115.タマゴ・シンギュラリティ
「まず、金融機関を別に創設しよう。会頭は……、エヴリン! 君を任命する」
執務室。ラルフは、突如として口にした言葉に、メイドのアンナと、そして指名された当のエヴリンを困惑させた。エヴリンは、かつて孤児院を運営していたシスターだ。
「あっ、あのぅ。なぜ私が?」
エヴリンは、目を丸くして尋ねた。
「最近、出番が少なかったからな」
ラルフは、至って真面目な顔で答えた。その言葉に、エヴリンは戸惑いと、そしてどこか諦めの表情で頷いた。
「旦那様、大丈夫なんですか?」
アンナが、小声で問いかけた。その声には、明らかな不安が滲んでいる。
「なにが?」
ラルフは、心底不思議そうに首を傾げた。
「いえ、あの、その。彼女は、前科が……」
アンナの言葉に、ラルフはハッと思い出した。あー。そういえば、孤児院の運営費を横領していたんだった! 横領の前科者を金融機関の会頭に据えるなど、普通の感覚ではない。しかし、ラルフは気にする素振りも見せない。
「まっ! いいさ!」
「えー」
アンナの呆れた声にも、ラルフは動じない。
「しっかりまとまった給金渡してたし、最近では役者に入れ込むこともなく、節度をわきまえて観劇してるんだろ? 過去の過ちをいつまで引きずるのはいかんよー。僕は器のデカい男なのさ!」
(自分の陶芸作品に安値がついてふて寝してた人が何が器だ?! お猪口ではないか。いや、お猪口の裏だ!)
アンナは、心の中で突っ込んだが、口にはしなかった。ラルフの「器のデカさ」は、往々にして彼の気まぐれや、無頓着さの裏返しであることが多い。
「そんで。次に問題なのは、商業ギルドと冒険者ギルドの連携だな。これに関しては新しい魔導具を作ってみよう!」
ラルフは、そう宣言すると、早速物置からガチャガチャと怪しげな材料を引っ張り出してきた。執務机の上には、魔石や、奇妙な形状の部材、そして見慣れない工具が散乱する。その光景を見たアンナは、眉間に深い皺を寄せた。
「やはり通信は必要になるとは思ってたんだよねぇ。魔石同士の魔力同調性を利用して、それを魔導術式転嫁をどうにかこうにか魔導回路で振動に変換するとぉ。スピーカーとマイクになってぇ……。やはり携帯サイズにするか? スマホは……ん?」
ラルフは、ブツブツと独り言を言いながら、何かの回路を組んでいた。
そして、彼の脳裏に、前世の記憶が蘇る。チリっとこめかみが痛んだ。
休日の日。ゴロゴロと動画を観ていた時、突然目の前のスマホが着信を告げ、画面に表示される、
"課長"の文字……。
関西への旅行中にクライアントからの連絡が入り、友人たちを待たせ、京都駅のホームの隅っこで三十分もの電話対応に追われた苦い記憶が、鮮明にフラッシュバックした。
ドガシャ!
ラルフは、製作途中だった魔導具を、手元にあったハンマーで叩き壊した。その金属音が、静かな執務室に響き渡る。
「どうなさいました?」
アンナは、無表情で尋ねた。その声には、驚きすら見えない。慣れた光景なのだろう。
「いかんいかん。いかんのだよ、アンナ君。技術革新は、必ずしも人々の幸福になるとは限らんのだよ!」
ラルフの言葉は、アンナには理解できなかった。なぜ、目の前の便利そうな道具を破壊するのか。しかし、彼の言葉の裏に潜む切実さは、なんとなく伝わってきた。彼の表情は、まるで未来の悲劇を見たかのように深刻だった。
ラルフの前世において、社会は光通信インフラの整備、半導体の普及、さらには人工知能(AI)の登場といった、かつてない速度での技術革新を経験した。
これにより、通信、ロジスティクス、工業生産といった基幹産業は極限まで効率化され、社会全体がハイパーコネクテッドでハイスピードなエコシステムへと変貌を遂げた。この急激な変革は、社会構造そのものに深刻な影響を及ぼした。
具体的には、生産性の向上は労働需要の質的・量的変化を促し、旧来型の労働市場に構造的失業をもたらした。
また、グローバルな競争原理とアルゴリズムによる最適化は、労働者個人に過剰な効率性と生産性を要求するようになった。結果として、このエコシステムに深く依存する人々は、その生存と社会的地位を維持するため、日夜過重労働に勤しまなければならないという、一種の「労働の罠」に陥っていた。
これは、技術がもたらすはずの「解放」とは裏腹に、むしろ新たな「拘束」を生み出した典型的な事例と言えるだろう。
ラルフは、このような技術的進歩が必ずしも人類全体の幸福に直結しないというジレンマを、身をもって体験していた。
むしろ、過度な効率性追求が、社会全体にストレスと不均衡をもたらし、個人のウェルビーイングを損なう可能性を深く認識していたのだ。
故に、彼は拳を握りしめ、かつての世界が辿った道を、この新たな世界に到来させてなるものか! と、その胸に固く誓った。
そして、彼は熟考の末、最も穏便で、しかし効果的な解決策を思いつく。
「商業ギルドを、冒険者ギルドの隣にお引越しさせよう」
至って無難な、しかし本質的な提案だった。物理的な距離を縮めることで、連携を強化する。
「財源はどうするのです?」
アンナは、冷静に現実的な問いを投げかけた。ギルドの移転には、莫大な費用がかかる。
「それは僕のポケットマネーで出そう。実は、僕が開発に携わっていて、つい先日発売されたばかりの、
"全自動タマゴ割り機"が売行き好調でな。国外からも注文が殺到しているのだよ!」
ラルフは、得意げに胸を張った。
アンナは、いつの間にそんなムダそうなものを作っていたんだ? と首を傾げたが、まあ、いつものことだ。彼の天才的な発想力と、それに見合わない(ように見える)実用性のなさには、今更驚くこともない。
「ま! それだけでもかなり商業ギルドの負担は減らせるだろ。多分……」
ラルフの言葉には、わずかな不安が混じる。
「それなら良いのですが……。それより旦那様、そろそろお昼です。昼食の支度をしますので」
アンナは、淡々と告げた。彼女にとって、主人の突飛な発言や行動は、もはや日常の一部だ。
「いや! 今日は、下で食べよう。今日はタマゴ料理づくしの予定なんだ」
ラルフは、なぜか慌てたように言った。
「は?」
アンナは、思わず素っ頓狂な声を出した。
「う、うむ。実は、"全自動タマゴ割り機"が暴走して。厨房に、割った生卵が、その、大量にあるんだ……」
ラルフは、視線を泳がせながら、小さな声で白状した。
(そんなもの販売して大丈夫なのかよ?)
アンナは、心の中で鋭く突っ込んだ。彼の技術革新は、どうやら人々の幸福どころか、自らの厨房にすら混乱をもたらしているようだ。




