8 最終面接(1)
入社試験を受けに行ったはずが、気が付いたら20球の変化球を投じていた楓。
翌日、楓の電話が鳴った。昨日面接会場にいた人事担当者である。
「再来週の日曜なのですが、最終選考を行いたく、弊社の事務所までお越しください。」
そして遠慮がちに続ける。
「そのときなのですが……ユニフォームを持参いただけますか?更衣室はこちらで用意いたしますので」
これは球団職員としての最終選考の案内、のはずである。
人事担当者としても前代未聞なのだろう。戸惑いながら話しているのが、電話越しに分かる。
しかしそれが、「普通の職員としてではなく、野球選手として球団が楓に興味を持っている」ことの何よりの証左だった。
電話をうけた次の瞬間、握りしめたスマートフォンであかねに電話をかけていた。
事の顛末を聞いたあかねは、目を丸くしつつも、アドバイスをいくつかくれた。
・当日は一応リクルートスーツを着ていく事
・志望動機と自己PRはちゃんと覚えておく事
・約束の時間の30分前には最寄駅についておく事
「それから…」と付け加えると、まくし立てるように最後のアドバイスを早口で続けた。
「いい?楓はバッターを追い込むと遊び球なしで勝負しようとするけど、それが通用するのは高校野球までだからね。『次を振らせるための一球』を忘れないで」
「それから、牽制球を投げるときは、刺せそうな時ほど慎重に!何回もボークやらかしてるのを忘れないで。」
「ランナーを背負ったときこそ、バッターに集中すること!三塁ランナーひとりだけ返したとしても、大抵の場合は責められるものじゃない!」
そして、
「私にもよくわからないけど、これはただの最終面接じゃないみたい。楓の就職活動、ついにきたね!」
と告げた。
普通、こんな状況を聞いても信じられないか、理解できないかだろう。しかしあかねは突飛な状況にも、少し驚いた顔を見せただけで、次の瞬間には勝ち抜くために最善の策をくれる。
大学野球のベンチ入り選手数は25人と言われているが、野球部26人目の選手、マネージャーここに極まれりである。
あかねの、その懐の大きさが楓は好きだった。
行きの電車の中で何度も読み直したためか、A5の紙にびっしりとアドバイスが書かれた”あかねメモ”はじんわりと汗ばんでいた。それをぎゅっと握りしめて、リクルートスーツのポケットにしまう。
真っ黒なリクルートスーツに、大学野球部のロゴの入ったボストンバックを携えた”シューカツ生”は、口を真一文字に結んだまま、球団事務所の前に立った。
最終選考会場と告げられた球団事務所で最初に通されたのは、更衣室だった。
「ドルフィンズ女子更衣室」と書かれたドアを開けると、6畳ほどの小部屋の両端に、ロッカーが3つずつ並んでいる簡素な部屋だった。それもそうだ。ドルフィンズの所属女子選手は、1名である。
使用を許された一番手前の、名前が空欄になったロッカーを開く。その隣には、明らかに何者かが日常的に使っているような、かわいらしいステッカーが扉に張ってあった。
ちょうど目の高さに記されているのは、「#77」の文字。
ドルフィンズの紅一点、江川希のロッカーであった。
憧れ続けたプロの世界。
その世界のほんの端っこかもしれないが、プロの女子選手が使用する更衣室に自分はいる。楓はそのことを束の間にかみしめていた。
――と、ドアのあく音がした。
楓は、ドアが開く音の方を振り向く。
私服姿の若い女性と目が合った。
音の主は、ドルフィンズ唯一の女性選手、江川希だった。
肩甲骨あたりまで伸びた艶のあるストレートヘアが目を引き、大きな瞳は薄茶色で吸い込まれそうなくらい透き通っている。一見ハーフかクォーターかと見間違うような目鼻立ちのくっきりした顔立ちで、楓の顔を覗き込む。
「あ――」
思わず口を開いたのは、希が先だった。
一瞬の静寂の後、何か合点が言ったような表情になる。
「ああ!この前スーツでグラウンドにいた人!」
野球経験者特有の腹から出た、しかし年相応の女性らしい透き通った声で希は言った。
「あ、えっと……」
対照的に、楓は思わずあっけにとられて言葉を失う。
「もしかして、インターンシップとかの人?いま体験入団みたいなやつやってたっけ?」
「このチームの人、不親切でしょー!まだ女慣れしてないっていうかさ。」
「あたしは江川希。ドルフィンズの選手。わからないことがあったら、何でも聞いて!ね!」
楓に口を挟む隙を与えず、希が続けて、楓の顔を覗き込む。
しばしの静寂に耐えかねたように、今度は楓が口を開いた。
「なんていうか、入社試験を受けに来たんだけど、ユニフォームをもって来いって…」
再びしばしの静寂の後、
「ふぅん……入社試験……」
突然そっけない口調になり、楓の横を通り抜けて、隣のロッカーに向かう希。
「#77」と書かれたロッカーのカギを手慣れた手つきで開けながら、今度はロッカーの中を見たまま視線を変えずに続ける。
「それって、トライアウトってこと?」
再び静寂――。
今度はその静寂に耐えかねた楓が口を開く。
「ここで着替えろって……」
手持ち無沙汰気味にロッカーの中を整理しながら、依然として視線を動かさずに聞いていた希が、突然楓の方に向き直って言う。
「じゃあ、もしかしたら選手として採用されるかもってことじゃん!」
戸惑う表情の楓に構わず言葉を続ける。
「もしそうなったら、よろしくね!」
華やぐような明るい表情で目の前に差し出された手に、楓の体が一瞬びくつく。
力なく握ったその手を、力強く希は握り返した。
「トライアウト、頑張って!応援してる!」
「あ、ありがとうございます!頑張ります!」
楓は自分でも驚くほど声が裏返っていた。
緊張のあまり、握り返された手の力の強さが、常識に外れたものなのかどうか、よくわからなかった。




