170.もう一人の……
暗黒の空から、雨が降り注ぐ。
ラルフは、その冷たい飛沫を浴びながらも、まるで魂を置き忘れてきたかのように、振り返ったまま微動だにしなかった。電脳空間から現実へと舞い戻る直前、彼の意識の奥底で響いた、あの奇妙な声。それは、まるで明け方に見た淡い夢のように、彼の心に引っかかっていた。
周囲では、誰もが恐る恐る、活動を停止した金属ゴーレムを検分している。その金属体は、まるで不気味な彫像のように、廃墟の街に鎮座していた。
「これ、一体なんなのです?」
フィセの声が、静寂に沈む空間に響いた。彼女の視線は、一体のゴーレムが握りしめている異形の武器に釘付けになっている。ラルフは無言でそれに近づくと、物言わぬ金属の掌から、その武器を奪い取った。
まるで長年の相棒であるかのように、慣れた手つきで銃身を脇の下でくるりと回転させ、スピンコックで弾薬を装填する。その一連の動作は、淀みなく、そして優雅だった。
視線の先に捉えたのは、少し離れた場所に立つ、朽ちかけた街灯。狙いを定め、引き金を引く。
ガオンッ!
耳をつんざくような轟音が、廃墟の街に木霊した。直後、街灯は砕け散り、その破片がガラスの雨のように降り注ぐ。フィセは思わず耳を塞ぎ、驚愕に目を見開いた。
ラルフが手にしたそれは、レバーアクション式のライフル(に良く似た、魔導銃とでも呼ぶべき物)。ラルフの前世において、アメリカの西部開拓時代を象徴する、まさに"侵略者の銃"でありながら、数々のフィクションを華やかに彩ったロマン溢れるガジェットだ。
それをフィセへと手渡す。
「クラーケンバスターよりは手軽だと思うから、気を付けて使えよ」
ラルフの言葉に、フィセは呆然としたまま、未知の武器を両手で受け取った。その顔には、困惑と畏敬の念が入り混じっていた。
「ラルフ様ぁ! ちょっとこっちへ!」
ヒューズの焦燥じみた声が、ラルフを現実に引き戻した。
廃墟群の街の中央に、突如として現れた、眩い光を放つ魔法陣。一目見たラルフは、大魔道士としての途方もない知識から、それが何を意味するのかを瞬時に悟った。
「これは、転移の魔法陣だ」
その言葉に、全員が息を呑んだ。転移。それは、この世界において禁忌とされる魔術。魔導師連盟によって、厳格に禁じられているはずのものだ。
「明らかに、これは、罠だな? そうだろ?」
ヒューズの声には、警戒と疑念の色が濃く滲む。しかし、ラルフは――。
「僕だけが行こう。どうやら、招かれているみたいだしな」
そう呟くと、迷いなくその魔法陣へと歩みを進めようとする。
「何を言うか?! 仲間一人を戦地に進ませるなど、騎士の名折れである!」
カーライル騎士爵の叫びが、雨空の下に響き渡る。そこにいる誰もが、雨に濡れながらも、揺るぎない強い意志を宿した視線をラルフへと向けていた。
ラルフの性格上、何を言っても聞かないだろう。ならば。全員で、その転移陣を踏み抜くしかない。おそらく、この先はダンジョンの深層。ただでさえ、これまでも苦戦を強いられてきたダンジョンだ。普通に考えれば、生きて帰ることはできないだろう。しかし、この非常識極まりない大魔道士と一緒ならば、生涯をかけても見ることが叶わないような、途方もない景色を見ることができるのではないか? そんな期待が、彼らの疲労すら忘れさせていた。
転移陣に乗り、眩い光に包まれる。
光が収まった先に広がっていたのは、何もない薄暗い空間だった。
果てしなく遠くに目を凝らしても、壁らしきものは見えない。見上げてみても、天井は闇に溶け込んでいる。
もしかしたら、ダンジョンの外、どこか遠くの見知らぬ場所に転移させられてしまったのだろうか? 誰もが、一瞬、不安に襲われた。
しかし、そうではない。
すぐに誰もが悟った。
明らかな害意。あるいは、純粋な殺意が、形を伴って彼らの眼前に現れたからだ。
そこに佇んでいたのは、巨大な三つ首の竜。否。その外甲は、銀色の金属に覆われ、無機質な緑色の光を帯びた瞳が、鈍く輝いている。
「ヒュドラの、ゴーレムか?」
ヒューズがそう呟き、剣を構える。ラルフは、大きく溜息をついた。
わかった……。
もう、わかった。
理解してしまった。
どうやら、ラルフ以外の、"転生者"が存在するということを。
緑色の目が、一層その輝きを増す。ヒュウンヒュウン、ゴウンゴウンゴウン。不気味な駆動音が、薄暗い空間に響き渡る。二本の長い尾が持ち上がり、ゆらゆらと揺らめく。そして、三つの首が、それぞれ独立した意志を持つかのように動き出し、この階層への侵入者――つまり、ラルフ達を、憎悪に満ちた眼差しで睨みつけた。
「ラルフ様ぁ! これは、いよいよヤバイんじゃねーか?!」
珍しく、剣を握るヒューズの手が震えている。誰もが、この絶体絶命の状況を前に、どうすることもできない。やはり、ここに来るべきではなかった。名誉、未知への挑戦、自分の強さの証明。そんな浅はかなものを欲したが故に、目の前の絶望と対峙しなければならないなんて。そんな後悔の念すら、彼らの心に湧き上がってきた。
しかし。ラルフ・ドーソンは、いつもの不敵な笑みを浮かべ、一歩前へと踏み出した。
「……ラルフ・ドーソン……」
カーライル騎士爵は、偉大なる大魔道士の、その頼もしい背中を見つめた。この強敵を前に、この絶望の中で、まだ前に進めるというのか?! 彼の心に、感動の波が押し寄せる。
そして。
「ええええい!! ビビってたまるか?! 殺ってやる!!」
気合を入れ直し、剣を抜いた。だが、ラルフは。
「あー。カーライル騎士爵。ヤツの相手は、もう一人の調査隊のメンバーにお願いしましょ!」
「は? ……もう一人?」
誰もが、ラルフの発言を理解できず、困惑の表情を浮かべる。
「いや、一人というか……、一匹と言うべきか、一頭と言うべきか」
そう言いながら、ラルフは懐から円筒形の物体を取り出した。一見すると小さな水筒のようにも見えるが、表面には複雑なルーン文字が刻まれている。
「まさか?! ……ラルフ・ドーソン! まさか、"アレ"を、完成させていたのか?!」
テイマーのヴィヴィアンが、驚きの声を上げた。
それは、まさにラルフ・ドーソンの魔導研究者としての知識と技術の粋を結集して作られた、
《テイマー・キャプセル》。
空間拡張魔法の式と転移魔法の回路図が、幾重にも重ねて描かれ、その小さな物体の内部を構成している。マジックバッグの原理を応用し、契約した魔獣を収納し、必要な時に呼び出す。言葉にすれば単純だが、生きた存在を入れるには、呼吸や鼓動を保つための独立した環境生成魔法が必要になる。失敗すれば即死。だが、ラルフは夜も眠らず昼寝して、試行錯誤の末に、これを完成させたのだ。
そして。
「いでよ! レッドフォード!!」
その言葉は、大怪獣決戦の始まりを告げた。




