*15* 一人、不思議時空に迷い込む。
部屋に飛び込んできたエリックを出迎え、食べる分のお菓子を盛りつけた皿から一つ取り、その口に突っ込んでやろうとしたその時、私の首に巻き付いてお菓子を食べていたイタチのキャスケットが……いや、額の魔石が光った。
直後にまるで鉄棒で勢い良く前回りをしたみたいな酷い目眩を感じて、ぐるんと天地がひっくり返る。顔面からこけるなんて冗談じゃないと手を前に出したら、何故か次の瞬間には空を見上げて腕を伸ばしていた。
待って、今どんなこけ方をしたんだ? 全然痛みはないけどもしかして咄嗟に前転したのか――と、そんな疑問に目を白黒させていたのも束の間。空に伸ばした自分の手は何故か血塗れ。
何か掴もうとしているようなのに、身体は地面にめり込みそうなほど重くて、腕を伸ばしているだけでダルかった。おまけに伸ばしている感覚はあるのに、一目で自分のものではないと分かるほど手首と指が細くて、掌も小さい。
明らかに自分のものじゃない手だ。真っ白な空間じゃないだけで、これってまた駄神の悪趣味な遊びの類か――?
『フレデリカ!』
うんざりして放棄しかけた思考に、聞き覚えのある声が割り込んでくる。その声が呼ぶ名前にも聞き覚えがある気がして、答えを探して伸ばしたままの腕を見上げていると、血に塗れた手を包むように蔓が巻き付いてきた。
『もう少しで、お前が尽力したこの世界の医術が変わるのだぞ。それを見ずに、こんな愚か者共に殺されるなど――、』
ギリギリと音がしそうなほど強く、強く、巻き付く蔓。だけど縋り付く子供みたいに無力な声。
(ああ……お願いだから、そんな風に嘆かないで。貴男が泣くと、この決心が揺らいでしまうから)
ふと頭の中に浮かんできた言葉は、当然私のものじゃない。これはたぶん……フレデリカだ。内側から泡のように儚く響く感情に声はない。第一声にしようにも、この喉の奥にはもう血が溜まってそれが出来ないのだ。
『頼む、頼むっ……我を置いて……逝かないでくれ、フレデリカ』
必死に縋るその声に彼女の言葉を伝えてやりたいけど、ここは恐らく今よりもずっとずっと過去の世界線。黒塗りのライブラリーに名前が載っているということは、そういうことだ。どういうわけかさっぱりだが、今の私は過去の彼女に憑依している状態らしい。
(優しい貴男を騙すような真似をして、ごめんなさい。こんな形で遺していって、ごめんなさい。だけど私は……どうしても諦めきれなかった)
全然知らない〝聖女〟の声。こっちの世界に転生した時も、最初から中級精霊を与えられた〝持っていた人〟の声。不思議と、私という異物を突き抜けるようにして内側から溢れるこれは、当時の彼女の感情だと思えた。
ただ騙すという不穏な表現がどうにも気になる。何でこの人は守護精霊を騙す必要がある? これまで私と担当は違っても、同じくらい最悪な駄神に弄ばれる中で、二人三脚で生きてきた相棒なんじゃないのか? それを裏切ってまで欲しいものって何なんだよ……。
聞こえてくるオニキスの『死なないでくれ、生きたいと願ってくれ』という懇願に、顔も知らない聖女に対しての憤りが膨らんでいく。でも私の抱く怒りはきっと正しくない。私はこの人が味わってきた痛みも、苦しみも、憎しみも、悲しみも知らないから、オニキスへの裏切りを罵る権利がない。
――でも。
『上級精霊よ、見ているのだろう!? 我が₪₪₱▼₫₣₪■℘℘を全て消費して構わない! フレデリカを生かしてくれ! 彼女のいない世界に留まったところで、我の存在に意味などない!!』
いつも落ち着いたオニキスの悲壮な叫びに胸が張り裂けそうだ。視界が揺れる。意識が途切れようとしているのか、感情的になったオニキスが眠ろうとする彼女を揺り起こそうとしているのか。
わざわざ〝我の〟と言うからには、聞き取れない部分はきっと守護精霊値だと思う。忠太がずっと大事に貯めているやつで、いつか忠太の願いを叶えるために使う大切なもの。
聖女と呼ばれる特別な人間を守護するオニキスのそれなら、どれくらいの桁数になっているのか見当もつかない。そんな大切なものを全部消費しても構わないというのは、どれくらい覚悟がいることだろう。
だけど無慈悲にもオニキスの声はどんどん遠ざかって、この身体は重たくなっていく。全身が水を吸った綿みたいだ。少なくとも₪₪₱▼₫₣₪■℘℘が消費されている気配はない。
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい)
彼女は謝り続けている。声に出来ないのを言い訳するように、自分の中で。オニキスが泣いてる。どうか泣かないでくれと願うのは、私だろうか、フレデリカだろうか。あれ? どっちが私の感情なんだか――……分か、ら……な。
――、
――――、
――――――パパパパァンッ!!
突然の破裂音に驚いて目を開けると、そこはあまり見慣れたくはない白い空間で。悪夢から飛び起きた私の目の前には、使用済みクラッカーを四本持った金髪碧眼エルフが立っていた――というか、別次元の悪夢に飛んできただけだなこれ。
「は〜い、はい、はい。番組の途中ですが失礼しますよ〜!」
「…………」
「おやおや、わたしの愛し子はまだ寝ぼけていらっしゃるんですか? まぁ今回は幼児化していないだけ、前回よりは成長を感じられますが」
「…………」
「うーん、我ながら結構良いところで助けたつもりだっただけに、だんまりとは寂しいですね。あ、それともさっきの時空で精神がちょっぴり削られちゃいましたか? だとしたら少々厄介だなぁ」
こちらの呆れからくる無反応が、駄神には精神が削れた廃人手前に見えたらしい。腹が立ったので覗き込んでくる顔面を殴ろうかと思ったら、殺気が目に込もってしまったのか「おや、元気じゃないですか」と笑って後ろに下がる。
「元気なわけあるか。こっちはいつも通り何が何だか分からないんだ。ここはお前の空間だとして、さっきのはどこなんだよ」
「この空間に驚いてくれないのは、わたしと貴方の仲が深まったということでしょうか。照れますね」
「気色悪いこと言ってるとぶん殴るぞ」
「ふふ、つれない人ですね。でも貴方のそういうところも好ましいので良いでしょう。さっきの場所は心想、もしくは追想世界とでも言いましょうか。要するに〝今更どうしようもない〟物事の墓場です」
あっけらかんと物騒なワードをぶち込む駄神は今日も楽しげだ。けれどその表情が心底腹立たしいと思う半面、あの空間からこちらに引っ張り込まれたことに助かったのも事実。
仕方ないので、今回は顔面をぶん殴らないでいてやることにした。ただし次回は殴る。二回。
「何でそんな場所に飛ばされなきゃならないんだよ。どうせお前のせいだろ? 今度はどんな悪趣味な遊びだよ」
「悪趣味な遊びが全部わたしの仕業とは心外ですねぇ。いつもなら否定はしませんが、今回はわたしのせいではありませんよ。貴方が始末せずに拾ってきたのがいるでしょう。あれの仕業です」
「は? あのイタチの?」
「カーバンクルをイタチと呼ぶのは貴方くらいだと思いますけど。ええ、あのイタチのです。あれは他者の心をも暴く。懐いた貴方のためならば特にね」
そう言ってニヤリと笑う駄神の顔面を、直前の決意も忘れてごく自然にぶん殴ろうとした私の拳は、憎たらしいくらいするりと躱されて。空振ってよろけた耳元で「名付けはお早めに」と囁く声と共に、意識が現実へと浮上する。




