*16* 一人と一人と一頭、精霊の悪戯に惑う。
意識が浮上した瞬間、視界いっぱいにエリックの心配そうな顔が映る。その後ろにややボロい診察室の天井が見えた。手首に圧迫感があるから脈を取っていた最中らしい。視線をエリックから少しずらして窓の方を見ると、すでに外は薄暗くなっている。
「……何がどうなってこの状況?」
「あぁ良かった、気が付いたかマリ。急に倒れたのを憶えているか?」
「いや……悪ぃ、全然」
「そうか、別に目覚めたのだから謝る必要はない。倒れてからそろそろ四時間が経っているぞ」
「よっ――四時間?」
「ああ。吐き気や頭痛、倦怠感などはあるか?」
「な、ない、けど……四時間ってマジか……」
時間の経過に驚くこちらに苦笑を向けつつ、脈を取っていた手首を離して起き上がるのを手伝ってくれるエリック。駄神の介入があったとはいえ、今まで気絶するようなことがなかったため、全く憶えていない。
しかもこんなに時間が経っているのは初めてだ。いつもなら巻き込まれた時と同じ時間軸に戻ってくるのに……この時点で滅茶苦茶嫌な予感がする。
起き上がったところで軽い目眩を感じて、念のために立ち上がらないで側頭部を押さえるに留めた。その判断で間違っていなかったのか、小さく頷いたエリックが、私の下瞼を指で押し下げて目を確認する。
「うん、瞳孔も脈も問題ないな。マリは多忙だから、知らず知らずのうちに疲れが溜まっているのかもしれない。無理は禁物だ」
「あぁ、うん。そんなに無理してた気はなかったんだけど」
「倒れて運ばれてくる患者の半数はそう言うんだ。もう半数はしばらく目を覚まさないけどな。処置中に暴れられるよりはいいから、薬でより深く眠らせることもあるが」
そんな風にサラッと怖い医者ジョークを口にするエリックだが、その表情はまだどこか不安そうだ。というか、知り合ったばかりのイタチはともかく、この世で一番私のことを心配してくれる相棒の姿が見えない。
倒れた時は一緒にいたはずだから、パニックになって暴れたりでもしたんだろうか。だとしたら悪いことをした。早く駄神のせいだったって説明して、お騒がせイタチにも名前をつけて、今後のことについて話し合わないとだ。
「そういえば忠太は? いきなり私が倒れたとか、大騒ぎして大変だったろ。もしかしてイタチと一緒にオニキスに別室で叱られてたりするのか?」
自分で口にしながら、脳内でパニックを起こして飛び回る忠太の映像が鮮明に想像でき、申し訳ない声音をだすはずが笑いを含んだものになってしまう。けれどこちらの暢気な空気とは裏腹にエリックが表情を固くする。
その表情を見た途端に胃の中に氷の塊を投げ込まれた気がして、目眩も忘れて診察台から立ち上がり、奥の部屋に駆け込んだ。するとそこには背中に眠るイタチを乗せ、白い毛玉でお手玉をする男鹿の姿があった。
「ええい、このっ、ちょこまかするなと言うておろうが。コラ、蔓を齧るな! お前にとって有害であったらどうするのだ!」
さっきまで見ていた過去の世界とはまた違った焦りが含まれた声は、日曜の公園で孫にまとわりつかれている老人を彷彿とさせた。ひとまず忠太が無事っぽいことにホッとしたものの、何だか奇妙だ。
先にこちらに気付いたのは、このカオスを生み出した戦犯でありながら、暢気に背中で眠っていたイタチである。ひらりと慌てふためく男鹿の背から飛び降りると、一目散に駆け寄ってきて再び私の襟巻きになった。
調子の良いイタチの鼻先に強めのデコピンを見舞っている間に、ついに捕獲したのか、丸っと包まれたハツカネズミは、蔓を齧らないよう鼻先と尻尾だけを出した緑のマリモ状態にされてしまった。
けれど気のせいでなければ、そのマリモは忠太を包みこんでいるにしては小さく見える。はみ出す尻尾も細くて短いような……?
「オニキス、それって――」
「おお、マリ! やっと目覚めたか!!」
「あ、ああ。何か気絶してる間にうちのが暴れてたみたいでごめん。落ち着けるために話がしたいから、忠太をこっちに貸してくれないか?」
凄い勢いで振り向いたはずのオニキスは、私の言葉にすっと視線を逸らして忠太マリモを遠ざけた。意味が分からない。診察室から飛び出した私を追って部屋に入ってきたエリックを振り返るが、何故かエリックまで目を逸らす。
「ふ、二人して何なんだよその反応は。まさか忠太に何かあったのか」
「何か――いや、確かに何もないとは言わぬが、そこまで大したことではない。そうだなエリック?」
「は、はい、勿論ですオニキス様。それよりもマリ、まだ診察の途中だ。もう少し詳しく様子を見たいから診察室に戻ろう。な?」
歯切れの悪い二人の反応に嫌な予感がする。これまでの経験上、駄神の忠告はいつだって遅いのだ。回避ギリギリか間に合わないやつ。それはあいつが人の苦労に愉悦を見出すクソ野郎だからだ。
こちらが聞きたい答えをくれない二人に痺れを切らし、首からイタチを引っ剥がしてエリックの腕に押し付け、忠太マリモを天井近くまで掲げるオニキスの背中によじ登って、力いっぱい蔓を手繰り寄せた。
そもそもオニキス達にしても、当たり前だが最初から隠しきれるとは思っていない。途中からは力を込めなくてもすんなり手繰り寄せられた。緑のマリモから出た小さなピンク色の鼻と尻尾。でも違う。ここまで近くに引き寄せて分からないはずがない。明らかに大きさが違う。
震える手で絡まった蔓を解いていくと、小さな小さな手が伸びてきて、私の指先を掴んだ。全身真っ白なのは変わらない。可愛らしいのも変わらない。ただ、元の忠太の大きさの半分くらいのサイズになっているだけで。
つぶらな紅い双眸が私を映して瞬く。無垢な目ってこういうのを言うんだろうと思う。要するに、赤ちゃん。瞳からいつもの思慮深さを感じない。
でも可愛い。とんでもなく可愛い。いつも可愛いとは思っているけど、それにしたって可愛い。嫌が本人に内緒で見せてもらうアルバムの幼少期の写真って、きっとこんな感じだ。ないはずの忠太の幼少期にときめく。
混乱する私の横から遠慮がちに伸びてきた蔓にスマホが握られており、そこには赤い文字でこう書かれていた。
***ペナルティ発生***
〝他の上級精霊の眷属についての重大秘密項目閲覧〟
***ペナルティ***
〝担当中の上級精霊より守護対象者及び、守護精霊の大幅減点〟
***解除条件***
〝上級精霊同士の話し合い又は一定時間の経過〟
全文読んで今度は違う意味合いで震えながらオニキスを見ると、彼はゆっくりと首を横に振り、さらに恐ろしい追い打ちをかけてきた。
「今のチュータは幼すぎて、この板での意思の疎通が出来ぬようなのだ……」




