラルフは首を傾げる。なんなのだ? しかし、ハッ! 何か閃いたかのように、ラルフは自らの襟の後ろあたりを探り出す。すると、ラルフの手に収まっていたのは、小さな小さな、羽虫型のロボットだった。
ラルフはそれを床に叩きつけ、躊躇なく踏み潰した。
「発信機かよ! クソッ! おい、まさか、これ、盗聴機能なんてないだろうな?!」
ラルフは激怒した。その顔は、怒りに染まっている。すると、鈴は涼しい顔で答えた。
「ある。昨日、あなたが酔っ払った末に、"ウッーウッーウマウマァァァ!"って歌ってた。あれは……、絶対に踊ってもいた」
それを聞いたラルフの顔が、ボッ! と真っ赤に染まった。まさに、穴があったら入りたいとはこの事だ。せめて、ダンジョンの最深部まで転げ落ちてしまいたい。
そんな奇妙なやり取りを、他の客達はあまり気にも止めない。ラルフの奇行は今更だし、見慣れない少女も、また新しい常連が加わったのかなぁ、くらいにしか思わない。この居酒屋では、日常なのだ。
「わかった! もう、わかった! とにかくだ、お互いに上手くやろうぜ。お互いに、な?!」
ラルフは、目を血走らせながら提案した。転生者同士でいがみ合い、敵対しても良いことはない。折角なら、友好的でありたい、と彼は心から願っていた。
「お寿司の玉子を所望する! あとは、おいなりさん!」
鈴は、唐突に注文をする。その声は、感情をほとんど感じさせない。
「うっ?! ……玉子は、出せる。……だけど、いなり寿司は、ちょっと今日は難しい……」
ラルフは、たじろいだ。いなり寿司。それには油揚げが不可欠。つまり、豆腐が必須なのだ。
ラルフは、実は一度、豆腐作りに挑戦してはみた。しかし、その手間と難しさは、筆舌に尽くしがたいほど、めんどくせーかった。
前世では、安価な豆腐がスーパーに何種類も置かれていた気がするが、あれがむしろ異常だったのだ。日本人の食品加工技術の素晴らしさを、身をもって知ってしまった。
それに、この世界では豆腐のような食べ物が求められるシーンが皆無だった。
もしも、「臭くなくて辛くなくて酸っぱくなくて苦くなくて固くなくてパンでも芋でもお粥でも卵でもシチューでもない美味しいもの」、みたいな難題を言ってくるお客がいたら真剣に考えたかもしれないが……。
「じゃあ、とりあえず玉子のお寿司で。というか、ひたすら玉子のお寿司で……」
「はいよ……。魚の寿司は、いらない感じ?」
「私、偏食……」
簡潔に、開き直られてしまった。その言葉に、ラルフは苦笑するしかなかった。
するとそこへ、唐突に、エリカが声をかけた。
「ねえ、あなた。カレーは食べたくない?」
ラルフは、心の中で(うっわー。面白い組み合わせが、出会ったぁ!)と、ちょっとワクワクしてしまった。
「カレー……。甘口の、チキンのカレー、ある? ニンジン抜きの?」
鈴の言葉に、エリカは腰に手を当て、勝ち誇った顔で宣言した。
「あるわよ!」
二人は何故か、ガシッ! と固い握手を交わした。その瞬間、二人の間に、目に見えない絆が生まれたかのようだった。
「あたしはエリカ……。カレー布教委員会会長よ」
エリカは、仰々しく名乗った。
ラルフは(なんだそれは?! お前、奴隷だからなっ!!)と、心の中で盛大に突っ込んだ。
「私、スズ……。ゴーレム作りが趣味……」
鈴は、当たり障りのない自己紹介をしたが、その会話に聞き耳を立てていた者達は、
(ほう……、ゴーレム。また、ラルフ・ドーソンは面白い人材を引き込んだなぁ)
と、感嘆していた。その気配を察したラルフは、また面倒事と騒動の予感がしていた。彼の平穏な日常は、どうやらまだまだ遠そうだ。




