127.かつての少年
セス・ヘンネフェルトは、はっと目を覚ました。いかんいかん、と首を振る。どうやら執務室で居眠りをしてしまっていたらしい。目の前には答案の束が山をなしている。
インクの匂いと、古びた紙の匂いが混じり合い、窓からは威勢の良い日差しが差し込んでいた。静寂の中、時計の針だけがコツコツと規則的な音を立てている。
「歳には勝てんな」
自嘲気味に呟き、凝り固まった肩を揉んだ。紙巻き煙草を取り出し、マッチを擦って火を灯す。一吸い。頭に残るぼんやりとした眠気と、もやもやと蓄積した疲労を吐き出すように、白い煙が天井にゆっくりと溶けていった。
なんだか、懐かしい夢を見ていた気がする。
故郷、ロートシュタインの景色だ。
あの若き領主様の、人懐っこい笑顔。騒がしい人々。夕日に輝く黄金色の稲穂。そして、あの居酒屋領主館の、食欲をそそる匂いと喧騒。
少し、疲れていたのだろう。今年で四十一歳を迎えるセスは、連日、学園で教鞭を取り、試験監督、そして山のような試験の採点に追われていた。それに加えて、教授会、学会、講演会、研究者同士の会合、果ては意味を成しているのかすら分からない会議の連続。多忙を極める日々だった。
机の上には、書簡が山と積まれている。先月、セスが投稿し魔導学術誌に掲載された論文、
『稲穂保護のための術式撒布型魔導薬の開発と実証──緑炎露の局所作用機構──』
に関する問い合わせの数々だ。
セスは、なんだか全てが面倒になり、それらをとりあえず無視することにした。
どうせほとんどが的外れな質問ばかりだろう。
“エーテル農業工学”の本質を何一つ分かっていない、名ばかりの権威や研究者たちの存在に、セスはうんざりしていた。
それに、明日から待ちに待った休暇なのだ。申請してもすんなりとはいかない。座り心地の良さそうな椅子に張り付き、意地でも動きたがらない長老どもに辞表をちらつかせて、やっともぎ取った貴重な長期休暇だ。
久しぶりの里帰りである。
王都のバス停は、いつもの喧騒に満ちていた。見上げると、“エリカ ゴールデン・カリー”の広告が、煌びやかな魔導ビジョンに映し出されている。なんだか、それを見ただけで嬉しくなってしまう。
バスを待つ間、カバンの中から一冊の本を取り出した。
タイトルは『マーサ ~モーターサイクル・ダイヤリーズ~』。著者、ヨハン・ウィルソン。
確か、ヨハンは今年のロートシュタイン文芸賞を逃し、代わりにその賞を獲得したのが、かつての同僚だったカイリーだった。話題をかっ攫われたのが気に食わないのか、ヨハンは王都の高級ホテルで、酒を飲んで泣き喚いていた。確実に受賞すると踏んで予約してしまった会場で、そのまま残念会が開かれ、招待されたセスもその会場でひたすら苦笑いするしかなかったことを思い出す。
バスに乗り込むと、セスはひたすらに本の中の物語に没頭した。
魔導二輪車“スクラバー”を手に入れた商業ギルドの受付嬢だったマーサが、運び屋として各地を駆け巡り、そこで出会う人々との数奇な縁を描いた作品に、セスは深く感情移入していく。
特に、共和国に吸収合併された小国の王子と出会い、その子を後部座席に乗せてロートシュタインへの旅路を進む場面では、涙をこらえるのに必死だった。
物語の中には、懐かしい人々が次々と登場する。農園で働くブロディ、ヴラドおじさんこと国王様、カレー大好き令嬢エリカさん、そして、偉大なる恩人、大魔道士ラルフ・ドーソン。
今も心には、あの頃の景色が、色と熱と、匂いとが、郷愁として鮮やかに湧き上がってくる。
気づけば、バスはロートシュタインの中央区を過ぎ、田園地帯へと入っていた。窓の外には、田植え機を操作する農民たちの姿が見える。青い空を映し出す水田には、可愛らしい稲が均等に立ち並び、その傍らで子供たちが元気に駆け回っていた。
やはり、ここが好きだ。
セスは心の中で呟いた。この光景を見る度に、心だけは三十年前に回帰していくようだ。
目的地のバス停で降り、歩き出す。確か、妻と子供たちは、朝一番のバスに乗り、もうセスの実家に着いているはずだった。
小高い丘を、思わず駆け抜けた。まるで、十歳の頃の気分だ。ここを越えれば、あの懐かしい風景が待っている。
そして、懐かしの我が家を見下ろした。あの頃に比べて、ずいぶん立派になった我が家。
セスの弟が株式会社を立ち上げ、米と野菜と果物の生産、流通、販売を一手に担う事業を始めたのが十年前。どうせ、かなり儲かっているのだろう。また新しく買った新型魔導車の自慢をされるのは目にみえている。そういうところは父譲りだから。
丘の上に立ち、セスはいっぱいにロートシュタインの匂いを吸い込んだ。この田植えの時期は、生命力を感じさせる、有機的な香りがする。湿った青草、幼心に感じた土、そして、何かが焦げたような……複雑で、しかし心を締め付けるような風が漂う。
そして、脳裏に思い浮かぶ。セスの隣で、一緒にこの景色を見下ろした、大好きな大魔道士の姿を。
彼は、いつも変わらず人懐っこい笑顔を浮かべながら、セスのそばにいてくれた。
あれから、何度か激しい動乱や戦争もあった。しかし、その度に、このロートシュタインは再び立ち上がってきた。
ここに住まう人々の逞しさと、図々しさ、そして、なんでも楽しんでしまう精神によって。
そして、その原動力は、ラルフ様が言ってくれたように、人々の腹を満たしてくれる美味しい食事と、その根幹を担う第一次産業だったのだ。セスは、その最前線にこの身を捧げていることに、誇らしさを感じていた。
しかし。セスには、ずっと引っかかっている言葉があった。いつか、ラルフ様が言ってくれた言葉。
「人々が元気に働いて、何にも気にせず遊んでいるうちは。誰もがみんな勝手に腹が減る。腹が減ったらメシを食う。……ロートシュタインは大丈夫さ」
人々が元気に働いて、何も気にせずに遊んでいるうちは……。
そう、いつからか気づいた。
あの時のラルフ様の言葉は、
まるで、
"そうではなくなってしまった世界を、見てきた" かのようだった?
分からない。しかし、今、見下ろす農園では子供たちが駆け回り、少し腰が曲がって小さく見える両親も、まだまだ元気に苗を運んでいた。
「父ちゃん! 母ちゃん! ただいまぁ!」
セスは丘を駆け下りる。
風が吹く。
また豊かな実りを約束する、初夏の風が。




