167.サラマンダー
先遣調査隊は、静かに舟を漕ぎ出し、薄く霧のかかる泉を渡っていた。
水面は穏やかに見えたが、底の闇は深く、冷たく、何かが蠢いている気配がある。
それは突如、襲いかかってきた。
水柱と共に現れたのは、巨大な顎を持つ水棲魔獣――プラシッド・モウ。
湖面を割るその口は、まるで小舟ごと世界を噛み砕くかのようだった。
「――撃てッ!」
ヒューズの声と共に放たれたのは、必殺の《クラーケン・バスター》。
海の魔王を屠るためだけに開発されたその魔導砲が、魔獣の頭部に直撃し、
轟音と共に大穴を穿つ。
肉片と血飛沫が雨のように降り注ぎ、魔獣は哀れにも水底へと沈んでいった。
(うわぁ……えげつねぇ。ワニさん、ご冥福を……)
ラルフは内心で合掌しながらも、他人事ではないと痛感していた。
《クラーケン・バスター》の設計に、彼自身も深く関わっているのだから。
自分の造った兵器の威力を思い知り、同時にそのオーバーキルぶりに背筋が寒くなる。
滝の裏に隠された入口を見つけるのは、もはや全員が予想していたことだった。
一行は、静かに舟を岸へ寄せ、次の階層――第五階層へと足を踏み入れる。
第五階層:炎獄の橋
そこは、灼熱の世界だった。
岩盤でできた一本橋が、滝壺の裏から先へと細く伸びている。
幅は五十センチほど。足場は安定しているが、視線を下に向ければ、
遥か彼方で赤黒い溶岩が渦を巻き、熱波を吐き上げている。
じりじりと焼かれる空気は皮膚を刺し、肺の奥まで熱が入り込んでくる。
この状況で火属性の魔獣が現れる可能性を考えれば――悪意すら感じる設計だ。
「……暑いな」
カーライル騎士爵が、顎を伝う汗をぬぐう。
「これは、かなり悪辣な階層ですね。逃げ道がないではありませんか」
パトリツィアが、じとりとした視線で溶岩を見下ろす。
「そうねー。あら、さっそく――おいでなすったみたいよ」
ラルフの声が響いた瞬間、全員の視線が下へ向かう。
溶岩の海が爆ぜ、燃え盛る竜が姿を現す。
その咆哮は炎の奔流となり、橋を飲み込もうと迫った。
「ラルフ様! 障壁を!」
「もう張ってる!」
瞬時に展開された魔導障壁が炎を遮り、火竜は再び溶岩へと沈む。
「あれは……サラマンダーだ」
ヒューズの声には珍しく焦りが混じっていた。
「火そのもの……いや、火の精霊だ」
再び、熱波を裂いて現れる炎の巨影。
その形は一定せず、二つ首に分かれたり、尾が異様に長く伸びたり――まるで実体のない炎そのものと戦っているかのようだ。
「火なんて、どうやって切ればいいんだ?!」
宮廷料理人のサルヴァドルが悲鳴を上げる。
「パトリツィア! 最大火力の魔法をぶっ放せ!」
ラルフが叫ぶ。
「はあ?! 私は火魔法の使い手だぞ? 相手は火属性の魔導生物なんだろう? 相性最悪だ!」
「いいから、やれ!」
非常識な指示に、全員が目を剥く。
だが、ラルフには一つの仮説があった――火と火は、互いに溶け合う。
炎は、炎を拒まない。もし、魔法の炎と魔導生物の炎が同質の魔素で構成されているのなら――同化が起こり得る。
それは賭けだったが、今が試す時だ。
轟音と共に、サラマンダーが再び飛び出す。
「よくわからんが――やってやる! 《煉獄覇炎》!」
パトリツィアの魔力が爆発し、紅蓮の奔流が放たれる。
炎と炎が衝突した瞬間、視界は真白な閃光に包まれた。
「きゃあっ!」
「うおおっ!」
耳をつんざく音と共に、光が収束する。
そして――パトリツィアの右腕の上に、真紅の小さな生き物が乗っていた。
三十センチほどの、滑らかな体躯をしたヤモリのような姿。
その瞳は琥珀色に輝き、体温は触れれば火傷しそうなほど熱い。
「……は? え? なにこれ?!」
パトリツィアは固まる。
「それ……それが、……サラマンダーの真の姿、か?」
テイマーのヴィヴィアンが目を見開く。
「ちょ、ちょっと待って! これ、どうすればいいの?!」
困惑するパトリツィアの腕に、小さな火の精霊はしっかりとしがみついている。
「火と火は、溶け合う。……そういう性質がある。そして魔法の火と、魔導生物の火なら……うまくいくかもしれないと思ったんだ。思ったんだが……」
ラルフは冷静に言うが、内心は驚きで震えていた。
「落ち着け、パトリツィア! 今の君は――火の精霊をテイムしている状態だ!」
ヴィヴィアンが告げると、サラマンダーは眠たげにパトリツィアの腕を舐めた。
「え?! ちょ、ちょっと! え?! なんか、……かわいい……!!」
パトリツィアは、気づけばその頭を撫でていた。精霊は目を細め、気持ちよさそうに喉を鳴らす。
次の瞬間――「サラちゃーん!」と愛称をつけ、抱きしめ、頬ずりまで始める。
「あの、パトリツィア……そのサラマンダーは火の精霊なんだが……」
「はあ? だから何よ! 精霊とか知らないけど、この子は私の可愛い子よ!」
と、謎に庇護欲が湧いたらしい。
「……ええ……?」
仲間たちは呆れと困惑を隠せない。
だがラルフは、この事態が極めて稀であると理解していた。なので、
「パトリツィア……君は今、“炎の精霊遣い”になったんだ……わかる?」
「……え、は? ……ん? ……へっ? 私が? ……炎の精霊遣い?! あっ?! サラちゃんのおかげで?!!!」
言葉を反芻するパトリツィアの顔に、驚愕と興奮が同時に走った。
こうして、火魔法の名手は、思いがけず特大のランクアップを果たすこととなった――。




