137.はじまりの時の静かな窓
領主ラルフ・ドーソンは執務室の椅子に腰掛け、静かに目を閉じていた。何かを待つように、深い思慮に沈む、静かな午後の始まりだった。
ラルフはひとり、深く思い悩む。なぜ、こんなにも大袈裟なことになってしまったのだろう、と。
思えば、海の冒険者クラン「シャーク・ハンターズ」の立ち上げと、商業ギルドの移転がすべての始まりだった。何か祭りをしなければ、という謎の焦燥感と、「どうせみんな、いつもの感じだと満足しなくね?」という、保身なのかサービス精神なのか判別できないような勢いに任せて行動してしまったのだ。その結果がこれだった。
実にシンプルだ。彼はやり過ぎた。単に、やり過ぎてしまったのだ、ラルフ・ドーソンは。しかし、後悔は先にも後にも立たず、もう開き直って腹を括るしかない。やるからには、もう徹底的にやるのだ!
そして、いよいよ今日、これからロートシュタイン祭が開幕する。各国から重鎮や王侯貴族が一堂に会し、この奇妙な領地、ロートシュタインの破天荒な祭りに参加することになる。ラルフは、はじまりとはいつもこのように静かなものなのだ。と、ふっと目を開いた。
「アンナ。すまないが、紅茶を一杯、淹れてくれないか?」
「はい。旦那様」
アンナの静かな返事の直後、いつものヒュー!と風を切る音が聞こえたかと思うと、今回は、ドッスーン! と、いつもよりはるかに大きな落下音が響いた。領主館全体が揺れるほどの衝撃に、ラルフは思わず身構えた。
「何? なんかアイツも、気合い入ってる?」
またいつものワイバーンのレッドフォードの献上品だろう。彼も祭を前にして浮かれているのかもしれない。そう思っていた矢先、アンナの声が、わずかな動揺を帯びて聞こえてきた。
「今日の献上品は、……あら? 竜族? ですかね?」
「はあぁぁぁぁ?!」
ラルフは慌てて立ち上がり、窓に駆け寄った。彼の目に飛び込んできたのは、芝生の上に横たわる、彼の図体の二倍はあろうかという大きさの、立派な緑色のドラゴンの死骸だった。レッドフォードはそれに足をかけ、勝ち誇ったかのように雄叫びを上げている。
「ギャオオオオオオ!」
「うわ! バカ! あのバカ! ヤベーって! なに三匹目のドラゴン調達してんだよ?! ヤバい、ヤバいって! 隠せ隠せ!!」
ラルフは慌てて庭に駆け出し、その巨大な獲物をマジックバッグに押し込んだ。それはまるで、特大のゴミを慌ててゴミ箱に押し込むような勢いだった。
「ふーっ」
額の汗を拭いながら、ラルフは大きく息をついた。今回の祭りのハイライトは、ラルフが狩ったドラゴン二頭の解体ショーと競りだ。まさかこの直前の段階になって三頭目のドラゴンをねじ込むなど、主催者としては無謀もいいところ。もちろん来場者としてはあればあるほど嬉しいだろうが、今からリスケジュールするなど、もはや不可能に近い。なので、隠蔽するに限る。レッドフォードは少し寂しそうな顔をしていたが、これには如何ともしがたい大人の事情があるのだ。そう、単なるラルフの面倒くさがりな精神性を、彼は大人の事情として、誤魔化したのだ。
とその時、
「りょ、領主さまー! 大変です!」
領兵が息を切らしながら駆けてきた。その顔は、焦りと困惑に満ちている。
「なんだい?! どうした? 三頭目のドラゴンなんて、ここにはないからな?!」
ラルフは反射的に、ついさっき隠蔽したばかりの獲物のことを口走ってしまった。
「へっ? ドラゴン?」
領兵はきょとんとした顔で首を傾げた。ラルフは、自らの失言に気づき、慌てて咳払いをする。
「う、ごほん! それで、どした?」
「そ、それが。街道が馬車と魔導車で大渋滞を起こしてまして」
「ま! そうなることは予想していた」
ラルフは、どこか得意げに胸を張った。
「ええっ! じゃぁ、どうしますか?」
領兵の焦りが募る。祭り開始まで時間はあまりない。
「はいこれ!」
ラルフは、大量の布袋を領兵に渡した。そのずっしりとした重さに、領兵は驚きを隠せない。
「え? あのぅ、これは?」
「えっ。マジックバッグだけど?」
「はぁ?! これ、全部がですか?」
領兵の目が見開かれた。マジックバッグといえば、冒険者や商人が喉から手が出るほど欲しがる高価な魔法のアイテムだ。商人ならば、その輸送力があれば一代で成り上がれるとまで言われている。それが、目の前に山のように積まれているのだ。
「この為に作っといたのよぉ。おかげで一日に八時間くらいしか寝てないからねぇ」
ラルフは欠伸をしながら言った。その言葉には、確かに疲労が滲んでいる。しかし、八時間……。
「こ、これ。いったい、いくらになるんです?」
領兵は震える声で尋ねた。その価値を想像するだけで、頭がくらくらする。
「さぁ? あんまり容量あるわけじゃないし。……とにかく。馬車を含めた大荷物抱えて来場する人達に、それ配って」
「タダで配るんですか?!」
「いいのいいの。とにかく、渋滞解消が先決。馬車ごとマジックバッグに収納して、徒歩で来てもらって」
「は、はぁ」
領兵は呆然としながらも、ラルフの指示に従うしかなかった。その発想は、常人の理解を遥かに超えていた。
「あと、大型観光魔導車は、街の外で引き回して来場者を降ろせ。足の遅い馬車が消えてくれるだけで運行速度が上がる。そんで、局地的な混雑を起こさない為に、今日だけは屋台を街中に散開させている。なにせ、ロートシュタインは食べ歩きの街だ。好き勝手に食べ歩き、広く分散して頂いて、オープニングセレモニーまでに全員を入領させるぞ」
アンナも領兵も、ラルフの一手先二手先を読む、恐ろしいほど大胆で画期的な先見の明に、気味悪くすら感じた。もしこれが戦争だったりしたら、その手腕は大局を覆すほどのものだろう。
「船はどうします?」
アンナはそう聞いた。今回の祭りには、東大陸からの来客もあるのだ。港が混雑する可能性は十分にある。
「もし港がパンクしそうな時は、沖合に停泊させて、来場者だけ海賊公社の小舟で上陸してもらう手筈になっている。心配するな」
ラルフの言葉に、さすがのアンナも目を丸くした。いつの間にかそんな手配まで済ませていたとは。
ラルフは前世では広告代理店勤務で、地方の街興しイベントなども手がけた記憶があるという。まさに"昔とった杵柄"というか、前世の経験が、この一大イベントを取り仕切る上で存分に活かされているのだった。
ロートシュタインの空には、祝福のような光が差し込み始めていた。
この世界の、前代未聞の祭が、ついに始まる。




