172.焔心の赫奮
ドクンッ!
それは、地の底から這い上がるような、重く鈍い響きだった。空気を震わせ、地面を揺らし、あらゆる生命の根源に直接語りかけるかのような脈動。
ドクンッ!
大地そのものが心臓を得て、その鼓動を刻んでいるかのような錯覚に陥る。耳を塞いでも無意味だ。その振動は、肉体の奥底、魂の淵まで震わせ、全員の腹の底を抉るように響き渡る。
ドクンッ!
横たわるワイバーン、レッドフォードの巨体が、妖しいまでに紅く明滅し始めた。それは、永い眠りから覚めようとする火山の予兆か。それとも、太古の破壊神が覚醒する瞬きか。不吉なまでに鮮やかな光が、周囲の闇を赤く染め上げる。
ラルフ達が固唾を呑んで見守る中、再び響く鈍い鼓動。
ドクンッ!
そして、ゆっくりと。しかし、有無を言わせぬ力強さで、レッドフォードはその巨躯を起こした。屈辱的な墜落の際、その身に纏ってしまった砂や瓦礫が、まるで時が動き出したかのようにパラパラと音を立てて零れ落ちる。
巻き上がる砂塵の向こう、深紅に輝く瞳が、機械式ヒュドラの視線を射抜いた。それは、獲物を捉えた猛獣の如き、凶暴な輝きを宿していた。
「グギャアアアアアアアアア!」
その咆哮は、耳朶を劈き、周囲に舞い上がる砂塵を一瞬にして吹き飛ばすほどの凄まじさだった。世界が、その叫びによって塗り替えられるかのようだ。
「うぉ?!! こりゃあ、覚醒モード突入か?!」
ラルフは、その場にいる誰にも届かない独り言を、しかし至極楽しそうに呟く。彼だけが、この異常事態を心底から喜んでいるようだった。
「ラルフ様?! レッドフォードさん、どうしちゃったんですか?!」
フィセの顔に、明確な恐怖が浮かび上がる。彼女の常識が、今、目の前で打ち砕かれようとしていた。
「ラルフ! いったい、これは?! サラちゃんはどうなったんだ?!!」
パトリツィアは、慌てふためき、今にも泣き出しそうな声で問い詰める。心を通わせたばかりの炎の精霊が、レッドフォードに呑み込まれてしまったかのように見えたからだ。
「さっぱりわからん!!」
ラルフは、まるで他人事のようにあっけらかんと言い放った。彼の言葉は、この緊迫した状況において、あまりにも無責任に響く。
しかし、その場にいるテイマー、ヴィヴィアン・カスターの脳裏には、ある言葉が電光石火のように閃いた。
「精霊憑き⋯⋯」
それは、太古の文献に記されていた、精霊の力を自らの身体に憑依させることで、常識を超えた力を振るったという巫女の伝説。そして、かつてこの地上に存在した魔導国家が、その魔導技術を研究していたという記録を目にしたことがあったからだ。この現象は、まさしくその精霊憑きではないのか。
ズゥゥゥン!
レッドフォードが、再び大地を震わせる。その巨体が、強大な敵へと向かい、ゆっくりと一歩を踏み出した。マグマの如く紅く輝く胸部と背部から立ち上る湯気が、陽炎のように周囲の景色を歪ませる。その姿は、もはや伝説に謳われる竜族そのものだった。
「いけぇぇぇぇぇぇえ! レッドフォードォォォォォォ!」
ラルフの絶叫に近い声援が、レッドフォードの耳に届いた。まるでその声に応えるかのように、再び咆哮が轟く。
「グギャオオオオオオオオオオオオ!」
その声は、対峙する強靭な機械式三つ首竜の身体を、ビリビリと震わせるほどだった。
「キシャァァァァ! キシャァァァァ!」
三つ首竜は威嚇なのか、あるいはただその機能を誤作動させただけなのか、機械の口からノイズを発する。その金切り声は、まるで恐怖に怯える獣のようにも聞こえた。
ズシリっ!
ズシリっ!
紅く燃える目で敵を睨みつけ、レッドフォードは一歩、また一歩と歩みを進める。その足跡には、超高温によって溶けた石が、黒く変色して残されていた。その一歩一歩が、後世に刻まれるであろう、伝説の証かのように。
バリバリバリっ!!
三つ首竜の三つの口から、雷撃が放たれる。だが、それはレッドフォードの手前で、熱波のバリアによって瞬く間にそのエネルギーを終息させられ、まるで糸がほつれるように虚しく消え去った。
対して、レッドフォードは大きく顎を開く。その口内に、真っ白なエネルギーの球体が生み出された。渦を巻き、周囲の魔素が、つむじ風のように、否、竜巻のように吸い込まれていく。
圧縮に次ぐ圧縮。極限まで高められた高エネルギーは、肉眼で追うのも困難な速度で色を変え、白色から漆黒へと転じた。その一点に、宇宙そのものが凝縮されたかのようだった。
「あら?⋯⋯うん。⋯⋯、みんな⋯⋯。もし、魔導障壁が持たなかったら⋯⋯なんか、ごめんね!」
ラルフは額に汗を浮かべながら、乾いた笑みを浮かべた。その表情には、どこか諦めにも似た達観が見て取れる。
「なんか、ごめんね! ⋯⋯で、済むかぁぁぁ!」
カーライル騎士爵の絶叫が、空間に木霊する。だが、その声は、次の瞬間、光の奔流に飲み込まれた。その時、まるで太陽が爆発したかのような、眩い光がすべてをを包み込んだ。
機械式三つ首竜は、その敵性体が灯す高エネルギーの解析データを基に、瞬時に電脳内で演算を開始する。
E_{total} = ( ( P_{thermal} \times \Delta t ) / \eta_{conversion} ) + ( M_{aether} \times C_{magic}^2 )
I(r) = I_0 \times \exp( -\alpha_{atm} r - \beta_{aether} r^2 )
D_{damage} = K_{material} \times \int_{0}^{E_{impact}} \sigma_{absorption}(E) dE
結論、
観測限界突破、予測不能なエネルギー挙動⋯⋯全システム、対応不能⋯⋯。
攻撃を避けようと、機械式の翼を広げた三つ首竜。自由の利く上空への退避こそが、この状況における最適解。⋯⋯のはずだった。だが、その選択は何の意味も成さなかった。
「キシャァァァァ!!!」
片翼を撃ち抜かれ、そこにはまるで飴細工のように、いとも簡単に溶け落ちたかのような巨大な穴が空いた。超高温の熱線は、レッドフォードによって横薙ぎに振り抜かれる。
三つ首竜の、そのうちの一つだった首が、溶け切れて宙に舞った。
「うぉぉぉぉ?!」
「きゃあああああ!」
「ぶべっ?!」
その衝撃波は、ラルフ達を容赦なく吹き飛ばした。まるで、風に吹かれた枯葉のように⋯⋯。
「みんな?! 無事か?!!」
ラルフは叫ぶ。
「ぶはっ! ペッ! ペッ! 口に、口に砂が⋯⋯」
メリッサが起き上がりながら、口に含んだ砂を吐き出す。彼女の顔には、疲労と安堵が入り混じっていた。
「ふぅ⋯⋯死ぬかと思ったぜ⋯⋯」
砂まみれになったヒューズが、地面にあぐらをかいていた。どうにか、なんとか、全員無事のようだ。
「ヒュドラ・ゴーレムは、どうなりましたか?!」
フィセが目を凝らす。辺り一面、砂ぼこりと煙が立ち込め、視界を遮っていた。少しずつ視界が晴れてくると、地面に横たわる三つ首竜ゴーレムの姿が見えた。しかし、
「ギッ、ギッ、ギシッ⋯⋯ギギィ」
と、なんとか残った二本の首を持ち上げようと、引っ掻くような金属音を上げる。その動きは緩慢で、もはや戦闘継続は不可能であることを物語っていた。
だが、紅く明滅するレッドフォードの巨体は、まだその目に殺意だけの、一切の感情が読み取れない光を宿しながら、その残骸とでも言うべき敵の成れの果ての姿を、冷酷に見下ろしていた。
そして、一切の躊躇なく、残された首の一つに喰らいつく。ブチブチブチっ! と、根本から引き抜かれた首は、色とりどりのケーブルやパイプ類が、まるで臓物のようにぶら下がり、そして、ブンッとレッドフォードが首を振ると、放物線を描いてドガラァァァン! と地面に落ちた。
残された首は一つ。
「ギ⋯⋯、ギシ⋯⋯ギっ!」
と、その緑色に光る目は、まるで慈悲を求め、命乞いをしているかのようにも見えた。しかし。レッドフォードはその頭部にも鋭い牙を食い込ませ、腹部を強靭な脚で押さえつけながら、最後の首をも引き千切った。
いくら人工的なゴーレムが相手と言えども、その凄惨な光景に、「うっ、うぉえ?!」と、フィセは吐き気を堪えた。
そして、機械式三つ首竜は、その活動を永久に停止した。
「ギャオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
レッドフォードは、垂直に首をもたげて、上空に向けて特大の凱旋砲火を放つ。その炎は、まるで天にも届くかの如く火柱となり、ダンジョンの上空を灼き尽くす。
ラルフ達は、ただ呆気に取られたまま、その光景を眺めることしかできなかった。
「いつか、国王陛下が言っていたな⋯⋯。ロートシュタインが現在、世界最強の軍事力を持っているという⋯⋯。あながち、大袈裟ではないのかもしれんな⋯⋯」
カーライル騎士爵の呟きが虚しく漏れ出し、その場にドサリと座り込んだ。その言葉には、途方もない事実を突きつけられた者の、諦めにも似た響きがあった。
レッドフォードが炎を吐き出すに応じて、その身体から放たれていた紅い光は徐々に薄れていく。いつもの見慣れた赤い鱗姿に戻りつつあったその時。
レッドフォードの口から、何か小さいモノが、ポンッ! と吐き出され、打ち上げられた。
「えっ?! あ、あれ?! もしかして?! もしかして?!!」
パトリツィアは、それが何であるかを悟り、それを受け止めようと走り出し、着地点と思われる場所で右往左往する。まるで、下手くそなキャッチャーがフライを捕球しようとしているかのような姿に、ラルフは思わず笑ってしまった。
そして、ボフッ! と、それを抱きとめたパトリツィアは。
「やっぱり! サラちゃーん! 心配したんだよぉぉぉ!」
と、その小さな身体を抱きしめた。サラマンダーのサラちゃんは、"心配ないよ!"と彼女を安心させるかのように、パトリツィアの頬をペロリと舐めた。




