147.フルスピードの人生
漆黒のボディが夜の闇に溶け込み、流線形の車体が月明かりを反射する。第三王子ミハエルは、愛車ネクサス2を駆り、深夜の街道を疾走していた。それは、いつかの王都の記念式典で、同級生ラルフ・ドーソンから祭りくじの景品として贈られた、まさしく運命の出会いだった。
「くっ!」
僅かな路面のギャップにハンドルが揺れ、タイヤが甲高いスキール音を響かせる。ギアをトップからオーバートップへ。しかし、五速ホールドではトルクが乗らず、加速が鈍るのが感じられた。夜の街道を照らすのは、魔石灯の淡い蒼光と、ネクサス2の光導ラインだけ。ロートシュタインの喧騒は遠く、周囲には石の防壁と魔物避けの結界が静かに脈打っていた。
ミハエル王子は、ネクサス2の魔力供給ラインを安定させると、再び静かにアクセルペダルを踏み込んだ。トルクスコープに浮かぶ数値が、ゆっくりと、だが確実に上昇していく。
「……また、トルクが薄い。五速のままじゃ、やはり魔導圧が乗りきらないな」
ギアスレッド表示は現在五速。しかし、魔導圧回転値(Revolus Arcanum、通称R.A.)は2200前後にとどまり、どうにもトルクバンドの下限を這うような加速しか得られない。
「やっぱりこの4.8:1のファイナルじゃ、ハイランド坂の立ち上がりがダメだ。4.6に戻すべきか……それとも魔力制御系に微調整を?」
彼はダッシュパネルに触れ、魔導変速機のセッティングを再表示させた。
ネクサス2は、ラルフ・ドーソンの前世の知識を応用した、異端の車体だった。トランスアーケン比率、トルク変換係数、エンチャント圧縮率……正直、ミハエルには何を意味するのか皆目見当もつかなかった。だが、魔導車という途轍もなく魅力的な存在との出会いは、彼を変えた。王都の凄腕魔道具職人に教えを請い、研究を重ねた。しかし、ある日、ラルフ・ドーソンから衝撃の一言を言われたのだ。
「まあ、車趣味ってのは、金がかかるからなぁ。ミハエルは王族だから、その点は心配ないだろうけども」
王族だから? 金があれば? それで速くなるのがすべてなのか?
確かに。それが残酷な真実だった。王族である自分に比べ、魔導車をやっとの思いで購入した庶民は、ミハエルのネクサス2に勝てない。それは、金があるかないかの差だ。ならば! とミハエルは自ら商売を始めた。魔導車のカスタムショップだ。王家からの援助は一切受けず、自分の知識とスキルのみで金を稼ぎ、この愛車にすべてを注ぎ込んできた。これでフェアだ。王族とかどうとか、もう関係ない。
だが今、壁に当たっていた。
「五速のまま、2500からトルクが乗り始める設定なのに……街中じゃそこまで回す間がない。シフトダウンすべきなのか?」
悩ましいのは、《アーケンギア》がギア比固定式だという点だ。人間の意志や魔力流量に合わせて無段階変速できる《エルム=フロー式》とは違い、こちらはラルフの前世の5MT構造を模した、段付き変速機。それゆえ、魔導圧が落ちすぎると立ち上がりが鈍く、逆にショート過ぎると魔力飽和によるトラクションブレイクが起きる。
「やっぱり……五速じゃなくて、四速を引っ張るべきか。けど、そうするとハイエンドでレブリミットに引っかかる……」
ミハエルは魔導圧回転の上限——魔導リミットを思い出す。今のセッティングだと、四速で引っ張ったまま魔力転位点に達してしまい、エネルギーが弾け飛ぶ。
「だったら、魔導圧制御リングを0.05シルト分だけ緩めて、トルクピークを2400に前倒し……」
指先が動く。だが彼は、すぐに手を止めた。
「いや、それじゃ魔石炉に負荷がかかりすぎる。冷却陣が持たない……っ」
深夜の魔導街道に、ネクサス2のエンジンが小さく唸った。静寂の中、ただ魔導圧の波と、王子の思考だけが交錯する。
「ギアレシオをいじるか、トルクカーブを変えるか……どっちかで済む話じゃない」
明日のレースは、ロートシュタインの街中を封鎖して行われる。クイックなコーナーもあれば、目抜き通りのストレートもある。
「……だったら、五速のレシオそのものを、いじるしかない。現地調整じゃ限界だ。ガレージに戻って……ギアレシオを再設計するしかないな」
疲れた瞳に、薄く笑みが浮かんだ。
競馬場の駐車場にネクサス2を停め、魔導エンジンを切り、運転席にもたれかかる。人々の喧騒は遠く、虫の声と、星々の輝きだけが、ミハエルに降り注ぐ。
するとそこへ、ブォォォン! と魔導エンジンの唸りを上げ、魔導車:ロードスターが、ミハエルのネクサス2の隣に停車した。ミハエルは、そのドライバーが誰なのか、もう分かっていた。ふと、隣の魔導車の運転席を見やると、かつての同級生、ラルフ・ドーソンが問うてきた。
「おい、別れの言葉はなしか?」
「えっ?! 別れ? はっ? どういうこと?」
ミハエルは戸惑う。このラルフ・ドーソンという魔導士は、時々こうしてわけのわからない事を言い出す。
「いや! 気にするな! 言ってみたかっただけだ! ほらよ!」
ラルフは包みをミハエルに放り投げてきた。それは、屋台で売っていたであろうホットドッグだった。
「確かに、腹が減ってたかもな」
ミハエルは嬉しくなった。
「飲み物は何がいい? 色々積んで来たぞ。ジンジャーエールに、オレンジジュース、ウーロン茶。アルコールは無いけどな!」
ミハエルは思う。フルスピードで走る人生を、教えてくれたのは、まさにラルフだった。学園の頃は、一緒に学園長のカツラを吹き飛ばし、共に懲罰を受けたこともある。同級生たちで屋台を経営し、小遣い稼ぎもした。後でバレてこっぴどく叱られた。
そのような青春を過ごした、盟友。いや、だから、お前は、兄弟だった。お前も同じだったから。
「ラルフ、僕、ウーロンな!」
感極まって、涙を隠しながらミハエルは叫んだ。
「うん。でさ。お前の騒音に対する苦情がきてるから。ここで予行練習するの、もうやめてな……」
と、領主としての堅実な実務をしにきた貴族としての顔を急に見せるラルフに、ミハエルはなんだか恥ずかしくなってしまった。




