157.午後の海風
ロートシュタインの港町は、今日もまた、穏やかな時の流れの中にあった。容赦なく降り注ぐ夏の太陽が海面を煌めかせ、寄せては返す波の音が、絶え間なく鼓膜を優しく撫でる。遠くから聞こえる子供たちの楽しげな声が、気怠い午後の空気に溶け込み、巨大なヤマネコは桟橋の片隅で大きなあくびを一つ。
のんびりとした空気に満ちた港には、時折、海鳥の甲高い鳴き声が響き、柔らかな海風が頬をそっと撫でていく。
その桟橋から、等間隔に釣り糸を垂らす四つの影があった。
左から、この地の領主、ラルフ・ドーソン。その隣には、共和国参事会議員のティボー。さらに隣は、自称ブラドおじさんこと国王陛下。そして、最後は無表情の魔導士にしてテイマー、ヴィヴィアンだ。
奇妙な光景だった。皆、お揃いの麦わら帽子を深く被り、顔にかかる日差しを避けている。
本来ならば、彼らがこのような場所でのんびりと魚釣りに興じていること自体が異常事態だ。誰もが国の重鎮か、あるいは類稀なる魔導士。彼らの多忙な日常を考えれば、この優雅なひと時はあまりにも場違いに思えた。
「ティボーさん、あのぉ、ちょっと聞きづらいんですけど、……いつまでいるんすかねぇ?」
ラルフが、竿先を見つめたまま、遠慮がちに問いかけた。彼の視線の先には、共和国の将来を左右する重責を担うはずの男がいる。
「むっ? いつまでって、いつまでも、だが?」
ティボーは、当然のこととばかりに、何でもない風を装って答えた。その言葉に、ラルフは思わず額に手を当てる。
「いや! あなた、共和国の参事会議員なんでしょ?! 仕事は?!」
ラルフの問いに、ティボーは胸を張って、得意げに言葉を続けた。
「自分はロートシュタイン駐在として立候補してな! 他の議員連中も名乗りを上げていたが、自分は議員報酬を大幅に下げて構わないから、と。押し切ってやったぞ!」
その自慢げな言葉に、ラルフは呆れを通り越し、もはや脱力するしかなかった。
「いや、あの。ロートシュタイン駐在って、おかしいよね? ここ、地方都市だからね? 普通は、王都駐在じゃないの? ……まあ、その地方都市に国王様が入り浸ってのもおかしいんだけどね?」
ラルフの言葉が、すぐ隣にいる"国王様"の耳に届いたのだろう。ヴラドおじさんは、わざとらしく「うぉっほん!」と咳払いをして、不自然にそっぽを向いた。彼の顔には、微かな焦りの色が浮かんでいるようにも見えた。
ロートシュタイン祭という一大イベントが終わってからというもの、街全体がどこかぼんやりとして、祭りの名残惜しさが人々の間に漂っている。それは、まるで熱狂の余韻が冷めやらず、日常へと戻るのを拒んでいるかのようだった。
「で、ヴィヴィアン。君って、釣りとか、好きだったっけ?」
ラルフは、かつての同級生であるテイマー魔導士に声をかけた。ヴィヴィアンは無表情のまま、わずかに視線を泳がせる。
「食料調達だ……ちょっと、色々と調子に乗って使い過ぎてしまった……」
言い淀む彼女の言葉に、ラルフは「はぁ」と盛大なため息をついた。宮廷魔導士という職にせっかく就けたというのに、一体何をやっているのだろう、と呆れてしまう。この魔導士は超絶美人なのに、どうにも昔からこのような残念な部分がある。高身長で無口なクール系美人。人は見かけによらない、という言葉があるが、彼女の場合、それは残念な方に適用されるのだ。
その時、静寂を破るように、ティボーの竿が大きくしなった。
「おっ! きたきた!」
歓声を上げて竿先を引き上げると、釣り上がったのは手のひらサイズの可愛らしいカサゴだった。陽光を受けてきらきらと輝く鱗が、生命の躍動を物語る。
「ドーソン公爵! どうだ! これはどう料理するのがいいかね?」
ティボーは子供のように目を輝かせ、ラルフに尋ねてくる。その純粋な喜びは、彼がどれほどこのひと時を楽しんでいるかを物語っていた。
「唐揚げにして、甘酢餡掛けにでもしてみますか」
ラルフのその言葉だけで、その場にいた三人が三人とも、思わずゴクリと唾を飲み込んだ。ラルフの料理の腕前は、彼らがロートシュタインに居座る大きな理由の一つでもある。
「そりゃあ楽しみだ!」
ティボーは、海水で満たした桶の中に釣れたカサゴをそっと入れた。その丁寧な手つきからも、獲物に対する敬意と、食への期待が窺える。
その後の釣果は、それぞれが満足のいくものだった。ラルフもサバや石鯛を釣り上げ、ヴラドおじさんは彼らしい豪快さで、両手で抱えるほどの大きなスズキを釣り上げた。ヴィヴィアンもまた、なかなかの型のアジを三匹。どうせ、夜になればその釣果を手に居酒屋領主館に現れ、ラルフに料理してもらう気満々なのだろう。その光景が目に浮かび、ラルフは苦笑いを浮かべた。
「なあ、ラルフよ。よくよく見てみると、あそこに島が見えるようだが?」
ヴラドおじさんが目を細め、遥か沖合いを指差した。真夏の蜃気楼のようにおぼろげに浮かぶ影に、好奇心が刺激されたのだろう。
「あー、……あれは、島というか。岩ですね。一応、ロートシュタイン領に含まれてはいますが……」
ラルフは、その岩島について説明を始めた。
「あそこを再開発して、人が住めるようにはしないのか?」
国王からの問いに、ラルフは少し困った顔をする。
「うーん……。難しいんじゃないですか? 確かにそこそこの広さはあるんですが。ただの岩ですよ?」
「行ったことはあるのか?」
意外にも、無表情なヴィヴィアンが興味深そうに尋ねてきた。彼女の目が、微かに輝いているように見えたのは気のせいだろうか。
「いや、ない。だけど、父が領主だった頃に行われた測量の記録を見たことがある」
「再開発できるならしておいた方が良いのではないですか? これからも、ロートシュタイン領に移住したいって人々が増えそうな気がしますけどねぇ」
ティボーが、まるで予言者のように不吉なことを言い出した。彼の言葉には妙な説得力があった。確かに、あのロートシュタイン祭の影響は計り知れないだろう。各国から招かれた客人が持ち帰る土産話は、まさに世界中に拡散され、ロートシュタインの名は瞬く間に知れ渡るに違いない。そうなれば、この地に魅せられ、移住を希望する者が続出してもおかしくはない。
「いやぁ、本当に岩場しかないんですよ。木も草もないらしいです。……それに、一番の問題なのが、水です。真水が湧いていない」
ラルフは、その岩礁が抱える根本的な問題を指摘した。生命の源である水がなければ、そこでの生活は不可能に等しい。
「お得意の、魔法でなんとかできんのか?」
ヴラドおじさんこと国王様が、またしても無茶振りを言い放つ。その言葉に、ラルフの脳裏には様々な魔法的な解決策が閃いた。
(できない…………ことは、ない)
その言葉を、ラルフは懸命に飲み込んだ。確かに手段を選ばなければ、いくらでも方法は考え付くだろう。しかし、それは、とんんんんんんんんんんんんんんんんでもなく! めんどくさい……。
「まあ、そん時はそん時で、何か考えますよ」
ラルフは、ひとまずその場を濁すことにした。すると、国王様がとんでもないことを言い出した。
「試しに、行ってみんか?」
「えーっ……」
ラルフは、心底めんどくさそうな顔をした。休日の釣りを楽しんでいる最中に、わざわざ岩島まで探検に出かけるなど、彼の辞書にはない。
「面白そうではないか!」
しかし、ティボーがそれに賛同した。その瞳は、まるで冒険を夢見る少年のように輝いている。
(子供か……)
ラルフは心の中で突っ込んでおく。だが、彼らの反応はそれだけではなかった。
それに対して、無表情美人テイマーのヴィヴィアンが、意外にも乗り気な様子で口を開いた。
「確かに、面白そうだ」
美味しそうだから、面白そうだから。その単純明快な行動原理は、まさにロートシュタインならではの気風に、彼らが毒されつつある証拠なのかもしれない。ラルフは、ふとそんな心配さえ覚えた。
地元の漁師に交渉してみたら、金貨三枚で、すぐにでも船を出してくれるという。漁師は金貨を手に取り、飛び上がって喜んでいた。四人はぞろぞろと船に乗り込む。
(あれ?! そういえば、国王様、護衛とか、従者は?!)
ラルフは今更になって気づいた。国王が護衛もつけずにこんな無防備な状態で行動しているのは、あまりにも危機意識がなさすぎる。だが、王国最強の魔導士であるラルフが一緒ならば、実はこれほど安全なことはない。国王は、ラルフを護衛として信頼しきっているのだろう。
岩島に向かいがてら、国王様は船尾から疑似餌を海面に垂らし、トローリングを楽しんでいた。途中で、両手を広げるほどの大きさのシイラに似た魚が掛かって大はしゃぎだ。その無邪気な姿は、とても一国の王とは思えない。
さらに漁師の話によると、あの岩島はちょうど海流が当たる位置にあり、大物が掛かりやすいとのことだった。それを聞いたティボーと国王、そしてヴィヴィアンの三人は、にわかに釣り竿を握りしめ、目をギラつかせた。大物を釣り上げるチャンスに、彼らの狩猟本能が刺激されたのだろう。
波に揺られ、柔らかな海風に吹かれ、ウミネコの声を聞きながら、船はレジャー気分で進み、やがて目的の岩島に辿り着いた。どうやら、船をつけられるような場所は一箇所しかないとのことだ。そこから、ごつごつとした岩場を登り始める一行。足場は不安定で、時折、波しぶきが舞い上がり、彼らの頬を濡らした。
「本当に何もないのだなぁ」
ティボーが、辺りを見回しながら呟く。彼の視線の先には、岩と、無数の海鳥の姿しかない。
「岩と、海鳥だけだな……」
国王様も、どこか感嘆したように呟いた。そこに広がるのは、自然のままの、荒々しくも美しい風景だ。
ラルフがヴィヴィアンを見ると、彼女はすぐそこで羽を休めている、白くてどこか間抜け面な海鳥をじっと見つめていた。テイマーであり魔獣生態学者でもある彼女は、動物が好きなのだろう……。ラルフはそう思った。思ったのだが……。
(まさか!)
嫌な予感がラルフの背筋を駆け上がった。
「ヴィヴィアン……、美味しそうだ、なんて思ってないよね?」
ラルフの問いに、ヴィヴィアンはびくりと肩を震わせた。そして、顔を真っ赤にして、激しく否定した。
「えっ?! あっ! いや! 太くて、良い手羽先だなぁ、なんて、そんなこと全然考えてないぞ!」
その言葉を聞き、ラルフは盛大にため息をつく。やはり、彼の予想は当たっていたようだ。




