16.グレン子爵の愉しみ
グレン・アストン子爵は、50歳を超えてなお、飽くなき食への探求心を持つ男だった。王都の美食をことごとく味わい尽くし、あらゆる珍味を口にしてきた彼の人生は、しかし、どこか退屈なものだった。もはや、この世に自分の舌を唸らせるものなど存在しないのではないか。そう半ば諦めかけていた、つい最近までのことだ。
「はぁ……今日も美味い」
子爵は、領主館の一階にある「居酒屋領主館」で、熱々の餃子を頬張りながら、至福のため息をついた。
周囲に目をやれば、屈強な冒険者たちが大声で笑い、商人たちが景気の良い話に花を咲かせている。
耳を劈くような喧騒、立ち込める香ばしい匂い、そして貴族としては決して許されないはずの下品な賑わい。本来であれば、グレン子爵のような高位の貴族が足を踏み入れることなど、ありえない空間だ。
しかし、彼は連日、ここに通わずにはいられなかった。
全ては、あの若き公爵、ラルフ・ドーソンが作り出すあまりにも未知の料理と、美味すぎる酒のせいだ。
初めて口にしたフレーバービールの衝撃。肉汁が溢れ出す餃子の美味さ。
そして、先日初めて食べた「ラーメン」とやらには、完全に魂を抜かれた。
庶民が通う店であると知りながらも、子爵家の当主である自分が、こうして足繁く通い詰めてしまう。これを知れば、他の貴族たちはさぞ驚き、あるいは嘲笑するだろう。だが、そんなこと、彼にとってはどうでもよかった。
美味い。ただそれだけが、彼の行動原理だった。
その日の昼間、グレン子爵は、居酒屋領主館の隣にできたという「製麺工場」に足を運んでいた。そこには、ラルフが「麺作りの天才」と称した少年、トムがいた。
「えーい、まだか? トム君!」
子爵は、慣れた様子で工場の一角に置かれた簡素なテーブルに座り、せっつき始めた。彼は、ここに通うようになってから、トムが作る麺の虜になっていた。
「はいよ! 打ち立てうどん」
トムは、湯気の立つ寸胴鍋から、手際よく茹で上がったばかりの麺をすくい上げ、皿に盛った。麺は、白く輝き、独特の香りを放っている。
「むー、これこれ!」
子爵は、トムが差し出した皿を受け取ると、懐から小さな小瓶を取り出した。中には、ラルフが「ショーユ」と呼ぶ、琥珀色の液体が入っている。これを、茹でたての麺にぶっかけて食べるのが、最近の彼の密かな愉しみとなっていた。
ズズズ、と音を立てて麺をすする。口の中に広がる、麺の力強いコシと、小麦の豊かな風味。
そして、ショーユの持つ、香ばしくも深みのある塩味が、その全てを一つにまとめ上げる。シンプルながらも、奥深い味わいに、子爵は至福の表情を浮かべた。
トムは、そんな子爵の様子を、少し困ったような顔で見つめていた。
「あー、あの、おっさん。金貨とか、困るんですけど? 銅貨一枚でいいので?」
トムは、子爵が麺を食べ終えるたびに、いつも金貨を差し出そうとするので、それを断るのに一苦労だった。製麺工場の設立費用は全てラルフが持っているし、給料も十分にもらっている。銅貨一枚でも十分に高い対価だ。
「いいから、とっておきなさい」
子爵は、トムの言葉を聞いているのかいないのか、気にすることなく金貨を差し出した。彼の金銭感覚は、もはや貧民のそれとはかけ離れている。
「はぁ……」
トムは、諦めたように金貨を受け取った。これもまた、ラルフに言いつけられた「工場長」としての、ある種の務めなのかもしれない。
しかし、この麺をこれほどまでに喜んでくれる貴族がいる、という事実は、トムにとって何よりの励みになっていた。
昼間は製麺工場で「試食」という名の麺の愉しみを満喫し、夜になれば、居酒屋領主館へと繰り出す。
それが、最近のグレン子爵の日課となっていた。
今晩は、フレーバービールと共に、やはり餃子を。そして、居酒屋領主館のもう一つの傑作「チャーハン」を食べるつもりだ。米と卵、そして様々な具材が魔法の如く融合し、香ばしい香りを放つあの料理。
子爵は、今日もまた、領主館へと続く道を足早に進んだ。彼の心の中には、新たな食への期待と、そして誰にも邪魔されない、密やかな愉しみが満ち溢れていた。
この"居酒屋領主館"が、この領地だけでなく、この世界にもたらす変化は、まだ始まったばかりだ。そして、その変化の最前線に、グレン子爵もまた、一人の客として身を置いていることを、彼は誰よりも深く、そして密かに感じていた。




