124.領主館に通う少年
セスは麦わら帽子を目深にかぶり、せっせと草むしりに勤しんでいた。夏の日差しが、彼の背中を温める。
彼の脳裏には、あの奇妙な居酒屋領主館で食べた料理の味が、鮮やかに蘇る。特に、スパイシーな香りと複雑な味わいのカレーチャーハンは、忘れられないほど美味だった。
しかし、あの料理にもこの畑で育てた野菜が使われていたという衝撃の真実を知って以来、彼は率先して両親の畑を手伝うようになった。草一本たりとも無駄にはしない、という使命感にも似た情熱で、彼は黙々と作業をこなす。
時々、父親に「またあそこに行きたい!」と思わずせっついたら、
「ほぅ……。お前ももう年頃ということか? 惚れたな? あのツインテールの嬢ちゃんに?」
火酒で酔った父親は、小指を立てながらニヤニヤと笑った。すると、背後からセスの母親が猛然と現れ、父親の酒が回って真っ赤な耳を掴み引っ張った。
「バカなこと言ってんじゃないわよ! この酔っ払いが!」
「イデデデデデっ! おっ母っ、なにすんだ?!」
また始まった。とセスは呆れたが、確かにあのお嬢様は可愛かった。金色の髪をくるくると巻いたツインテールは、まるで人形のようだ。
しかし、彼女はおそらく、とてつもなく格式の高い貴族令嬢。泥にまみれて働く農民の自分とは、あまりに住む世界が違うのだ。そう思い、夕食の乳粥を啜る。淡い甘さの乳粥は、どこか物足りない。
やはり、あのカレーチャーハン、もう一度食べたいなぁ。セスの心は、あの未知の味に囚われたままだった。
ある日、驚くべきことが起こった。領主であるラルフ・ドーソンが、セスの住む村に突然来訪したのだ。村の大人たちは、どうにかして西に広がる鬱蒼とした森を開墾できないか、と領主様に陳情していたらしい。
すると、何人かの貴族たちが、米を作るなら出資してやると提案があったのだとか。
出資、つまり借金ということではないのか? セスは心配になった。いつだったか、隣村が飢饉に見舞われ、借金を膨れ上がらせた農民が借金奴隷に落ちた、という悲惨な話を聞いたことがあったからだ。
村の広場に集まった村人たちの中心で、ラルフが明るい声で叫んだ。
「はいよー! みんな離れて離れて! おー、セス君! 久しぶり! そこにいると危ないから、耳を塞いで、口を開けて、伏せて!」
領主様が、自分の名前を呼んだことに、セスは驚いた。「え? セス、領主さまと知り合いなの?」と、村の子供たちに好奇の目を向けられたが、それどころではない。
耳を塞いで口を開ける? そして伏せる。奇妙な指示に戸惑いながらも、ラルフの真剣な表情を見て、セスは言われた通りに身を伏せた。
「ほらほら! 言うことを聞け! マジでそうしないと、鼓膜が破れるから」
ラルフの言葉に、村人たちは慌てて身を伏せる。
そして、村人たちはその直後に、戦略兵器としての大魔道士の恐ろしさを目の当たりにした。
轟音と共に、ついさっきまでそこにあった鬱蒼とした森が、根こそぎ吹き飛ばされ、広大な更地へと変貌したのだ。
舞い上がる爆炎と土煙が空を覆い、辺り一帯はまるで夕方のように暗くなった。熱波が地面を這い、村人たちの頬を撫でる。その光景は、畏怖と感動をもって、彼らの脳裏に深く刻み込まれた。
すると、魔力枯渇になったラルフは、バタリ、と力尽きたように倒れ込んだ。
メイドのアンナと金髪ドリルツインテールの娘が、まるで屠殺された牛のようにラルフを雑に魔導車の後部座席に放り込み、そのまま去って行った。
去り際に、ドリルツインテールの少女が、フン、と鼻を鳴らしたように見えたのは、セスの気のせいだろうか。
「なんだったんだ?!」
セスは呆然と立ち尽くし、ただそれだけを思った。村人たちも、語る言葉を持たず、呆然と立ち尽くしていた。彼らの心には、恐怖と同時に、領主への絶対的な信頼が芽生えていた。
村人総出での水田としての開墾が進むにつれ、父親のドッヂも忙しくなった。その代わりに、セスが居酒屋領主館への野菜の納品を任されるようになった。荷馬車をゆっくりゆっくり歩かせ、半日かけて居酒屋領主館にたどり着く。街道沿いには、開墾された広大な農地が広がり、そこに新たな村が築かれつつあった。
そして、慣れた勝手口を叩く。木の扉の向こうからは、いつも賑やかな喧騒が聞こえてくる。
「よっ! セス君! 注文してたニンニクは?」
いつものように、お日様みたいな笑顔の領主様が顔を出す。こんな人が、まさかあんなにも恐ろしい魔法を使う大魔道士様だとは、セスはよく分からなくなってしまう。そのギャップが、彼を混乱させる。
「ニンニクは大量です。譲って頂いた、成長促進ポーションがかなり効きましたね。ついでに、ナスも大量です」
セスは、収穫したばかりのニンニクとナスを差し出した。土の香りと、野菜の瑞々しい香りが混じり合う。
「おー! いいねぇ。麻婆茄子でも作るか! ささっ、また好きなの食べてって!」
ラルフがセスの背中を押し、客席に向かわせる。その手に、しっかり金貨を二枚握らせてくれた。その金貨の重みは、セスの心に、ささやかな喜びと誇りをもたらした。
「よ! セス。お疲れっす!」
声をかけてきたのは、製麺工場のボス、トム君だ。彼は、いつも明るく、気さくに話しかけてくれる。なんだかセスは、最近、兄がいたらこんな感じなのかなぁ、とトムに対してある種の親愛を感じていた。
ここで働く孤児たちも、セスを見つけると、元気な声で挨拶をしてくれる。この居酒屋領主館は、セスの居場所の一つになりつつあった。
さて、今夜は何を食べようか? セスはウキウキしながらメニューを開く。ずらりと並んだ料理の名前は、どれも魅力的だ。
するとそこへ、突然、あの金髪ドリルツインテールの令嬢が現れた。彼女の視線は、メニューを睨むセスに突き刺さる。
「カレーにしないの?」
その一言に、セスは身構えた。確かに、カレーは魅力的だが……、なんとなく今日は違う物が食べたいような。しかし、彼女のカレー勧誘を断ると後が怖いことも、もう知っている。彼女のカレーへの情熱は、半端ないのだ。
セスは、意を決して答えた。
「カレーは美味しいのですけど、僕はカレーを好きでい続ける為にも、他の料理も食べておきたいのです。エリカ様のカレーは特別です。……なので、今日は敢えて別の料理を口にしたいです」
すると、目を見開いて、口を斜めに歪ませたエリカが、ニヒルに微笑んだ。その表情は、どこか悪魔的でさえある。
「ふんっ、アンタ、なかなか見込みあるじゃない? 貴族社会でも生きていけるわよ」
何故かセスは気に入られたらしい。ここに通うようになって、齢十歳にして、謎の処世術を身に付けたセスだった。彼は、この奇妙な場所の流儀に、少しずつ慣れていっているようだった。
そして、エリカは去り際に、ポツリと言葉を残した。
「アンタの所のナスを使った、麻婆茄子、割と私は、好きよ」
カッコいいんだかなんなんだかわからないが、とりあえずこの奇妙な場所の流儀に乗ることにしたセスだった。彼の前には、まだ見ぬ料理の世界が広がっている。




