153.フライ、ハイ!
海が、まるで心を呑まれたように静まり返っていた。押し寄せる波は、この日ばかりは自らの音を小さくし、祈りの場を汚すまいとでも言わんばかりに穏やかだ。砂浜には、王族たちの天幕が張られ、国王ウラデュウス・フォン・バランタインを筆頭に、各国の使節、聖教国の神官たちまでもが見守っている。最前列には、この地を治める男――ロートシュタイン公爵ラルフ・ドーソン。陽光を反射する白銀の魔導士の正装のまま、彼は凛然たる顔で立ち尽くしていた。
そして、その視線の先、血の香を孕む潮風の中に、二柱の"神話"が横たわっている。
一体は、海竜ア・ベイラ――その身は珊瑚のように赤黒く、頭部の複数の突起は見ようによっては冠をいただいているようで、まるで潮の女神の使いのようだ。
もう一体は、空竜、蒼角牙竜、
個体名:ドレッドノート――白曜石の鱗を纏い、翼をひとたび広げれば街すら覆うと言われる、暴風の主。
この神々しき肉体に、ただ一人――包丁を振るう者がいる。
白の式衣に身を包み、胸元に光るのは宮廷料理人の紋章。両肩に金糸で縫い込まれた「銀刃」の文字。宮廷料理長、サルヴァドル・バイゼルである。
「……静まれ、風よ。静まれ、波よ」
砂浜の中心に立つ男は、ゆるやかに手を合わせ、空を仰いだ。その唇から、古語で綴られた祈りが流れ出す。
「我、銀刃を捧ぐ者なり。いまここに命を裁き、命を饗す。食となりし魂よ、昇れ。神と民とを繋ぐ糧たれ」
祭壇の横にいた神官たちが、一斉に頭を垂れる。やがてサルヴァドルは静かに、腰の鞘を抜いた。
刃が、閃光を裂く――。
観客たちの目が眩む。彼の手には、ラルフと魔剣技師のトニスの合作包丁。《マゴロク閃光包丁》が、焔のごとく握られていた。
「第一式――祈刃の構え」
サルヴァドルは静かに片膝をつき、刃を天へ。風が止む。空が、まるで息を呑む。
「第二式――香風の舞」
一歩、前へ。刃を翻し、空へ舞わせる。その弧は、美術のように優美でありながら、鋭さは死を孕んでいた。空気が裂け、竜の体内の香りすら読み取られる。
「第三式――鱗返し」
ギィンッ――!
海竜ア・ベイラの鱗が、風鈴のような音を立てて剥がれ落ちた。たった一太刀。観客たちは、見た瞬間にはすでに斬られていたことを理解できず、数秒後にようやく声を上げた。
「……! いま、斬ったのか!?」
「見えなかった……いや、光っただけだ!」
それでも、剣舞は止まらない。サルヴァドルの身体はすでに舞台のように舞っていた。
「第四式――血脈の線」
「第五式――五臓の亘り」
「第六式――魂抜きの突き」
空竜ドレッドノートの胸を一閃。刃が吸い込まれるように滑り込み、次の瞬間、空へ向かって、透明な咆哮が響いた。それはまるで竜の魂が、天高く昇ったかのようだった。
「――第七式。献饌の構え」
彼は包丁をまな板へと静かに置き、両手をその上に添え、一礼した。
沈黙。
風が戻った。波が音を立てた。
誰よりも早く立ち上がったのは、国王ウラデュウスだった。
「――見事だ、バイゼル。まさに、神への供物だ」
その言葉を皮切りに、万雷の拍手と歓声が砂浜を覆った。
弟子たちが涙を流す。観客たちが呆然と立ち尽くす。サルヴァドルは何も言わず、刃を布で包む。ふと顔を上げると、ラルフ・ドーソンが立っていた。
「お疲れ様っす! サルヴァドルさん」
「ふっ、ラルフ様。どうだったかな? 私の"銀刃奉饌の儀"は?」
サルヴァドルは微笑む。
「いやぁ、なんか、……カッコよかった! なんというか、やっとこさ、本格ファンタジーっぽいなぁ、って思った!」
「ええぇ?! なんですかそれぇ? 褒めてるんですかぁ?!」
この若き領主は時々こうしてわけのわからない言葉を発する。サルヴァドルもいい加減慣れたいところではあるが、本当に理解に苦しむ発言が多くて困る。
「サルヴァドルさんの出番は、これでおしまいなの?」
「あとは、弟子たちと冒険者ギルドの解体の専門家に任せるさ」
そう言って、サルヴァドルは立ち上がる。
二体の伝説は、あれよあれよと言う間に解体されていく。そして、その場で競りが始まる。これこそが、このロートシュタイン祭のメインイベントと言っても過言ではない。王族たち、共和国の議員たちも、東大陸の大店たちも、聖教国の司祭たちも、この超高級食材のために大金を懐に忍ばせてこの祭に参加したのだ。
「ア・ベイラの肝だぁ!」
「金貨百枚!」
「こっちは千枚だぁ!」
「三千枚!」
目も眩むような大金が飛び交う。サルヴァドルも、どうにか竜肉を手に入れたかった。料理人として、幻の食材を調理してみたいという純粋な欲望には抗えない。そういえば、料理の革命児であるラルフ・ドーソンなら、竜肉をどう調理するのだろうか? と興味が湧いた。この競りはロートシュタイン領と王族が共同主催だ。なら、彼は自分の分の竜肉をすでに確保しているのかもしれない。彼もまた、一介の料理人であるなら、この食材を使い、伝説の一品を作り出したいと思っているはずだ。
なので、サルヴァドルはラルフに質問した。
「ラルフ様は、竜肉を使って、どんな料理を作る気でいるのですか?」
「えっ?! 竜肉? 僕はいらないよ」
その声は、何故か喧騒の中の隙間を縫うように、人々の耳に突き抜けてしまった。
「……え、は? 竜肉ですよ! 伝説の食材なのですよ?!」
サルヴァドルは信じられない表情を浮かべる。
「いや、だって。超高級食材なんでしょ? なら貴族の皆様でどうぞ! ……ウチ、居酒屋だからさ。……そんな高いの、ウチの客には出せないかなぁ」
その言葉を聞いた全員が、目を見開き、沈黙した。ラルフは魔導士のローブを風に靡かせながら、歩き出す。そして、
「おお! メリッサ。 こんな所でどうしたの。ほう、漁に出てたの? ん? あっ! アジだ! それもこんな大量に?! うわー! スゲェ! 僕にも売ってくれる?」
海賊公社の船から、アジなる魚を大量に買い付けるラルフ。
幻の食材、竜肉を無視してだ……。
ラルフが去っていった後、各国の重鎮たちは、
「わ……、儂にも! そのアジとやらを売ってくれぇ!」
「ちょっと待て! 抜け駆けはよせ! それはこの私がぁ!!」
「待て! 待たんかぁ! 競りをやれ! 競りだぁ!」
と海賊公社に群がった。革新的美食の伝道師と名高い、あのラルフ・ドーソンが、
"竜肉よりも美味いと言った魚"。という、ちょっとした勘違いが蔓延してしまったのだ。
「おい! そこの漁民! それもアジではないのか?! それも競りに出せ!」
と、地元漁師たちも、その騒動に巻き込まれ、何故か大金を手にしてしまった。
「これから漁に出る船はいないのか?! 私が出資するぞー!」
と、漁船のパトロンを名乗り出る東大陸の王族まで現れ始めた。
そして二頭の竜族が、骨すらも残さず競り落とされ、各国の重鎮たちが目を血走らせながらそれぞれ漁船に乗り込み、アジ漁に沖合に向かう頃。
ラルフは、心底嬉しそうな顔で、居酒屋領主館の厨房で、パン粉をまぶしたアジを熱した油に投入しようとしていたのだった。




