160.調査隊発足
居酒屋領主館の庭では、常連客たちが集まっていた。その中心には、自称ヴラドおじさんこと国王が、得意満面に釣り上げた巨体の魚が吊るされている。ラルフは、その銀色の魚体に向けて右手をかざし、静かに魔法を発動させた。
「《命素内視検知》」
魔力の光が魚を包み込み、その内部構造がラルフの視界に映し出される。寄生虫や、シガテラ毒などの心配があるからだ。居酒屋の常連客たちは、興味津々といった様子でその光景を眺めている。国王様の釣り自慢は尽きないようで、上機嫌にこの獲物を釣り上げた時の話を、身振り手振りも交えて躍動感たっぷりに語り聞かせている。
「うん! 食べてよーし! じゃ、パトリツィア、お願い」
ラルフの声に、火魔法の名手、パトリツィアが「はいよー」と元気よく応じた。彼女は、丁寧に塩をまぶし吊るされたロウニンアジに似た巨大魚の周囲に、合計五つの火炎球をふわりと浮かべた。熱気を帯びた火炎球が、絶妙な距離を保ちながら魚を包み込む。遠火でじっくり焼く、最もシンプルでありながら、素材の味を最大限に引き出す塩焼きだ。プスプスと音を立てて脂が焦げ始めると、香ばしい匂いと魚特有の潮の匂いが混じり合い、その場の空気を支配する。もう、その香りに誘われるように、白飯を注文している連中さえいる。
常連客たちがひとしきり飲み食いを楽しみ、喧騒が最高潮に達する間にも、客足が途絶えることはない。いつものように居酒屋領主館は満員御礼。活気と熱気に満ちた空間は、あらゆる身分の垣根を越え、人々を惹きつけてやまない。
そして、今晩のメインイベントが始まった。新発見されたダンジョンの調査隊を組織する会議だ。普通は居酒屋で、しかも酒を飲みながらすることではない。だが、ここには王国の王侯貴族、各国の重鎮たちに冒険者たち、そして王国騎士団までもが常日頃から自然と集う場所だ。こんなにうってつけな場所は他にない、とも言える。
「で? 誰が仕切るんだ?」
ラルフが、どこか他人事のように呟いた。その言葉は、まるで彼の内心の戸惑いを表しているかのようだった。それを聞いた皆は、キョロキョロと互いの顔を見合わせる。このような場合、一番偉いのは国王様か? いや、実務担当としては冒険者ギルドのマスターではないのか? それとも騎士団がやるべきなのか? いや、やはり領主であるラルフ・ドーソンなのか? 自由な気風なのはいいが、こういう時に指揮命令系統が曖昧になってしまうのは、問題かもしれない。しかし、この街ではそれが日常であり、ある意味で調和がとれているのだ。
「ダンジョンに関しての専門家は、やはり冒険者だろう? 埒外な指揮を執っても時間の無駄だろう」
ヴラドおじさんが、その場の空気を一変させるような一言を言い放った。その言葉には、一国の王としての洞察力と、どこか冒険者に対する信頼が込められているようだった。
「それもそうか」と皆納得した。さすがは腐っても国王様だ。と、内心でかなり不敬なことを考えてしまった人間が大勢いたことだろう。その「腐っても」という形容は、彼の親しみやすい性格と、時折見せる型破りな行動への、ある種の愛情表現でもあった。
「わかった……では、この場はこの俺、ギルドマスター代理、ヒューズが仕切らせてもらう」
金髪で長髪の美男子、ロングソードを担いだ冒険者が、堂々たる足取りで前に進み出た。彼の顔には、自信と、この状況を乗り切ろうとする強い意志が宿っていた。
ヒューヒュー! パチパチ! と、何故かその場には歓声と拍手が巻き起こる。
「よっ! ヒューズ! 初登場!」
「ずっと名前は出てきてたけどなっ!」
「実は19話から出てたんだよな!」
わけのわからない野次が飛び交う中、ラルフはそれらを聞き流して尋ねた。
「あれ?! 代理って、ギルマスはどうしたの?」
ヒューズは、やや呆れたような表情で答えた。
「先日の祭りに感動したとかでな。引退して、屋台をはじめるらしい。……実に迷惑な話だ!」
「あっらぁぁぁ……」
ラルフは額に手をやった。祭りを主催した当事者として、少しばかり責任を感じてしまう。彼の革命は、思わぬ方向に波及しているようだ。
「ということで……。まずは先遣調査隊の組織だな。この中で、希望する者はいるか?」
ヒューズの問いかけに、その場にいる冒険者や、騎士たち、そして剣の腕に自信のある貴族たちまで、全員が手を挙げた。彼らの瞳は、新たな冒険と名誉への熱意に燃え上がっていた。
ラルフ以外は……。
「ありゃぁ、こりゃあ、簡単に決まりそうだな!」
ラルフは笑顔になった。なんだ、別に面倒なことはないではないか、希望者がこんなにいるなら、自分は何も関わることはない。そう安心した、その時だった。
「ラルフ様も来てもらいますよ?」
ヒューズの言葉に、ラルフの顔から血の気が引く。
「なんでぇぇぇぇぇえ?!!!」
彼の叫びは、居酒屋の喧騒の中でも際立っていた。
「当たり前でしょう。未知のダンジョンなんですから、オールラウンダータイプの魔導士を前衛に配置して、安全マージンを最大限確保するのが定石なんですから……。それに……」
ヒューズは、にこりともせずに畳みかける。
「それに?」
ラルフは首をかしげる。嫌な予感が、彼の胸をざわつかせる。
「ラルフ様、この前、S級冒険者に認定されましたよね?」
「あ、ああ、なんか、そんな話、あったような?」
確かに、竜族を二体討伐した時に、そんな話が持ち上がったような記憶がある。あまりにも慌ただしい日々の中で、その事実は彼の意識の片隅に追いやられていたのだ。
「はい。これ、ギルマスから預かってます。やっと完成して、王都の本部から送られてきましたよ」
そう言って、ヒューズは小さな小箱をラルフに渡してきた。木製のシンプルな箱だが、その中身の価値を思えば、その質素さがかえって重々しく感じられた。
恐る恐る、それを開けるラルフ。中には、まばゆいばかりの光を放つものが収められていた。
「うっわぁ、すっげぇ、はじめて見た……」
多くの冒険者がラルフの手元を覗き込み、感嘆の声を漏らした。それは、白銀に輝く特級冒険者票。世界中の冒険者が憧れ、その生涯をかけて追い求める、最高峰の証だった。その圧倒的な存在感に、誰もが息を呑んだ。
「……これ、辞退できません?」
ラルフは、かすれた声で言ってみた。彼の顔には、途方もない面倒事を背負わされることへの、深い絶望が浮かんでいた。
すると、全員が無表情になった。その場の空気が、凍り付いたかのように静まり返る。
「無理です」
ヒューズは、冷徹なまでにきっぱりと言い放った。
「ですよねぇ……。そんな気がしました。もう空気がね、それを許さない感じよねぇ」
ラルフは、がっくりと肩を落とす。彼の周囲には、まるで「当然の務め」だとでも言いたげな、重い沈黙が漂っていた。
「まあ、規則とかはありませんがねぇ。強者ならばこそ、世のため人のために貢献する使命と責務があると、我々冒険者はずっと言い聞かせられてきました。……そう、ご理解下さい」
ヒューズの言葉は、彼らの誇り高き冒険者としての矜持を表していた。その言葉には、一切の私欲がなく、ただただ奉仕の精神が宿っている。
「うっわー。かっけぇ……。この世界の冒険者ってそんな感じなんだぁ」
ラルフは素直に感心してしまった。彼の知る「冒険者」という概念とは、あまりにもかけ離れた、崇高な理念がそこにはあった。
「ただ、まあ。全員連れて行くわけにもいくまい。先遣隊、後発隊として分ける必要がありそうだなぁ」
ヒューズは腕を組み、難しい顔で悩む。彼もまた、この未知のダンジョンに対し、最大限の注意を払おうとしていた。
「でも、マスターが一人いれば、攻略できてしまいそうですよね……」
その時、静かに呟いたのは、女騎士、ミラ・カーライルだった。彼女の言葉は、まるで水を打ったかのように、その場を静まり返らせる。誰もがその言葉に納得してしまったのだ。ラルフの圧倒的な実力は、もはや誰もが認めるところとなっていた。
「なるほど……。それはそれで、つまらない、か?」
ヒューズは、真剣な顔で考え込む。彼の思考は、ダンジョン攻略の効率性だけでなく、冒険者たちの「楽しみ」にまで及んでいるようだった。
「つまらないって何?! つまらないとか面白いとかで、こんな大事なこと決めていいのっ?!」
ラルフは、再び鋭く突っ込んだ。彼の常識は、この自由すぎるロートシュタインの常識とは、根本的に異なっていた。
「後衛に徹してもらいましょうか? 危なくなったら、手を貸して貰えればと」
ヒューズは、ラルフを無理やり納得させるかのように、妥協案を提示した。
「いやぁ、それに、僕、領主だからさぁ? 日々の執務もあるしさぁ。下手すると、何日もかかるんでしょ?」
ラルフは、なんとかこの面倒ごとから逃れようと、最後の抵抗を試みた。しかし、彼の言葉を遮るように、メイド長のアンナが静かに口を開いた。
「書類仕事であれば、私とエリカ様がいればなんとかなりますよ? 孤児たちの中からも、算術に秀でている者も現れ始めましたし。この際だから、実務経験を積むのに良い機会かもしれません」
アンナの言葉は、完璧なまでにラルフの言い分を封じ込めた。彼女の冷静で的確な判断力は、もはやラルフの専属メイドの範疇を超えていた。
「だ、そうですよ」
ヒューズは、勝ち誇ったかのように言い放った。
「いやいや、でもでも。居酒屋の経営もあるし……」
ラルフがさらに言い募ろうとすると、またもアンナが、静かに、しかし有無を言わせぬ調子で告げた。
「旦那様がいなくても、すでに回るようにはなってますよ……」
その言葉は、ラルフの心に深々と突き刺さった。
「えっ? はっ? なに、僕って、いらない子なの?」
ラルフは悲しくなった。彼の目には、どこか寂しげな色が浮かんでいる。確かに、優秀な経営者ほど、自分がいなくても事業が回るようにシステム作りが大事だという話は、前世で聞いたことがある。経営者一人の属人性でもって事業を回せば、その一人がいなくなったときにすべてが立ち行かなくなってしまう危険性が高いからだ。ラルフは意図せずとも、優秀な経営者としてプロデュース力とマネジメント能力を発揮してしまっていたらしい。それはそれで喜ばしいことなのかもしれない。しれないが、なんだかそれはそれで寂しくなってしまうのだった……。彼の築き上げた居酒屋領主館は、彼なしでも回り始めている。それは素晴らしいことのはずなのに、彼の心には、一抹の寂しさが募っていくばかりだった。




