134.準備が一番楽しい説
水上離宮の広々とした窓から、きらめく湖面を眺めながら、国王ウラデュウス・フォン・バランタインは静かに呟いた。
「お前にも苦労かけるな」
隣に立つ宮廷料理人、サルヴァドル・バイゼルは、ふっと目を細め、この奇妙な水上都市の風景を見つめた。小舟が行き交い、湖上で開かれるマーケットの活気がここまで届く。貴族たちの優雅な遊覧船が水面を滑り、すべてが光に包まれているようだった。
「ふん! 何を言われますか。正直申しましてね、年甲斐もなく少々ワクワクしているんですよ」
サルヴァドルはそう答えた。この魅力的な観光地が、たった一人の大魔導士の、たった一発の爆裂魔法で生み出されたという話は、にわかには信じがたい。だが、ラルフ・ドーソンという男ならばあり得る、と彼はいつも思うのだ。領主であり、居酒屋経営者でもあり、投資家でもあるという、掴みどころのない若者。一体何がしたいのかは誰にもわからないが、人を振り回す才能に長け、奇妙な魅力を兼ね備えている。
「お前の出番はどうなるんだ?」
国王が尋ねた。
「フフフっ! 料理人にとって、まさかの夢のような話ですよ。ドラゴンを捌かせていただきます。私の名が歴史書に載りますな!」
サルヴァドルはニヤリと笑った。その表情は、美食への飽くなき探求心と、自らの名を残そうとする強い執念を物語っていた。
国王は苦笑いを浮かべる。叩き上げの人間が、自らの名を歴史に残すことに異常なまでに固執する習性があることを、彼はよく知っていた。
「あんな巨大なモノに、包丁が通るのか?」
「それはご心配なく。ラルフ・ドーソン公爵が、魔剣技師たちと特製の巨大包丁を造ってくれるそうで」
「包丁とか言ってるが、また完成してみたら、戦略兵器でしたぁ、なんてことにならんと良いがな」
国王はそう呟いた。よくよく考えれば、巨大な竜族を一刀両断できる包丁など、その時点で兵器なのではないか? とも思ったが、考えるのをやめた。ラルフのことだ、その想像の斜め上を行くものが出てくるに違いない。
その時、ヒュー! と風を切るような音が響いてきた。
「うわぁぁぁぁぁぁ! 違う違う、そうじゃ、そうじゃなーい!」
叫び声と共に、赤いワイバーンに跨ったラルフ・ドーソンが空から降ってきた。そして、ドッバーン! と派手な水飛沫を上げて湖面に激突した。舞い上がり、土砂降りの雨のように降り注ぐ水を浴びながら、国王とサルヴァドルはただ無表情でその光景を眺めていた。
「ぶはっ! レッドフォード! 違う! 水上着陸ってのはな! もっとこう、すぅーっと、しゃーっと水面を滑るようにやるんだよ!」
水面に顔を出したラルフが、彼のペットのワイバーンを叱り付ける。ラルフの頭の中にあったのは、前世で大好きだったアニメ映画の豚さんが赤い飛行艇で行っていた優雅な着水だったが、レッドフォードにはいまいち伝わっていなかったらしい。
「領主さまぁ! ちょっと困りますよ! マスの生け簀がめちゃくちゃだ! どうしてくれんですかい?!」
漁民が舟で寄ってきて、ラルフを怒鳴りつけた。ラルフはペコペコと頭を下げる。平民に本気で怒られて、平然と頭を下げる貴族などいるのだろうか? 普通ならばありえない光景だが、実際にここにいる。それがここロートシュタインの奇妙な魅力であり、日々の日常なのだ。
「いやぁ。まいったまいった」
そう言って、ラルフは濡れたまま離宮に上がってきた。
「濡れたまま上がってくるな! 誰かこのバカに拭くものを!」
国王が顔をしかめて叫んだ。
「あ。大丈夫っす」
ラルフはそう言って両手を広げ、自分の周囲に魔法でつむじ風を吹かせ、衣類と自分自身を乾燥させ始めた。呆れた目でそれを見ている国王とサルヴァドル。魔導士としての実力は凄まじいのだが、その使い方がラルフの場合、なんというか無駄というか、実用的ではあるのだが、いや、魔導士なら、もっとこう、あるだろ! と言いたくなる独創的なものばかりだった。
「で? 何しに来た?」
国王のラルフへの対応は、日を追うごとに雑になってゆく。
「実は、ロートシュタイン祭りで、宮廷楽団の皆さんをお借りできないかなぁ、と。そのご相談に」
「構わんぞ。むしろ、楽団長がノリノリでやってくるんじゃないか?」
国王の意外な言葉に、ラルフは目を丸くした。
「えっ? なんでまた?」
「彼も居酒屋領主館の常連だぞ。米酒とウナギの白焼きが大好物でな。五日に一回は食わないと、死ぬ! とかほざいている」
「おやまあ! あー! あの人か?! それは話が早そうだ!」
ラルフは手を叩いて喜んだ。
「我々王族のタイムスケジュールも早く提出しろよ! そろそろニコラウスの胃に穴があきそうだぞ」
国王は、宰相を気遣うように言った。しかし、その声には疲労がにじんでいる。
「それなら最高級ポーションも差し入れとこうかなぁ」
(ストレスで身体を壊しそうな人間に、錬金薬学で無理矢理回復させてさらに働かせるとか、悪魔か?!)
国王もサルヴァドルもそう思ったが、決して口にはしなかった。ラルフの思考回路は、彼らには理解不能なのだ。
「とにかく。楽団長には直接打診してみろ。細かいことはもうめんどくせーからテキトーにやれ! あとで額面やら書類上の処理やらは文官に丸投げすれば良い」
国王はとんでもないことを言っているが、もしかしたら彼もラルフ・ドーソンに悪い意味で影響を受けてしまっているのかもしれない。諦めと投げやりな感情が、その言葉には滲んでいた。
「ま、そういうことで! 僕はまだ忙しいのでね! これで失礼しますよ! よっしゃ! 来い! レッドフォード!」
ラルフは叫び、ピューイィ! と指笛を鳴らした。バサアッ! と強風を巻き起こし、レッドフォードの巨体が離宮の外に現れた。
そして、
「とう!」
ラルフはそう叫んで、魔法で身体強化したジャンプ力で、ワイバーンの背中に飛び乗った。
「じゃあ、そういうことで!」
彼は片手で敬礼すると、レッドフォードは巨大な翼をはためかせた。その瞬間、
「ちょっと待て! まだだって! ちゃんと合図してからだって、うわぁぁぁぁぁぁ!」
ラルフだけが落下し、再びドボーンと湖面に落下した。
「領主さまぁ! あんたいい加減にしろよ! 生け簀のマスが逃げちまうだろ?! どういうつもりなんでい?!」
平民にガチギレされている領主を、国王もサルヴァドルも無表情で見ていた。彼らは、もはやこの日常に慣れきっていた。ロートシュタインの祭りは、一体どうなることやら。




