168.雨と殺意
第六階層:雨の廃都
鉛色の空から、糸を引くように雨が降り注ぐ。その水滴一つ一つが、薄暗い世界に無数の波紋を広げ、視界の全てを灰色に染め上げていた。ここが第六階層、名付けるとしたら「雨の廃都」。ダンジョンの中に、何故か地上の廃墟を模した景色が広がっている。かつて人の営みがあったとは思えないほど、ただ荒廃した建物群が延々と続いていた。その不気味な静寂を打ち破るのは、降りしきる雨音ばかりだ。
ラルフ達、先遣調査隊は、冷たい雨から逃れるように、朽ちかけた一軒の石造りの家屋に身を潜めた。内部は、がらんとして何もなかった。家具どころか、椅子一つ、テーブル一つすら見当たらない。広くもなく、かといって狭苦しくもない、ただの四角い空間。
壁に背を預ける者、地べたに胡坐をかく者、それぞれがこの陰鬱な空間に押し黙っていた。ヒューズだけは、かつて窓であったろう壁の穴から、苦々しげに外の景色を睨みつけている。その表情には、苛立ちと、わずかな焦りが滲んでいた。
ラルフは床に胡坐をかき、手に持ったケトルで湯を沸かし始めた。バーナースタンドの下には、炎の魔石の代わりに、サラマンダーの"サラちゃん"が気持ちよさそうに寝転がっている。小さな赤い体が熱を放ち、ケトルの底を温めていた。
「クッキー食うか?」
ラルフがそう言って、焼きたてらしいクッキーをサラちゃんの鼻先に差し出すと、サラちゃんはくんくんと可愛らしく匂いを嗅ぎ、ぱくりと一口でそれを口に入れた。小さな口をハムハムと動かし、満足げに目を細めている。
「ラルフ・ドーソン。私にもくれ」
静寂を破ったのは、パトリツィアの凛とした声だった。その言葉に続くように、
「私も!」
「あっ、私も欲しい!」
と、次々に手が挙がる。張り詰めていた空気が、少しだけ和らいだように感じられた。
「はいはい。……これ、ミンネとハルが出発前に持たせてくれたやつだから、帰ったらお礼言っとけよ」
ラルフの言葉に、皆の頭の中には、可愛らしい二人の少女の姿が思い浮かんだ。明るい笑顔と、慣れない手つきでお菓子を焼く姿。心が温かくなるような光景だ。
「えっ? これ美味しい。あまーい!」
ミラが驚きの声を上げ、両頬を押さえながら、謎のくねくねとした動きで喜びを表現する。その全身から湧き上がるような純粋な歓喜は、この薄暗い空間に一瞬の光を灯したかのようだった。
「なかなか、あの二人のお菓子作りも上達してきただろう? それはハニー・レモンクッキーだ。今、お茶を淹れる……。まだまだあるから、食っていいぞ!」
ラルフの声は、いつになく穏やかだった。
「ふっ、公爵様にお茶を淹れさせるなんてな。いつの間にか、俺もいい身分になっちまったか?」
ヒューズがニヒルな笑みを浮かべ、自嘲気味に呟く。その目は未だ外の景色を捉えていたが、声の調子には、わずかながら弛緩が見られた。
「外の様子はどうよ?」
ラルフが問いかける。
「動きなし。静かなもんだ……」
ヒューズの短い返答に、再び静寂が訪れる。しかし、その静寂は、雨音とは異なる種類の、張り詰めた緊張感を孕んでいた。
「出現が想定される魔獣やモンスターの種類は?」
ラルフの問いに、ヒューズは腕を組み、考え込むように顎に手をやった。
「廃墟ってのは、なかなかに珍しい。それに、この雨ってのもな……。ただ、雰囲気からするに、……あくまでも俺の勘だが。アンデッド系かなぁ、と」
「うへぇ……、やだねぇ」
ラルフはげんなりとした表情で、湯気の立つお茶を皆に配っていく。カップから立ち昇る湯気と、上質な茶葉の香りが、確かに彼らの張り詰めた空気感を少しだけ和らげた。心なしか、皆の表情にも安堵の色が浮かぶ。
「なんというか……、これ以上、調査の必要があるのか?」
唐突に、カーライル騎士爵が口を開いた。その声には、疲労の色が滲んでいる。
「と、言いますと?」
ヒューズが振り返り、問い返す。
「つまり、ここはごく普通のダンジョンだった。そういうことで良いのではないか?」
カーライル騎士爵の言葉は、率直で、誰もが心の奥底で抱いていた疑問を代弁していた。
「確かに……。その通りなんですよねぇ。推奨レベルは若干高めではあるが、……普通のダンジョンなんだよなぁ」
ヒューズは、己の思考を整理するかのように呟いた。その表情には、迷いが見て取れる。
「帰る?」
ラルフが問うた。彼の声には、一刻も早くこのような面倒事から解放されたいという、切実な願いが込められていた。
「しかし、秘匿されていたのでしょう? わざわざ、高度な隠蔽魔法によって……。その理由がわからなければ、一般の冒険者に解放するのは危険なのでは?」
ミラ・カーライルが、鋭い視線でヒューズを射抜きながら言った。その言葉は、確かに正論だった。
「だが、そもそも、ダンジョンは危険なものだ。それはどのダンジョンでも同じだ。そこに挑む者は、何があろうと自己責任……。そこに国や権威が制限をかける訳にもいくまい?」
マティヤス・カーライル騎士爵は、至極真っ当なことを言い放った。その言葉には、一切の迷いがなかった。
「確かになあ……。先遣隊による調査はこれにて終了。第六層までを解放。以降は、ギルドが冒険者達による到達階層報告及び、聞き取りにより観測記録を続行。……そんなところか……」
ヒューズが考え込んだ。彼の頭の中では、すでに報告書の内容が組み立てられているようだった。
「よっしゃ! 帰ろ帰ろ! このお茶飲んだらすぐに帰りましよ!」
ラルフは、ヒューズの顔を見た時だった。満面の笑みを浮かべ、喜びを露わにしているラルフの視界に、ヒューズの胸の辺りに、動く赤い点が見えた。一瞬、何かの見間違いかと思ったが、その点はゆっくりと上昇していき、ヒューズの眉間に留まった。ラルフの脳裏に、前世の記憶が鮮やかに蘇る。数々のハリウッド映画やドラマで見てきた、殺意の象徴――、
レーザーサイト。
「?! ヒューズ! 避けろ!」
ラルフの絶叫が、その部屋に満ちる空気と雨音を切り裂いた。




