138.祭のはじまり
共和国の参事会議員、ディボーは、ロートシュタインの喧騒に巻き込まれ、従者や鞄持ちの部下たちと逸れてしまった。
「うっ、この。あっ! すまない……。って、なんなんだ、この人混みは?!」
ここは王国の辺境、若き大魔導士が統治する領地、ロートシュタイン。
共和国の代表の一人として、この地で行われる祭りに参加せよ、という議長からの命令を受けて、王都入りしたのが三日前。
そこから馬車でロートシュタインに入る手筈だったが、街道はまさかの大渋滞。しかし、ロートシュタインの領兵が現れ、馬車で行くより歩いた方が早いと言われ、なんとマジックバッグを渡されたのだ。ディボー一行は、半信半疑ながらも馬車をマジックバッグにしまい、街道を歩き出した。
すると、街道には魅惑的な匂いを立ち上らせる未知の料理を提供する屋台がずらりと並び、あっちへこっちへと目を奪われているうちに、全員と逸れてしまった。そして、ディボーは一人でロートシュタインの街へと入領を果たしてしまったのだ。
(どういうことなのだ?! こちらは来賓だぞ! 何故迎えの一つも寄越さないのだ?!)
顔も知らぬ異国の若き領主に、ディボーは心の中で激しく文句を言った。ロートシュタインの街に入ってからが、さらに凄まじかった。そこら中に、人、人、人……。もはや袖擦り合わずに歩くことすら不可能なほどだ。
(こういう場所では、スリが横行するはず)
ディボーは財布を懐に固く守ってみたが、そのうちに、その必要がないことに気がついた。流民や浮浪者が、いない?
道端には、貴族と冒険者と思しき男が座り込んで酒を酌み交わし、楽しげに語らっている。屋台の前の小さなテーブルでは、獣人族とヒト族が唾を飛ばし合いながら大笑いしている。そして、明らかに先の大戦を逃れてきた移民と思われる人々が、朗らかな声で屋台の呼び込みをやっていた。
(な、なんだ。ここは? 種族や階級や人種など関係ない、まるで闇鍋ではないか?)
いつしかディボーは、人々の波に流されるようにして中央広場へとたどり着いていた。
ここは、さらに雑多な人々の坩堝だった。皆、酒を飲み、歌い踊る者もいる。貴族と思われる男が上半身裸になり、獣人の女性とくるくると回る謎の踊りを披露している。その周囲で馬鹿笑いをしているのは、もはや貴族だとか冒険者だとか獣人だとか移民だとか、そんな区別は関係ない。誰も彼もが、等しくバカになっていた。
「ちょっと! お前さん、何も持ってないじゃない! せっかくの祭りだよ? ちゃんと飲みなよ!」
と、太った御婦人が、笑顔でエールジョッキを差し出してきた。
「えっ、あ、ああ」
戸惑いながら懐から財布を取り出そうとしているうちに、御婦人の姿は人混みに消えてしまった。
「えっ! あっ! おい! 金を、金を!」
見渡せど見渡せど、人混みばかり。ジョッキを手に立ち尽くすディボー。
(飲んで良いのだろうか?)
まあ、また後で見つけたら金を払おう。そう思い直し、彼はそのエールと思われる酒を一口、グビリと飲んだ。
(えっ! はっ! ナニコレ! 冷た! えっ、美味っ!!)
それは、ラルフと彼の同級生のアルフレッドが開発したフレーバービールだ。このロートシュタイン発祥の、王国の名物となりつつあるこの飲み物は、ディボーにとって衝撃の体験だった。爽やかな甘みが口いっぱいに広がり、心地よい清涼感が喉を潤す。
するとそこへ、一人の小さな少女が近づいてきた。
「オジサン! これ、うちの屋台のメニューなんだ。良かったら食べてみてよ! 川海老のトルティーヤ巻き!」
突然手渡された料理に戸惑う。トルティーヤ? 見慣れない、薄く焼かれたパンのようなものが、何重にも巻かれている。その時、ディボーの腹がグーと鳴った。
「あ! これは、その、いくら……」
慌てて財布を漁るが、少女はすでに「じゃねー!」と、元気よく人混みの中に去っていく。
(はっ?! 金を取れよ!)
ディボーは呆然としながらも、その料理を一口頬張った。
美味ぁぁぁぁぁ! なんだこれ? なんだこれ?!
おそらく、極限まで薄く焼かれたパンに巻かれた、ぷりぷりの海老とシャキシャキの野菜。そこに絡みつく、赤いソースと白いソースの絶妙なハーモニー。そして、フレーバービールをもう一口、グビリと飲む。至高! まさに至高! 未知なる美味が、彼の五感を満たしていく。
それらを堪能していたら、あっという間にジョッキの中の酒を飲み干してしまった。どこかの屋台でこれと同じ物を売ってはいないかとキョロキョロ見渡していると、
「おい! そこの貴族さんよぉ! 酒が空じゃねーか?! ほらよ!」
と、ガラの悪そうな冒険者が、豪快にピッチャーからエールを注いでくれた。
「あ、ああ。感謝する。……その、それで、いかほど?」
「じゃあ、ロートシュタイン祭、楽しんでってなぁ!」
とその男もまた、人混みに消えていった。
もうわけがわからない。しかし、そのエールを一口飲んでみると。
ん?!!!
さっきの物とは味が違う! こちらは、清涼感と甘さが増していて、甲乙つけがたいほどの美味だ。
するとまたもや、
「そこの人、あたしのカレーパン食べてみなさい」
金髪の巻き髪の少女、おそらく王国の貴族令嬢。彼女が、差し出してきた未知なるパンを頬張る。刹那、突き抜けるスパイスの電撃が、脳髄を駆け巡った。
「うぐぅぅう! かはっ! なんなのだ?! これは!」
「ふっ、気に入ったなら。あたしの屋台に一票入れなさいな! 屋台コンテストで、あたしのカレーが最強だと証明してやるのよ!」
という、謎の野望を呟きながら彼女もまた人混みに紛れ、消えていった。
(いや! どうでもいいが、金を払わせろよ!)
ディボーは半ばパニックだ。これまでの常識が、音を立てて崩れていく。
そして、日が沈み、中央広場には身動きができないほどの人々が集まった時。街中の灯りが一斉に消え、周囲は暗転した。
「うわっ!」
「きゃー!」
「はじまるぞー!」
「うぉー! ロートシュタイン、最高!」
暗闇の中、群衆のボルテージは最高潮に達していた。その熱気に包まれ、ディボーは、これからはじまる未知の祭りに、胸がどうしようもなく高鳴っていくのを感じた。彼の顔には、さっきまでの困惑は消え失せ、純粋な期待と興奮が浮かんでいた。




